【03-04十三世紀都市の演劇】二つの劇世界の共存:「こちら」と「あちら」2012/01/04 00:04

十三世紀の演劇作品は、このように、「こちら」と「あちら」の二つの異なる世界の存在が出会う場となることが多い。『葉陰の劇』は、アラスの町、すなわち「こちら」の世界で展開する。アラスの住民がこの町から離れることは簡単なことではないが(『葉陰の劇』の作者であり、劇中人物でもあるアダンもまた、この町を抜け出すことができないでいる)、異世界である「あちら」から、怪しげな力を持つさまざまな存在が、まるで「葉陰」の下で待ち合わせをしているかのように、この町へやって来る。放浪僧はあらたかな御利益をもたらすという聖遺物を持ち込んで、町の人間を相手に商売を行い、狂人は意味不明の言葉をまくし立てて人々を当惑させ、妖精たちは不吉な予言で人々を脅かす。この町にやってきた異邦人のなかで、町から抜け出すことができたのは妖精たちだけである。妖精たちはアラスの他の場所で行われる老婆たちとの集会のため、舞台から立ち去った。放浪僧と狂人は劇の最後まで舞台上に残る。朝になり、居酒屋の常連たちが家路に向かい退場した後も、彼らは舞台上にとどまったままだ。アラスの町にいったん入り込んでしまうと、そこから抜け出すのは本当に大変なことなのだ。

アダン・ド・ラ・アルは『葉陰の劇』以外に、『ロバンとマリオンの劇*』という田園牧歌劇を残している。『ロバンとマリオンの劇』でも二つの異なる世界の住民が劇空間のなかで出会う。羊飼いたちが生活する田園世界に、「あちら」である宮廷から騎士が馬に乗ってやって来るのである。騎士は羊飼い娘のマリオンを誘惑し、口説き落とそうとするが、マリオンはきっぱりとそれをはねつける。マリオンにとっては、騎士の持っていた野鳥の肉よりも、自分たちが食べ慣れたチーズ、パン、リンゴのほうが魅力的なのである。羊飼い娘に拒絶され、気分を害した騎士は田園を立ち去り、マリオンは恋人の羊飼い、ロバンのもとに戻る。『ロバンとマリオンの劇』では、素朴な田園的生活の喜びが、羊飼いたちの遊戯、歌、冗談とともに、描き出されている。「あちら」の住人である騎士がやって来たり、下品な物言いをする羊飼いがいたり、狼が侵入したりして「こちら」の世界の平穏を揺るがそうとするが、結局のところ「こちら」の牧歌的劇世界は維持されるのである。

ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』における「こちら」と「あちら」の二つの世界の関係は、アダン・ド・ラ・アルの作品よりもはるかに複雑である。アダン・ド・ラ・アルの二つの作品では、劇世界は基本的に「こちら」で展開し、そこに「あちら」の人物が侵入するという構造になっている。それに対して、『聖ニコラの劇』では、「こちら」と「あちら」の二つの世界が、作品の内部で錯綜している。劇の舞台は「アフリカ」にあるサラセン人の王国で展開していることに、一応はなっている。この王国は「東洋からカタロニアまで」広がる広大な地域を領土としている。この王国の宮廷に集まる異教徒の諸侯たちは、現実には存在しない空想上の国々からやって来た。金の糞をする犬がいたり、風車小屋の挽き臼ほどの大きさの貨幣を用いられたりするような国である。

この王国の中心にある居酒屋は劇行為が展開する重要な場所の一つなのだが、その居酒屋はアラスにあるのだ。つまりこの居酒屋の主人とそこに集まる客は、「アフリカ」にあるサラセン人王国の臣民であると同時に、北フランスの都市、アラスの住民でもあるのである。居酒屋にいる人間は異教徒であるはずなのに、アラスの住民であるかのような言動を行う。彼らの口から出てくる地名はアラス近郊の村の名前だ。「アフリカ」の居酒屋主人は、オセール(ブルゴーニュ地方の都市。中世でワインの産地として有名だった)産の葡萄酒を自慢して客にふるまう。そしてその客たちはサラセン人であるにもかかわらず、「神にかけて par Dieu」あるいは「聖ヨハネにかけて par saint Jean」という表現とともに誓いの言葉を述べる。

しかし劇世界のなかで、このような地理的混乱が生じているのはこの居酒屋の中だけであることも注意しておこう。アフリカ王の宮廷では、王もその臣下たちもマホメット、アポロン、テルヴァガンという異教徒の三神(中世の武勲詩などではイスラム教徒がこの三神を信仰しているという記述がしばしば出てくる)しか知らない。つまり居酒屋における地理的状況の混乱は、作者ボデルの不注意によるものではない。作者は敢えて二つの地理的に遠く離れた場所、すなわちアラスと十字軍の遠征地である異国を、居酒屋でこのように錯綜させたである。『聖ニコラの劇』では、異教は「あちら」の世界から、「こちら」の世界であるアラスの居酒屋の中に入り込んでいる。居酒屋の客であるクリケ、ラゾワール、パンセデの三悪党は、「こちら」で異教徒として生活している。奇跡によって聖ニコラが彼らの前に現れ、アフリカ王の宝物を財宝庫に返却するように命令したときも、彼らはその生き方を変えようとはしないし、自分たちの行いを反省している様子もない。彼らは自分たちを超越する聖ニコラの霊力の強さに怯えてその命令に従ったが、だからといって本当に改悛したわけではないのである。

『聖ニコラの劇』では、このように、本当のキリスト教徒(十字軍兵士たち)、キリスト教徒でもあり異教徒でもある人たち(居酒屋にいる人物)、そして異教徒(サラセン王とその宮廷に集まる諸侯)が、舞台上で共存している。最後の場面では、サラセン人の王とその臣下たちはキリスト教徒に改宗し、舞台上に残るのはキリスト教徒だけになる。この時、居酒屋の悪党たちすでに舞台上から姿を消している。彼らは新天地を求め、この地を去ったのだ。

この芝居はハッピーエンドなのだろうか? もしサラセン人の国王が本当に心から改宗したのであれば、ハッピーエンドと言えるだろう。しかし国王がキリスト教徒に改宗したのは、キリスト教の教えに感化されたからではなく、聖ニコラが宝物庫の財宝を守ってくれたからである。こんな安易な理由で改宗し、しかも聖ニコラを神以上に崇拝するといういい加減な信仰者が、まともなキリスト教徒であると言えるだろうか? 無理矢理跪かされ、キリスト教への改宗を強要された「外乾燥アラビア国」の太守の態度はこの点で興味深い。この太守は、改宗後も心の奥ではマホメットを信仰しつづけると明言し、自分は表向きだけのキリスト教徒(実は隠れイスラム教徒)となることを、果敢にも認めている。おそらく同じ部屋にいた他の異教徒の諸侯たちの本心も、言葉には出してはいないものの、「外乾燥アラビア国」の太守とそう違わないはずだ。

劇世界のなかで、居酒屋のなかだけをアラスと設定することで、作品が伝えようとしたメッセージはより明瞭になったように感じられる。この芝居を観たアラスの支配階層の人間たちは、居酒屋の間抜けな悪党たちにアラスの下層階級の人間を重ねて見ただろうし、十字軍の兵士たちとサラセン人の捕虜となった誠実なキリスト教徒という高貴で理想的な人物には、自分自身の姿を重ねただろう。しかしこうした自分に都合のよい見方だけでなく、ブルジョワたちは『聖ニコラの劇』の登場人物たちの世俗的な言動のリアリティに、己の姿の写し絵を認めずにいることは難しかったに違いない。『聖ニコラの劇』では、自分たちの財宝をしっかりと守ってくれるような力に対して、すぐに服従する人間たちの姿が風刺的に描かれている。異教徒の王やその臣下たちの功利的な態度には、ブルジョワたちも思い当たるところがあったはずだ。『聖ニコラの劇』では、このように、「こちら」と「あちら」が作品全編にわたって入り組んだかたちで共存している。そしてその共存の様子は、一人の人間の心のなかで、異教的な悪とキリスト教的な善が共存し、時に葛藤する姿を想起させる。

どんな人間でも心のなかで神の正義と悪魔の誘惑が相争うような経験はあるはずだ。パリの詩人、リュトブフによる『テオフィールの奇跡**』(十三世紀後半)は、こうした人間の善悪の葛藤を描く典型的な作品の一つである。この作品のなかで、聖職者テオフィールは、己の欲望を極限まで追求しようとする。彼は聖職者として出世したいという野心に燃え、窮乏に陥ることをひどく恐れている。現状に不満を抱く彼は、神が自分に与えた境遇を呪い、聖職者という身分でありながら神を否定する。『テオフィールの奇跡』の冒頭の独白では、神への激しい罵詈雑言と呪詛が連なっている。テオフィールは自分の主人である主を裏切り、別の主人に臣従の誓いを立てることは選択する。とはいうもの、彼は天国を捨て、地獄を選んだつもりはないのだ。彼の二者択一は二つの「あちら」(天国と地獄)を巡るものではない。彼は、自分にとっての「あちら」である天上の世界を拒み、「こちら」である地上と現世での権力を選ぶのである。

ただし『テオフィールの奇蹟』では、善悪の力の不均衡が作品全体を支配している。テオフィールが頼みとする悪魔は、複雑な手順の儀式を行わないと彼のいる地上の世界に呼び寄せることが出来ないのに対し、彼が拒んだ天上の存在、聖母マリアは、テオフィールが心からの改悛の情を示しさえすればすぐに手をさしのべてくれる。現世の富の分配者である悪魔はもとより天の聖母マリアの正義に勝ち目はないのである。聖母マリアは、瞬き一つで悪魔の太鼓腹を押しつぶし、テオフィールが魂を受け渡すことを記した証書を奪い取ってくれるのだ。

ある人間が罪を犯し、その後でその罪を悔いる、すると聖母マリアが現れ贖罪の手助けを行う。『テオフィールの奇跡』で示されたこの三段階の展開は、次の世紀に制作された「複数の人物による聖母奇蹟劇集」の基本的構成となる。「聖母奇蹟劇集」は1339年から1382年の間、金銀細工商の兄弟信心会(聖エロア信心会)の毎年恒例の集会で上演された。

「聖母奇蹟劇集」では、テオフィールが神に対して示したような精神的な格闘は、もはやほとんど見られない。作品の筋立ては取り違え、人違い、嘘を多用した通俗的なものになり、そのなかで表明される望みは、良い縁談、商売繁盛、名声を手に入れることなどあからさまに現世利益に関わるものが多い。聖母マリアは現世的欲望の調停者なる。彼女の劇中での役割は、間違って下された判決を覆したり、罪人の犯した罪を許したり、物事をもとあった状態に戻すことである。聖母マリアが現れ、魔法のバトンを振り回すだけで、凶悪な罪を犯した者が聖人になってしまう。聖母マリアの絶対的な力は、「聖母奇蹟劇集」で「あちら」である天上世界が「こちら」にある現世に対して圧倒的に優位にあることを示しているのである。
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* アダン・ル・ボシュ「ロバンとマリオンの劇」神沢栄三訳、『フランス中世文学集4 奇蹟と愛と』東京:白水社、1996年、453-500頁。この音楽劇の録音は数多い。最近のものとしては、Ensemble Micrologus, Le Jeu de Robin et Marion & autres œuvres, Harmonia Mundi, 2004 (ZZT 040602) [http://store.harmoniamundi.com/adam-jeu-de-robin-et-marion.html]がある。
** リュトブフ「テオフィールの奇跡」神沢栄三訳、『フランス中世文学集4 奇蹟と愛と』東京:白水社、1996年、427-452頁。