【01-11教会の演劇】典礼劇の言語:聖職者のことばと民衆のことば2011/10/02 23:59

愚人祭でとり行われていた儀式には確かに演劇的要素が含まれているが、これを独立した演劇ととらえるのは行き過ぎた見方となるだろう。愚人祭で役者として何かを演じていたのはロバあるいは子供たちの司教に限られており、儀式のなかで演劇的な部分というのは限られていた。

ここで重要なのは、その見かけの猥雑さ、世俗性にも関わらず、愚人祭が聖職者たちによって担われていたという事実である。いわゆる典礼劇にせよ、愚人祭にせよ、教会の中で行われるあらゆる演劇的パフォーマンスは、聖職者が独占的役割を担っていたのである。こうした作品はラテン語でもっぱら記述されていたことが、この何よりの証拠である。「聖墓訪問」を記録している『聖務規則集』の中で、聖エテルウォルドは「無知な民衆と新しい修道僧の信仰を確かなものとするため」[ad fidem indocti vulgi ac neofitorum corroborandam]この典礼劇が作られたと記している。この記述が、典礼劇が文盲の民衆の教化を目的としているという説明の根拠のひとつとなっている。しかし« indocti vulgi »は民衆だけでなく、教養の乏しい下級聖職者を指していた可能性もある。そもそも典礼劇が聖書の内容を伝えるという民衆教化を第一義としていたならば、一般信徒には理解できないラテン語でそのメッセージを伝えるというのは理屈に合わない。また十二世紀になるまで、典礼劇のテクストはすべて歌われていた。音楽は聴衆の感覚に直接訴えかけるが、テクストの内容理解の補助手段となるとは思えない。

ラテン語と歌は、典礼儀式とその祭式者(すなわち聖職者)と固く結びついていたため、俗語による典礼劇はなかなか現れなかった。俗語が用いられた最初の劇作品は、十一世紀末の『花婿の劇』Sponsusである。この劇は「マタイ伝」第25章にある「賢い花嫁と愚かな花嫁」の例え話に基づいている。この典礼劇ではラテン語で書かれた詩行に、フランス語の翻訳が挿入されている。しかしそれは単なる翻訳ではない。ラテン語のテクスト全体が、たった一つのフランス語のリフレイン句によって要約されていることもあれば、ラテン語のテクストには登場しない人物(大天使ガブリエルや香油の商人たち)がラテン語を一切使わず、フランス語だけで話すこともある。卓越した文学性と音楽性を有する『花婿の劇』は、以下の二つの点で演劇史的な重要性を持っている。まずこの作品は聖書の譬え話を題材とする最初の劇作品であることだ。それまでの典礼劇はすべて、歴史的事実とみなされていた聖書のエピソードを演劇化したものだった。第二の点は、『花婿の劇』はラテン語を理解しない観客にも開かれた最初の演劇作品であるという点である。

アベラール*の弟子だったヒラリウスHilariusは、典礼劇の作者のなかでその名が知られている最初の、そして唯一の人物である。彼の作品のなかにはときおりフランス語が取り入れられている。ラテン語ではじまった台詞が途中からフランス語に変わり、フランス語で締めくくられる箇所がいくつかある。しかしそれを『花婿の劇』でのフランス語の導入とは同列に考えることはできない。ヒラリウスの作品の成立年代は『花婿の劇』よりも前だが(1125から1150年)、そこで使われるフランス語は、ある種の文体上の効果を狙った詰め物のようなものに過ぎず、ラテン語を話さない観客の理解に貢献するものではない。

結局のところ、12世紀になってもなお、教会で上演されていた典礼劇は本質的に、聖職者たちのために、聖職者たちによって書かれた演劇だったのである。もし一般信徒が観客としてその上演に立ち会っていたとしても、彼らは主要な観客とは見なされていなかった。教会で上演に立ち会った一般信徒は、音楽に心動かされ、その所作に魅了されたかもしれない。しかし彼らはそこで語られるテクストのニュアンスを理解することはできなかった。そもそも民衆の理解に配慮することなく典礼劇は制作され、上演されていたのである。

しかし12世紀中頃に極めて重要な例外的作品が現れる。それは『アダン劇』である。フランス語で全編が書かれたこの傑作は教会の典礼劇の系譜に属している。

*Pierre Abélard (1079-1142)フランスの初期スコラ神学者,哲学者。ラテン名はペトルス・アベラルドゥス Petrus Abaelardus。ナントに近いパレに生まれた。1108年ころパリに出て弟子を集め、神学と哲学(弁証術)を教える。ここで起こったエロイーズ との相愛事件は有名である。

【01-12教会の演劇】『アダン劇』、ことばによって獲得された自由2011/10/09 01:40

『アダン劇*(アダム劇)』が教会の典礼劇に属するという見方には異論があるかもしれない。ギュスタヴ・コエンはこの作品を準典礼劇と呼び、その後、多くの研究者は『アダン劇』に対してこの呼称を用いた。しかし準典礼劇というジャンルは、この『アダン劇』一作を説明するだけのためにわざわざ作られたようにも思われる。『アダン劇』はそれまでの典礼劇のように教会建築の内部で上演されたのではなく、教会前の広場で上演されたという仮説がこれまで広く支持されてきた。演劇が教会堂の中から徐々にその外側で上演されるようになり、一世紀ないし二世紀のあいだ、教会堂前の広場で上演される時代が続いたのち、都市の大広場へと上演の場が移っていくという道筋を思い描く研究者たちにとってこの仮説には説得力があった。

しかし最近の研究では、上記の仮説にあるような流れで、演劇上演の場が時代とともに移り変わることはなかったと考えられている。教会前の広場で演劇上演が行われたという記録は実際にはほとんど確認することができない。そして『アダン劇』もまた他の典礼劇と同じように、教会の内部で上演された可能性がきわめて高いという説が現在では有力になっている。『アダン劇』の台詞はフランス語で書かれているが、ト書きはラテン語で記されている。そのト書きには「そして神はeclessiam(教会)に向かう」« Tunc vadat Figura ad eclessiam »、「神はeclessiam(教会)へ戻る」« Figura regredietur ad ecclesiam »といった記述がある。このト書きの記述から、大聖堂の正面の扉を背景に、この劇が教会前の広場で上演された様子をコエンなどの研究者は想像したのである。問題となるのは« eclessiam »という語の解釈である。オランダの研究者、ウィレム・ノーメンWillem Noomenは、この文脈で« eclessiam »は建造物としての教会を意味せず、教会内部で« eclessia »と呼ばれていた象徴的な場所を指し示すと考えるほうが妥当であると主張した**。その象徴的な場所とは、内陣の奥にある聖所である。『アダン劇』は、教会の演劇にとって重要な象徴の軸に沿って演じられたとノーメンは考えた。聖所は教会内部の東側に位置し、『アダン劇』では「教会」« eclessia »と呼ばれている。一方、地獄は西側の扉口に設定されている。人間たちの場所は(とりわけ地上の楽園は)この二つの地点の真ん中にあった。観客はおそらくこの東西の軸の両側から『アダン劇』の上演に立ち会っていた。以上がノーメンの仮説に基づく『アダン劇』の上演の光景である。

ノーメンの解釈では、フランス語で書かれた最古の演劇作品である『アダン劇』は、典礼と依然強い結びつきを保持していたことが強調される。『アダン劇』が上演された場合、おおよそ上演時間の半分がラテン語による典礼聖歌で占められることは、写本の記述、あるいはその記述に基づいて校訂されたテクストからは見落とされやすい事柄である。というのも作品に挿入されている聖歌は、テクストのなかではその冒頭の数語しか記されていないからである。聖歌が作品のなかで重要な役割を果たしていることもまた『アダン劇』がまだ教会の典礼劇の伝統に属していることを示している。

この作品は台詞がすべてフランス語で書かれた最初の演劇作品であるが、その一方で、聖歌隊はラテン語で歌い、舞台指示表記(ト書き)もまたラテン語で書かれている。このラテン語によるト書きは、他の典礼劇テクストと比べると例外的といってもよいほど詳細に記述されている。役者たちの演技に関する指示にはとりわけ細かい指定がされていることは注目に値する。例えば作品の冒頭のト書きには以下のようになっている。

「(…)アダンは自分が返答しなければならないタイミングをしっかりと把握しておくこと。返答は早すぎても、遅すぎてもいけない。アダンだけでなくすべての登場人物は落ち着いて話し、自分が喋っている内容にふさわしい動作をするように、訓練されていること。韻文の部分では、役者たちは音節を付加したり、削除したりしないこと。はっきりとした調子ですべての音節を、しかるべき順序で発音しなくてはならない。天国と台詞のなかで言った者は誰でも、天国の方を見て、天国を指ささなければならない」

ト書きの指示の細かさから、上演に不安を覚える心配性の作者の姿が浮かび上がる。経験の乏しい役者たち(若い聖職者たちか?)が、演技のときにあわてたり、不明瞭な発声で台詞を話したりすることによって、テクストの内容が観客にしっかりと理解されないことを作者は恐れている。台詞の言葉のひとつひとつはそれぞれ丁寧に扱われなくてはならず、不明瞭な発音によって観客を混乱させるようなことはあってはならない。中央には周りより高くなっていて、幕と絹の布でとりかこまれた場所がある。そこが地上の楽園であることを理解されなくてはならない。そのために演者たちは「天国」という言葉を発するたびに、その場所を手で示さなくてはならない。

作者による指示がこれほどまでに細かいのは、役者の技術的が未熟であったからかもしれない。しかし『アダン劇』ではことばが決定的に重要な役割を演じる演劇作品であることが、この例外的に細かいト書きの配慮の背景にはあるようにも感じられる。最初のフランス語演劇作品である『アダン劇』は、その後のフランス語演劇の伝統を予告するかのような、言葉の演劇なのである。最初の典礼劇、「聖墓訪問」で、天使は三人のマリア(そして観客たちに)次のように言う。「こちらに来なさい、そしてごらんなさい」。「聖墓訪問」では事柄を示し、証言する演劇である。『アダン劇』はそうではない。劇が始まるとすぐ神はアダンを近くに呼び寄せる。そしてアダンに次のように言う。
「聞け、アダン、私の話を聞くのだ」

作品の最初から最後まで、対立は言葉のやりとりによって表現される。神による勧告と悪魔の誘惑、アベルの「説教」とカインの荒々しい奔放さが、言葉によって対照される。最初の人間たちが犯した罪自体を描写するよりもむしろ、それがどのように、そしてなぜ行われてしまったのかを劇中で解明することに重きがおかれる。いかにしてエヴァが悪魔のまことしやかなことばに屈していったのが理解されなくてはならない。リンゴをかじるまさにその時にさえ、エヴァはあたかも「アドバイスを聞くかのように、蛇に耳を近づける」。アベルとカインの論争の内容にもしっかりと注意が払われなくてはならない。カインがアベルに死を予告する場面から、アベルの殺害の場面のあいだには、40行にわたる言葉のやりとりが行われる。『アダン劇』の最後に置かれた「預言者たちの行列」は、これらの対立の論理的な帰結を示すことなる。言葉による過ちの場面が提示された後に、預言者たちによって贖罪が告げられるのである。

『アダン劇』では台詞に大きな重要性を付与されており、これにより登場人物はそれまでの典礼劇にはなかった大きな演劇的な自由を手に入れた。まず登場人物の心理が台詞によって描写されるようになった。悪魔が優しい声でエヴァの耳に誘惑を吹き込む場面のやりとりはとりわけ印象的である。さらに、言葉を獲得することによって登場人物が、教義、あるいは運命に対抗する存在として自立した存在となったことが台詞を通して表明されたことも重要である。アダムとイブ(そしてカインまでもが)熟考し、ためらい、話し合う様子が再現されるのを目にするとき、彼らの犯した過ちはもはや運命的なものだとは感じられなくなる。『アダン劇』では、すべては既に演じられてしまった事柄ではない。すべては、観客の目の前で今まさに演じられているのである。登場人物のそれぞれが自分の行為に対して完全な責任を有している。だからこそ彼らは罪深い存在となる。台詞だけでなく、視覚的な面でもより写実的な趣向が取り入れられた。作り物の蛇が木をよじ登り、アベルの服のなかには血がたっぷり入った鍋が隠されていた。舞台上での行為は、そこで行われている論争と同じくらい写実的に演じられる必要があったのである。

『アダン劇』は演劇史における重大な転換点となった。『アダン劇』以後、人間が演劇的世界の中心に現れるようになったのである。一方には神の力、他方には悪魔の策略があり、人間はそのあいだにいる。人間は善と悪の間に立ち、どちらかを選択するよう勧告されている。人間はもはや神の手によって繰られる道具であることをやめ、自立した存在となった。

『アダン劇』で強調されているのは神よりもむしろ悪魔の力である。悪魔はこの劇を実質的に支配する登場人物である。悪魔は舞台上を徘徊し、エヴァと短い会話をする場面の前には、観客のすぐ近くまで近づいてくる。そしてアダムの堕罪のあと、アダムとエヴァが背中をむけるやいなや、悪魔は彼らの耕した畑にとげの生えた草をまき散らす。その後、悪魔は二人を鎖でつなぎ、足を踏みならしながら地獄へと連れ去る。邪悪な存在の役柄は、どの時代の演劇作品でも、善良な存在の役柄より豊かな演劇性を備えている。現在では失われてしまった『アダン劇』の結末では、おそらく世界は均衡を取り戻していたであろう。いずれにせよ、『アダン劇』はこのように、演劇世界の主要な登場人物として悪魔と魔王という邪悪な存在を取り入れたのである。


*『アダン劇』の日本語訳(ただし「アダムとエヴァ」の部分のみ)は、福井秀加氏による以下の論文で読むことができる。福井秀加「アングロノルマン『アダム劇』訳」、『大手前女子大学論集』第19九号(1985年)、1−20頁。この論文は国立情報科学研究所のCiniiからダウンロード可能。http://ci.nii.ac.jp/naid/110000046270
**NOOMEN (Willem), “Le Jeu d’Adam, étude descriptive et analytique”, Romania, t. 89 (1968), p. 145-193.

【01-13教会の演劇】観客としての神と典礼劇の限界2011/10/16 02:33

典礼劇では神の全能性を主張し続けるが、『アダン劇』では邪悪な存在を強調することで従来の典礼劇の枠組みを踏み越えようとしている。しかしここでもう一度繰り返しておこう。われわれは『アダン劇』あるいは他のいくつかの十一、十二世紀の典礼劇に取り入れられた新しい試みを、演劇史の大きな流れに関わる現象として一般化することはやはりできないのである。フルーリー=シュール=ロワールやリモージュのような、その当時の文化的先進地の聖職者共同体で制作・上演されることが多かったこれらの作品に見られる革新はもちろん演劇史のなかで言及されるべき事柄ではあるが、その影響は決定的なものではなかった。同じ時代に他の地域では、これらの典礼劇よりもはるかに保守的で原始的な典礼劇は上演されていたし、さらには中世の終わりまでずっとそうした未熟な典礼劇は各地で上演され続けるのである。

中世演劇は教会の外に抜け出すことはなかった。いやより正確には、中世演劇のなかのある種のタイプのものは教会に留まり続けたのである。B.D.ベルジェは、「演劇は人間のために作られ、上演された、人間による営為であり、典礼は神のために作られ、執り行われる人間による営為である」と言う*。この言に従えば、演劇であると同時に典礼でもあった教会の典礼劇は、神と人間という二種類の観客のためのものだったのである。典礼劇では、神という目に見えない観客の存在を決して忘れてはならない。スペクタクルは神という不可視の存在に対して捧げられたものだった。典礼劇とは、神に対する信徳の表明であり、神の賛歌であった。神の奇跡を目にすることで観客は、改悛と喜びを感じ、楽天的な気分にひたった。嘆きの声ももちろん神へ届けられた、しかしその嘆きはいつも一時的なものに過ぎない。なぜなら「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(『新約聖書』「マタイ伝」5:4)からである。

観客としての神の存在ゆえに、典礼劇には踏み越えてはならない厳しい制約があった。『アダン劇』の作者はこうした制約を何とか乗り越えようとした、あるいは少なくとも、表現の領域を押し広げようとしたに違いない。神自身が舞台に現れる『アダン劇』において神がなお観客として想定されていたかどうかは微妙な問題である。劇のなかでの神とアダンの関係は、創造主と被創造者の関係よりはむしろ主君とその家臣の関係を想起させることは興味深い。もし人間が芝居の中心となってしまえば、典礼劇はたちまちそのバランスを失ってしまうというのに。

『アダン劇』のなかに現れる人間と神の関係には、この時代に生まれた新しいメンタリティの影響が感じられる。そのメンタリティとは、個人という観念と倫理的意識の発達、そして現世的・世俗的生活の肯定という考え方である。しかし人々のこの大きな精神的変化をもたらしたのは、農村の大修道院や修道院ではなく、この時代に台頭し始めた都市のリアリティである。中世都市の隆盛のなかで、都市住民であるブルジョワのための新しい演劇が準備されつつあった。その新しい演劇に求められる機能も、その上演の方法も、教会の典礼劇とは異なるものだった。都市住民のための新しい演劇には、典礼劇から影響がまったく見られないわけではない。しかしこの演劇は教会からではなく、都市環境のなかで生み出されたものだった。

さまざまな演劇的革新が盛り込まれた『アダン劇』はその本当の後継者となる作品を持たない演劇作品となった。奇跡劇、聖史劇といった演劇が作られるようになるのは、教会の典礼劇の最盛期よりさらに二世紀、後になってからである。『アダン劇』は教会の演劇の枠内にとどまった作品である。このジャンルの演劇を生み出した教会建築の内部に従属し、この場所に囚われたままの状態にあるのである。教会の典礼劇には確かにさまざまな制限があったが、にもかかわらず大量の作品がその枠内で生み出された。『アダン劇』以後も長期間にわたって教会のなかで、神と人間という二種類の観客を前に、典礼劇は上演され続けたのである。

BERGER (Blandine-Dominique), Le Drame liturgique de Pâques du Xe au XIIIe siècle, Paris, Beauchesne, 1976.

【02-01役者とジョングルール】演劇とジョングルールの芸能2011/10/23 03:36

町の広場で上演されていた中世都市における演劇活動について述べる前に、中世文芸全般に拡散していた演劇性について言及しておく必要があるだろう。少なくとも13世紀までは、中世フランスのあらゆる文芸活動は演劇的状況のもとで行われていた。その担い手となったのが、ジョングルールと呼ばれる放浪の旅芸人である。この当時のほとんどの人間は、ジョングルールによる口頭表現を通して文芸作品を享受していた。パフォーマンスは、当時、文学作品の最もありふれた受容のあり方だったのだ。中世人にとって、武勲詩、聖者伝、宮廷風韻文物語、抒情詩、あるいはファブリオ(韻文小話)は聞くものであり、彼らはこれらの作品を読むことは通常なかったのである。現代フランス語でジョングルールとはもっぱら曲芸、軽業の芸人を指すが、中世では彼らはこうした曲芸の他、楽器演奏、歌唱、ダンスなど多芸に通じた職業芸人だった。そして文学作品の朗唱などの語りもの文芸の担い手でもあった。

物語の語り手となったとき、ジョングルールと演劇の役者の境界はしばしば曖昧なものとなる。韻文物語、ファブリオなどの語りものは、直接話法で書かれた対話の部分とナレーションである地の文の二種類の文で構成されている。ジョングルールは地の文では語り手となる。もしその語りに旋律がついていれば、その時、ジョンルールは歌い手となる。そして対話体の部分では、ジョングルールは役者のようにその役柄を演じていた可能性が高い。例えば、十三世紀に書かれたファブリオ、『コンピエーニュの三人の盲人』には直接話法が連続する以下のような場面がある。

Li troi avule a l’oste ont dit :
« Sire, nous avons un besant,
Si cuidons bien k’il soit pesans :
Se nous en donnés le sourplus,
Anchois que del vostre aions plus.
Volentiers », li ostes respont.
Fait li uns : « Quar li baille dont !
Li quels ? - Vous ! - Ba, je n’en euc mie !
Dont l’a Robers Barbe Flourie.
Non n’ai ! - Mais vous l’avés, bien say !
Par le cerveille bieu, non ai !
Et qui l’a dont ! - Tu l’as ! - Mais tu !
Faites, u vous serés batu,
Fait li ostes, seignor truant,
Et mis en longueigne puant,
Anchois que vous partés de chi !
A, lui dient, pour Dieu, merchi,
Car mout tres bien vous paierons ! »
(Trois aveugles de Compiègne, v. 148-164)
三人の盲人は宿屋の主人に言った。「ずっしり重いブザン硬貨を一枚もっているのだけれど、額が多かったら釣りをくれないかね」「もちろんですよ」と主人は答えた。三人のうちの一人が言った。「さあ払ってやれよ」「誰が?」「お前だよ」「え、俺は金を持っていないよ」「それじゃあ髭面のロベールが持っているんだな」「いや俺も持ってないよ」「おい持ってるんだろ、わかってるんだよ」「神の脳みそにかけて、俺は持ってないよ」「それじゃあ誰が持っているって言うんだ?」「お前だろ」「いやお前だろ」「払って下さいよ、さもなきゃ痛い思いをすることになるかもしれませんよ、乞食の旦那がた」と宿屋の主人が言う。「ここを出発するどころか、臭い場所に閉じ込められるはめになりますよ」。三人は主人に言った。「ああ、お願いです、どうかお慈悲を。ちゃんとたっぷり払いますから」

このように複数の人物が続けさまに会話をやりとりする箇所を朗読する場合、もしジョングルールが声色の変化や、時にはジェスチャーを交えて、はっきりと人物を演じ分けなければ、聴衆は台詞の話者がどの人物なのか混乱してしまうかもしれない。このような場面でジョングルールが人物を演じ分けたとき、語りによる人物描写と演劇における「人物化」とをはっきりと区別することができるだろうか? こうした語りによる演じ分けはその場限りの簡略なものにすぎず、語り手であるジョングルールは役者のように人物になりきったわけではない、と考える人もいるだろう。しかし演者がたった一人の人物になりきる場合にだけが演劇であり、演者が複数の役柄を続けさまに演じた場合には、それを演劇と呼ぶことはできないのだろうか? もしそうであるならば、この原則を守っていない多くの現代の舞台芸術作品を演劇と呼ぶことはできないのだろうか? もう少し古い時代の事例を例にとって考えてみよう。十七世紀の劇作家、スカロンの小説、『演劇物語』の冒頭で、ラ・ランキュンヌという役者が悲劇の場面を詳細に語る場面がある。そこで彼は登場するあらゆる人物を一人で演じ分けた。しかし彼にとってそれは演劇に他ならなかった。

結局のところ、すべては演者であるジョングルールの態度次第なのである。もしジョングルールの人物造形が断片的でおおざっぱなものにすぎなければ、そのときジョングルールは基本的に語り手に留まっている。しかしもしジョングルールがたとえ短い場面であっても、動作や声によって人物をはっきりと表現することを目指していたなら、そのときジョングルールは間違いなく役者なのである。例えば十三世紀半ばに書かれたリュトブフの『薬草売りの賦』では、作者は街頭の薬売りが自分の商品の驚異的な薬効、効用の数々、値段の安さを語る口上が演劇的に模倣されている。この口上の模倣は演劇作品たる資格を十分に備えている。ジョングルールはきわめて自然に薬草売りへと同一化していくため、ジョングルールと観客の関係は、街頭の薬売りとその周りに集まる野次馬たちとの関係と重なり合う。この独白劇の冒頭は次のようになっている。

座って下さい、お静かにお願いしますよ。うんざりした顔をなさらずに、まあ私の話を聞いて下さいな。

この台詞を話しはじめた時点で、ジョングルールはジョングルール自身として語り始めているのか、それともすでに薬草売りになりきってこの台詞を語っているのか判然としない。語り手から役者への移行はこのように巧妙に仕掛けられている。これはジョングルールが自分以外のジョングルールを演じる場合でも同様である。『二人の放蕩芸人』では、二人のジョングルールが互いに相手をののしり、自分の技芸を自慢しあう。この作品の場合、二人の登場人物をそれぞれ喜劇的に誇張することによって、同業者である相手の姿が対象化されている。才能あるジョングルールが、自分のライバルであるジョングルールを戯画化してからかうさまが演じられているのである

【02-02役者とジョングルール】ローマ古代劇に対する誤解:朗唱者とパントマイム役者2011/10/30 03:21

ジョングルールの技芸には演劇的要素が含まれていたことは確かではあるものの、大部分の作品で見出すことできる演劇性はささやかのものに過ぎない。テクストのなかからジョングルールのパフォーマンスの痕跡を取り出し、朗唱的部分と演劇的部分を厳密に区別して考察することは、実際には困難な作業となるだろう。そもそもわれわれがここで持ち出す「演劇」という概念自体、現代的な文学ジャンル観に基づくものであり、あらゆる文芸が演劇的状況で演じられてきた中世の文芸に適応するにあたっては注意が必要となるのである。

中世では(少なくとも十五世紀まで)、「演劇 theatrum (lat.)」、「演劇的 dramaticus (lat.)」、「喜劇 comoedia (lat.)」、「悲劇 tragoedia (lat.)」という語は、現代とは異なる概念を示していたことは知っておいたほうがよいだろう。聖職者たちはプラウトゥス、そしてテレンティウスの作品を通して古代演劇作品を知っていたし、そのテクストを愛読していた。とりわけテレンティウスはよく読まれていた。しかし中世のかなり初期の段階から(少なくとも六世紀以降)、ローマ古代劇の上演は次のように行われていたのだと信じられていた。
一人の朗唱者がすべての役柄の台詞を読み上げる。台詞が読み上げられているあいだ、パントマイム役者たちが動作によってその場面の各人物を演じる。
この古代劇上演についての勘違いは、五世紀にテレンティウスの作品の校訂者したカリオピウスの記述を、誤読したことに由来すると考えられている。彼が校訂したテレンティウスの劇写本には、”Ego Calliopius rec”と記されている。この”rec”という略記は”recensui”「校訂した(文全体では「私、カリオピウスが校訂した)」と読むべきだったのであるが、それを中世人は”rectavi”「朗読する」の略だと解釈したのだ。この誤解が中世を通じてずっと保持されたことは、その後に書かれたテクストや写本挿絵によって確認することができる。中世では、一人の朗唱者と数人のパントマイム役者によって、ローマ古代劇は上演されていたと信じられていたのである。

また中世では詩人自身が語り手として登場しない対話形式の詩はすべて「演劇」作品であるとみなされた。ウェルギリウスの『牧歌』や旧約聖書の雅歌を、中世人は「演劇」に分類したのである。古代演劇についてこのような誤解があった一方で、「喜劇」と「悲劇」は、演劇と関係ある概念であるとは考えられていなかった。ダンテは朗唱される詩のうち、幸福な結末を持つ作品が「喜劇」であると考えており、それゆえ「地獄篇」ではじまり、「天国篇」で完結する自分の作品を『喜劇』Commedia(『神聖喜劇』Divina Commedia、すなわち『神曲』のこと)と名付けたのである。また中世の学識者たちは、教会や修道院附属の学校で読まれていた古代演劇作品と教会や修道院で上演されていた典礼劇を関連づけて考えることはほとんどなかった。彼らにとって、ローマ古代劇と典礼劇はまったく異なる領域に属する作品群であったのだ。

このように、古代世界と中世の間には演劇に関する大きな断絶が存在したのである。演劇の形式だけでなく、演劇のパフォーマーについても古代と中世の間には断絶があったと考えられている。かつては、西ローマ帝国後期に活躍したパントマイム役者から中世のジョングルールまで、演劇的芸術に関わる芸人の伝統は途切れることなく続いていたと考えられていた。しかし実際には、六世紀から九世紀の間、西欧世界で何らかの演劇的上演が行われていたことを示す文献をわれわれは持っていない。中世の前期にあたるこの時代にも、大貴族の宮廷には、道化や愚者などがいて、主人の無聊を慰めていたかもしれない。しかしこの時期、役者的な芸能者が西欧に存在したかどうかは疑わしい。シャルルマーニュの時代(九世紀)に、ヴィタリスという芸人がいた。ヴィタリスは、西欧でわれわれがその名前を確認することのできる最初の芸人である。その墓銘碑の記述によれば、彼は「物真似芸人」imitatorであった。彼は宴会の会食者の動作や声を見事に真似し、会食者を驚かせたと墓銘碑には刻まれている。かつてはこの記述をもってヴィタリスは西欧世界における最初の「役者」であっと考えられていた。しかしヴィタリスは優れた物真似芸の持ち主であったかもしれないが、われわれが思い浮かべるところの「役者」であったかどうかはわからないのである。

プラウトゥスとテレンティウスの影響のもと、十二世紀に聖職者によって書かれた何編かのラテン語の「演劇」作品が残っている。ギュスターヴ・コエンと彼の弟子たちは『十二世紀フランスのラテン語「喜劇」』のタイトルでこれらのラテン語のテクストの校訂・翻訳を出版している*。彼らは「喜劇」を引用符でくくっている。これは、これらのテクストが上演のために書かれたものなのか、それとも公衆を前に読み上げられるためのものであったのか、あるいは個人の読書のために書かれたものなのか、テクストの文面からは判然としないからである。これらのテクストは学識ある作者による創作で、聖職者学校での学習用テクストとして書かれた可能性が高い。コエンたちが編纂した十二世紀のラテン語「演劇」作品には、地の文が対話体のなかに挟み込まれていたり、ほとんど語りといっていい長大なモノローグがしばしば用いられたりするといった、真正の演劇作品とはみなしがたい要素が含まれている。収録されているテクストの中では、アンフィトリオンの神話の翻案である『ゲタ』、プラウトゥス作品の翻案だと考えられる『アウルラリア』、『バビオ』(一人の若い娘に嘲弄され、妻に馬鹿にされた不幸な老人の話)については、聖職者の学校で実際に上演された可能性がないわけではない。しかし仮に上演されたとしても、その上演方法は「テレンティウス的やり方」での上演であったに違いない。すなわち一人の朗唱者と複数のパントマイム役者によって上演されていただろう。

* Gustave Cohen, et als., éd. et trad. La "comédie" latine en France au XIIe siècle,Paris, Les Belles-lettres, 1931.