【03-05十三世紀都市の演劇】奇跡の起きる場所、宗教劇の上演空間(1) ― 2012/02/12 03:33
宗教的な主題の十三世紀演劇作品、ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』やリュトブフの『テオフィールの奇蹟』は、おおむね天国─地上─地獄の象徴的な軸に基づく劇構造を持っている。既に指摘したように、この構造は教会内での演劇である典礼劇でも確認することができる。また教会の外で上演され、典礼とは関わりを持っていないにも関わらず、その宗教的内容ゆえに、両作品とも劇の最後が、出演者と観客によって歌われる《テ・デウム(主であるあなたをわれわれは讃えます)》で締め括られる。これも典礼劇から引き継いだ習慣のひとつである。
典礼劇のなかには詳細なト書きがあるものが少なからずあるが、現存する十三世紀のフランス語演劇作品の写本では、ト書き的な記述(ディダスカリ)はあったとしても極めて貧弱である。『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』も例外ではない。おそらく、典礼劇は典礼の一部である以上、正確な手順を厳密に規定し、それを祭式者でもある演者が遵守することが必要とされたのに対し、十三世紀の演劇作品の場合、職業芸人であるジョングルールが演じ手であったため、詳細な演出的指示は必要とされず、むしろ演者の即興に委ねられた部分が多くあったという事情の違いに由来するものだろう。十三世紀演劇の舞台上演の実際については、ディダスカリの欠如のため、よくわかっていない部分が多いが、フェーヴルは先行研究を踏まえ、十三世紀の宗教的主題の劇作品について次のような舞台を想定している。
『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』では、《演技エリア》 aire de jeuの一方の端には神の《場》lieu(リュ)、もう一方の端には悪魔の《場》が、設置されていた。神の《場》には『聖ニコラの劇』では天使と聖ニコラ、『テオフィールの奇蹟』では聖母マリアが待機し、この《場》から、中央の演技エリアへ姿を現した。一方、悪魔の《場》には『聖ニコラの劇』ではテルヴァガンの神殿、『テオフィール』では地獄が設置されていた。
ところで中世演劇特有の舞台空間を示す用語として《マンシオン》mansionという用語が十九世紀以来用いられてきたのだが、フェーヴルはこの用語の使用については否定的な立場を取っている。《マンシオン》は従来の中世フランス語演劇史研究では、「ある特定の場所を表すための舞台装置一式」をおおむね意味している。『フランス語宝典』TLF**の記述によると、ラテン語で「住居」などを意味する《mansio》に由来するこの語が、舞台装置の意味で用いられている最初の用例は、十二世紀に書かれたと考えられているアングロ・ノルマン方言の典礼劇『救世主の復活』に確認できる。しかしこの用語が、中世の文献でこの意味で使用されている例は、この作品でしか確認されていない。1855年に文献学者のポーラン・パリスが聖史劇の演出について言及する際にこの語を用い、それ以来、《マンシオン》が中世演劇の舞台装置を示す用語として定着したようである。中世の演劇テクストで、演技する舞台を示す語として《マンシオン》よりはるかによく用いられたのは《場》lieu(リュ)という語である。
十三世紀のフランス語宗教劇の舞台は、複数の《場》によって構成されていたと考えられている。しかしこの《場》がどのように配置されていたかについては、研究者によって見解が異なる。大きく分けて、観客に向かい合うかたちで、複数の《場》が隣り合わせに並置されていたという説と、複数の《場》が観客とともに円形を形作っていたという説の二つがある。後者の仮説はレ=フロが提示したもので、レ=フロはこの円形舞台を《魔法の円》 cercle magiqueと名付けている**。
並列的な《場》を想定すると、『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』で物語が展開し、演技が行われた場所(以下《演技エリア》とする)は、「神」と「悪魔」二つの象徴的な《場》の中央前より部分だった可能性が高いとフェーヴルは考える。もし複数の《場》と観客席が《魔法の円》を形成していたと想定するレ=フロの仮説にそって考えるならば、物語が展開する《演技エリア》はこの円の中央部分だっただろう。《演技エリア》の存在は中世末期の聖史劇の舞台で確認することができるが(図、ジャン・フーケ『聖アポロニアの殉教』を参照のこと)、この舞台設計は上演についての資料がほとんど残っていない十三世紀まで遡ることができるとレ=フロは主張し、フェーヴルもそれを妥当な推論だとしている。
《場》は原則的に出番ではない登場人物たちの待機場所だったと考えられている。場合によっては、観客もその場に居合わせて、《演技エリア》で展開する劇を見物していた。もし役者たちがいつもそれぞれの《場》の内部で演技を行っていたと仮定すれば、狭苦しい空間のなかで役者たちが立ち往生する動きの乏しい舞台となるか、あるいはそれぞれ独立した場面を作るのに必要な広さを持つ複数の《場》を並置させるために、公演ごとに壮大な規模の演劇空間を準備しなければならなくなってしまう。こういった理由でおそらく、《場》とは別に《演技エリア》は舞台空間の形成の上で用意する必要があった。役者は自分の出番でないときに自分の《場》に待機して、《演技エリア》を見守る。そして自分の出番になると《場》から《演技エリア》に入り、芝居に参加する。そして自分の登場場面が終わると、《演技エリア》から退場し、自分の《場》へと戻っていった。
しかし劇行為は必ずしも《演技エリア》でだけ展開していたとは限らない。フェーヴルはさらにダイナミックで可変・流動的な上演空間を想定する。この《演技エリア》は劇行為の要請に応じてあらゆる《場》を自由に取り込むことが可能であったとフェーヴルは考える。例えば、『聖ニコラの劇』の上演に際しては、居酒屋として設定された《場》が、《演技エリア》と融合して複合的な《演技エリア》を形成する。その居酒屋の《場》に悪党たちは集まり、そこを《演技エリア》として芝居を続ける。そしてその次の場面では、王の宮廷として設定された《場》がそのまま、《演技エリア》となる。このように場面ごとに、《場》を中心に《演技エリア》が移動していった可能性をフェーヴルは提示している。レ=フロが提唱する《魔法の円》の上演空間でもこうした可動式の《演技エリア》は充分に想定可能である。しかしもし役者たちが部分的にでも《場》の内側で演技を行うのであれば、《魔法の円》というレ=フロの仮説は説得力の乏しいものになってしまうとフェーヴルは指摘する。というのも《場》の内部で芝居が行われた場合、《場》が円形状に配置されていると、観客の多くはその様子を見ることができなくなってしまうからである。
* Trésor de la langue française: Paul Imbs他によって編纂され、1971-94年に刊行された全16巻のこの辞書は、国立フランス語研究所INaLFによって電子化され、インターネット上の次のurlで無料で 利用することができる。atilf.atilf.fr/tlf.htm
** REY-FLAUD (Henri), Le Cercle magique : Essai sur le théâtre en rond à la fin du Moyen Âge, Paris, Gallimard, 1973.
典礼劇のなかには詳細なト書きがあるものが少なからずあるが、現存する十三世紀のフランス語演劇作品の写本では、ト書き的な記述(ディダスカリ)はあったとしても極めて貧弱である。『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』も例外ではない。おそらく、典礼劇は典礼の一部である以上、正確な手順を厳密に規定し、それを祭式者でもある演者が遵守することが必要とされたのに対し、十三世紀の演劇作品の場合、職業芸人であるジョングルールが演じ手であったため、詳細な演出的指示は必要とされず、むしろ演者の即興に委ねられた部分が多くあったという事情の違いに由来するものだろう。十三世紀演劇の舞台上演の実際については、ディダスカリの欠如のため、よくわかっていない部分が多いが、フェーヴルは先行研究を踏まえ、十三世紀の宗教的主題の劇作品について次のような舞台を想定している。
『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』では、《演技エリア》 aire de jeuの一方の端には神の《場》lieu(リュ)、もう一方の端には悪魔の《場》が、設置されていた。神の《場》には『聖ニコラの劇』では天使と聖ニコラ、『テオフィールの奇蹟』では聖母マリアが待機し、この《場》から、中央の演技エリアへ姿を現した。一方、悪魔の《場》には『聖ニコラの劇』ではテルヴァガンの神殿、『テオフィール』では地獄が設置されていた。
ところで中世演劇特有の舞台空間を示す用語として《マンシオン》mansionという用語が十九世紀以来用いられてきたのだが、フェーヴルはこの用語の使用については否定的な立場を取っている。《マンシオン》は従来の中世フランス語演劇史研究では、「ある特定の場所を表すための舞台装置一式」をおおむね意味している。『フランス語宝典』TLF**の記述によると、ラテン語で「住居」などを意味する《mansio》に由来するこの語が、舞台装置の意味で用いられている最初の用例は、十二世紀に書かれたと考えられているアングロ・ノルマン方言の典礼劇『救世主の復活』に確認できる。しかしこの用語が、中世の文献でこの意味で使用されている例は、この作品でしか確認されていない。1855年に文献学者のポーラン・パリスが聖史劇の演出について言及する際にこの語を用い、それ以来、《マンシオン》が中世演劇の舞台装置を示す用語として定着したようである。中世の演劇テクストで、演技する舞台を示す語として《マンシオン》よりはるかによく用いられたのは《場》lieu(リュ)という語である。
十三世紀のフランス語宗教劇の舞台は、複数の《場》によって構成されていたと考えられている。しかしこの《場》がどのように配置されていたかについては、研究者によって見解が異なる。大きく分けて、観客に向かい合うかたちで、複数の《場》が隣り合わせに並置されていたという説と、複数の《場》が観客とともに円形を形作っていたという説の二つがある。後者の仮説はレ=フロが提示したもので、レ=フロはこの円形舞台を《魔法の円》 cercle magiqueと名付けている**。
並列的な《場》を想定すると、『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』で物語が展開し、演技が行われた場所(以下《演技エリア》とする)は、「神」と「悪魔」二つの象徴的な《場》の中央前より部分だった可能性が高いとフェーヴルは考える。もし複数の《場》と観客席が《魔法の円》を形成していたと想定するレ=フロの仮説にそって考えるならば、物語が展開する《演技エリア》はこの円の中央部分だっただろう。《演技エリア》の存在は中世末期の聖史劇の舞台で確認することができるが(図、ジャン・フーケ『聖アポロニアの殉教』を参照のこと)、この舞台設計は上演についての資料がほとんど残っていない十三世紀まで遡ることができるとレ=フロは主張し、フェーヴルもそれを妥当な推論だとしている。
《場》は原則的に出番ではない登場人物たちの待機場所だったと考えられている。場合によっては、観客もその場に居合わせて、《演技エリア》で展開する劇を見物していた。もし役者たちがいつもそれぞれの《場》の内部で演技を行っていたと仮定すれば、狭苦しい空間のなかで役者たちが立ち往生する動きの乏しい舞台となるか、あるいはそれぞれ独立した場面を作るのに必要な広さを持つ複数の《場》を並置させるために、公演ごとに壮大な規模の演劇空間を準備しなければならなくなってしまう。こういった理由でおそらく、《場》とは別に《演技エリア》は舞台空間の形成の上で用意する必要があった。役者は自分の出番でないときに自分の《場》に待機して、《演技エリア》を見守る。そして自分の出番になると《場》から《演技エリア》に入り、芝居に参加する。そして自分の登場場面が終わると、《演技エリア》から退場し、自分の《場》へと戻っていった。
しかし劇行為は必ずしも《演技エリア》でだけ展開していたとは限らない。フェーヴルはさらにダイナミックで可変・流動的な上演空間を想定する。この《演技エリア》は劇行為の要請に応じてあらゆる《場》を自由に取り込むことが可能であったとフェーヴルは考える。例えば、『聖ニコラの劇』の上演に際しては、居酒屋として設定された《場》が、《演技エリア》と融合して複合的な《演技エリア》を形成する。その居酒屋の《場》に悪党たちは集まり、そこを《演技エリア》として芝居を続ける。そしてその次の場面では、王の宮廷として設定された《場》がそのまま、《演技エリア》となる。このように場面ごとに、《場》を中心に《演技エリア》が移動していった可能性をフェーヴルは提示している。レ=フロが提唱する《魔法の円》の上演空間でもこうした可動式の《演技エリア》は充分に想定可能である。しかしもし役者たちが部分的にでも《場》の内側で演技を行うのであれば、《魔法の円》というレ=フロの仮説は説得力の乏しいものになってしまうとフェーヴルは指摘する。というのも《場》の内部で芝居が行われた場合、《場》が円形状に配置されていると、観客の多くはその様子を見ることができなくなってしまうからである。
* Trésor de la langue française: Paul Imbs他によって編纂され、1971-94年に刊行された全16巻のこの辞書は、国立フランス語研究所INaLFによって電子化され、インターネット上の次のurlで無料で 利用することができる。atilf.atilf.fr/tlf.htm
** REY-FLAUD (Henri), Le Cercle magique : Essai sur le théâtre en rond à la fin du Moyen Âge, Paris, Gallimard, 1973.
【03-06十三世紀都市の演劇】奇跡の起きる場所、宗教劇の上演空間(2) ― 2012/02/14 01:46
ここで、『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』の上演において、複数の《場》が線的に配置されていた場合を想定してみよう。作品のなかにある象徴的な要素を考慮すると、この両作品はまさにそうした舞台配置に適合しているとフェーヴルは考える。
この場合、『聖ニコラの劇』では、一番端に設置される《場》は「天国」となる。次いで、「十字軍軍隊」、「王国内の居酒屋」、そして「サラセン王宮廷」という三つの《場》が並び、最後に「異教徒の神殿」の《場》が設置されるという配置になるだろう。
『テオフィールの奇蹟』でも『聖ニコラの劇』と同様に、まず一番端に「天国」の《場》が設置され、それから「聖母マリア礼拝堂」(天国の近くにある場所)、「司教の座る椅子」(現世での権力)、「サラタン(テオフィールと悪魔の仲介役のユダヤ人)の家」という劇展開を支える三つの重要な《場》が並び、最後に「地獄」の《場》が位置することになるだろう。
『テオフィールの奇蹟』で、テオフィール以外の主要な登場人物は自分の《場》を持っているのに対し、主人公のテオフィールは自分の《場》を持っていないことは、着目に値する。自分の《場》を持たないテオフィールは、上演中、常に《演技エリア》に姿をさらし続けることになる。いやむしろ彼が移動することによって、その先々に《演技エリア》が生成されると述べるほうがわかりやすいかもしれない。テオフィールは舞台に設置された、「地獄」を除く、全ての《場》を訪問する。各《場》は彼の訪問によって、《演技エリア》として順次、活性化していくのである。
このように、登場人物の一人が導きの糸となり、観客が、その人物が《場》から《場》へと移動するのを追いかけていくような構造を持つ作品は、『テオフィールの奇蹟』だけではない。例えば、『アラスのクルトワ』では主人公のクルトワの移動先が演劇的な《場》を形成するし、『聖ニコラの劇』では、サラセン王の使者であるオベロンが王の諸侯を呼び集めるときにこういった状況が出現する。しかしこれがこの時代の演劇作品の一般的・原則的な劇構造であったというわけでもないようである。というのも、「聖母奇蹟劇集」に収録された作品や『聖ニコラの劇』には、《場》が劇の筋の展開に従って連鎖的につながるのではなく、ある《場》から別の《場》に唐突に移り変わってしまうようなはっきりした断絶も見られるからである。
いずれにせよ、複数の異なる《場》が観客の目の前で一斉に提示されていれば、ある《場》から別の《場》への筋の展開はスムーズに行われていただろう。役者たちは自分の出番になると自分の《場》から《演技エリア》に現われ、演技を行い、出番が終わると自分の《場》に戻る。それと入れ替わりに出番となる別の役者が自身の《場》から《演技エリア》に出てくる。このようにして上演空間は上演中に移行していったのだろう。
これらの《場》に設置された舞台美術は、ごく簡単なものだっただろうとフェーヴルは推定する。十三世紀演劇の舞台では、現実の写し絵を舞台上に再現することよりもむしろ、象徴的な装置を使って、上演中のその場所がどこであるかを観客に明示することが重要だったからである。例えば、一脚の玉座によって王宮を、鉄の柵によって牢獄、コップが何個か置かれたテーブルがあればそれは居酒屋を表す、などといったやり方で、舞台空間は表現されていたと考えられる。パリの金銀細工商の組合による「聖母奇蹟劇」のように、信徒団体の行事で同じ場所で定期的に上演された場合には、舞台装置の一部は何年にもわたって使い回されていた可能性が高い。とりわけ「天国」と「地獄」の《場》は、どの作品にも共通して必要となるので、この《場》で使う装置は恒常的なものだったに違いない。この他の《場》については、作品毎に内容に応じて作り替えていっただろう。フェーヴルが想定した十三世紀演劇上演の形態、すなわち簡素で象徴的な舞台装置を効果的に使うことによって、劇の筋の展開の場は《演技エリア》上で自在に、自由に変化していったというイメージは、われわれには能の舞台の様子を連想させる。
十三世紀演劇では、時間の流れもまた空間同様に、ドラマの展開の都合に合わせて随意に変化させることができた。教会の内部で上演された典礼劇でもよく使われていた方法だが、場面転換が、しばしば時間の流れを加速させるための効果的な手段として用いられた。例えば『聖ニコラの劇』では、サラセン人王の使者、オベロンはほんの数秒間の間に、王の宮廷とコワン国将軍の領地の間を往復するが、この二国間は片道で三十日ほどかかることが、別の場面の台詞で示されている。
時間の跳躍が一回の場所移動による時間短縮では説明できない場合もある。例えば、リュトブフの『テオフィールの奇蹟』の以下の場面である。
(1)悪魔と臣従の契約書を取り交わしたテオフィールは、かつて自分から役職を取り上げた司教と和解し、司教代理の役職を取り戻す。
(2)そしてこの後、二人の同僚に喧嘩を売りに行く。テオフィールは自分が獲得した新しい権力を振りかざして、二人を脅迫する。
(3)しかし二人目の同僚へのテオフィールの悪辣な威嚇の台詞のすぐ後の場面で、テオフィールは聖母礼拝堂にいて、そこで自分の行いを悔い改めているのである。
この威嚇から改悛に至る二つの場面に移行に際して、時間の流れを示す舞台上の動きの指定は存在しないが、この礼拝堂でのテオフィールの独白の中で、われわれは七年の月日が前の場面から過ぎていたことを知る。唐突に七年の時間を経て二つの場面はつながっているのだ。七年間という数字は、この奇蹟譚にとって重要な意味を持っているわけではない。テオフィールが悪魔との契約の恩恵を被った期間が、数日であろうと長い年月であろうと、彼の犯した罪の本質が変わるわけではない。注目すべきことは、テオフィールが涜神的振る舞いをやめ、改悛するまでの時間が、劇行為のなかでは全く空白になっているということである。テオフィールの改悛は聖母マリアの介入を導き、劇内の時間は、七年の空白の内容について言及することのないまま、再び動き始める。ちなみに『テオフィールの奇蹟』より後の時代の「聖母奇蹟劇集」の作品でも、このような唐突な場面の移動が数年の年月を示すことはしばしば見られる。そしてそこでもしばしばこの象徴的な時間の経過は七年間とされる。
いずれにせよ、『テオフィールの奇蹟』では空間のみならず、時間もまた、ドラマの要請に従い自由に伸縮させられているのである。『テオフィール』のような奇蹟劇の劇作術においては、作品の宗教的主題を明快に示し、教化のために効果的に物語を展開させることを何よりも優先させなくてはならない。この目的のためには、世界の半分にあたる空間を一気に移動したり、一瞬の間に一年の時間を経過させたりすることは、全く問題ではなかったのだ。神の偉大な力を思えば、時間的・空間的な拘束など取るに足らぬものなのだから。
この場合、『聖ニコラの劇』では、一番端に設置される《場》は「天国」となる。次いで、「十字軍軍隊」、「王国内の居酒屋」、そして「サラセン王宮廷」という三つの《場》が並び、最後に「異教徒の神殿」の《場》が設置されるという配置になるだろう。
『テオフィールの奇蹟』でも『聖ニコラの劇』と同様に、まず一番端に「天国」の《場》が設置され、それから「聖母マリア礼拝堂」(天国の近くにある場所)、「司教の座る椅子」(現世での権力)、「サラタン(テオフィールと悪魔の仲介役のユダヤ人)の家」という劇展開を支える三つの重要な《場》が並び、最後に「地獄」の《場》が位置することになるだろう。
『テオフィールの奇蹟』で、テオフィール以外の主要な登場人物は自分の《場》を持っているのに対し、主人公のテオフィールは自分の《場》を持っていないことは、着目に値する。自分の《場》を持たないテオフィールは、上演中、常に《演技エリア》に姿をさらし続けることになる。いやむしろ彼が移動することによって、その先々に《演技エリア》が生成されると述べるほうがわかりやすいかもしれない。テオフィールは舞台に設置された、「地獄」を除く、全ての《場》を訪問する。各《場》は彼の訪問によって、《演技エリア》として順次、活性化していくのである。
このように、登場人物の一人が導きの糸となり、観客が、その人物が《場》から《場》へと移動するのを追いかけていくような構造を持つ作品は、『テオフィールの奇蹟』だけではない。例えば、『アラスのクルトワ』では主人公のクルトワの移動先が演劇的な《場》を形成するし、『聖ニコラの劇』では、サラセン王の使者であるオベロンが王の諸侯を呼び集めるときにこういった状況が出現する。しかしこれがこの時代の演劇作品の一般的・原則的な劇構造であったというわけでもないようである。というのも、「聖母奇蹟劇集」に収録された作品や『聖ニコラの劇』には、《場》が劇の筋の展開に従って連鎖的につながるのではなく、ある《場》から別の《場》に唐突に移り変わってしまうようなはっきりした断絶も見られるからである。
いずれにせよ、複数の異なる《場》が観客の目の前で一斉に提示されていれば、ある《場》から別の《場》への筋の展開はスムーズに行われていただろう。役者たちは自分の出番になると自分の《場》から《演技エリア》に現われ、演技を行い、出番が終わると自分の《場》に戻る。それと入れ替わりに出番となる別の役者が自身の《場》から《演技エリア》に出てくる。このようにして上演空間は上演中に移行していったのだろう。
これらの《場》に設置された舞台美術は、ごく簡単なものだっただろうとフェーヴルは推定する。十三世紀演劇の舞台では、現実の写し絵を舞台上に再現することよりもむしろ、象徴的な装置を使って、上演中のその場所がどこであるかを観客に明示することが重要だったからである。例えば、一脚の玉座によって王宮を、鉄の柵によって牢獄、コップが何個か置かれたテーブルがあればそれは居酒屋を表す、などといったやり方で、舞台空間は表現されていたと考えられる。パリの金銀細工商の組合による「聖母奇蹟劇」のように、信徒団体の行事で同じ場所で定期的に上演された場合には、舞台装置の一部は何年にもわたって使い回されていた可能性が高い。とりわけ「天国」と「地獄」の《場》は、どの作品にも共通して必要となるので、この《場》で使う装置は恒常的なものだったに違いない。この他の《場》については、作品毎に内容に応じて作り替えていっただろう。フェーヴルが想定した十三世紀演劇上演の形態、すなわち簡素で象徴的な舞台装置を効果的に使うことによって、劇の筋の展開の場は《演技エリア》上で自在に、自由に変化していったというイメージは、われわれには能の舞台の様子を連想させる。
十三世紀演劇では、時間の流れもまた空間同様に、ドラマの展開の都合に合わせて随意に変化させることができた。教会の内部で上演された典礼劇でもよく使われていた方法だが、場面転換が、しばしば時間の流れを加速させるための効果的な手段として用いられた。例えば『聖ニコラの劇』では、サラセン人王の使者、オベロンはほんの数秒間の間に、王の宮廷とコワン国将軍の領地の間を往復するが、この二国間は片道で三十日ほどかかることが、別の場面の台詞で示されている。
時間の跳躍が一回の場所移動による時間短縮では説明できない場合もある。例えば、リュトブフの『テオフィールの奇蹟』の以下の場面である。
(1)悪魔と臣従の契約書を取り交わしたテオフィールは、かつて自分から役職を取り上げた司教と和解し、司教代理の役職を取り戻す。
(2)そしてこの後、二人の同僚に喧嘩を売りに行く。テオフィールは自分が獲得した新しい権力を振りかざして、二人を脅迫する。
(3)しかし二人目の同僚へのテオフィールの悪辣な威嚇の台詞のすぐ後の場面で、テオフィールは聖母礼拝堂にいて、そこで自分の行いを悔い改めているのである。
この威嚇から改悛に至る二つの場面に移行に際して、時間の流れを示す舞台上の動きの指定は存在しないが、この礼拝堂でのテオフィールの独白の中で、われわれは七年の月日が前の場面から過ぎていたことを知る。唐突に七年の時間を経て二つの場面はつながっているのだ。七年間という数字は、この奇蹟譚にとって重要な意味を持っているわけではない。テオフィールが悪魔との契約の恩恵を被った期間が、数日であろうと長い年月であろうと、彼の犯した罪の本質が変わるわけではない。注目すべきことは、テオフィールが涜神的振る舞いをやめ、改悛するまでの時間が、劇行為のなかでは全く空白になっているということである。テオフィールの改悛は聖母マリアの介入を導き、劇内の時間は、七年の空白の内容について言及することのないまま、再び動き始める。ちなみに『テオフィールの奇蹟』より後の時代の「聖母奇蹟劇集」の作品でも、このような唐突な場面の移動が数年の年月を示すことはしばしば見られる。そしてそこでもしばしばこの象徴的な時間の経過は七年間とされる。
いずれにせよ、『テオフィールの奇蹟』では空間のみならず、時間もまた、ドラマの要請に従い自由に伸縮させられているのである。『テオフィール』のような奇蹟劇の劇作術においては、作品の宗教的主題を明快に示し、教化のために効果的に物語を展開させることを何よりも優先させなくてはならない。この目的のためには、世界の半分にあたる空間を一気に移動したり、一瞬の間に一年の時間を経過させたりすることは、全く問題ではなかったのだ。神の偉大な力を思えば、時間的・空間的な拘束など取るに足らぬものなのだから。
【03-07十三世紀都市の演劇】演劇的時空と現実の時空の統合:『葉陰の劇』の場合 ― 2012/02/18 16:52
十三世紀演劇作品の多くでは、『聖ニコラの劇』や『テオフィールの奇蹟』のように、複数の場所で同時進行的に複数のエピソードが展開するが、アダン・ド・ラ・アルの二つの劇作品、『ロバンとマリオンの劇』と『葉陰の劇』では時空間は異なった処理が施されている。この二つの作品では筋は単一の場所で展開し、劇中を流れる時間はほぼ現実の時間と重なっている。『ロバンとマリオンの劇』の舞台は、羊飼いたちが生活する田園に設定されている。羊飼いのマリオンが花冠を作っていると、そこに騎士が通りかかるという場面から劇は始まる。この発端から劇の最後まで、主人公のマリオンを含めすべての登場人物たち(騎士、ロバン、そして他の羊飼いたち)は、この唯一の場を入退場する。
『葉陰の劇』の舞台はアラスの町の一角である。この舞台上に設定された世界を出入りできるのは、妖精たちなどよその土地からアラスにやってきた登場人物だけである。アラスの住民たちは劇空間に囚われていて、この町から出ることはできない。『葉陰の劇』の17名の登場人物のうちの約半数は架空の人物ではなく、作者のアダンを始め、当時、実在したアラスの住民たちであり、こうした役柄はおそらく本人によって演じられていただろう。劇の内容から、自分自身を登場人物として演じる役者たちは、自分の出番になると客席から舞台に上がり、出番が終わるとまた客席に戻って、芝居を見物していた可能性が高いとフェーヴルは推定する。劇の冒頭で妖精を迎える東屋の準備をしていたアダンとリキエは、自分たちの出番が終わると、一旦客席に戻り、妖精たちの到来を他の観客たちと一緒に待つ。このとき、彼らとともに妖精の登場を待つ観客たちもまた、劇内世界と現実世界の重なり合う重層的な空間にいるのである。登場人物のひとりが客席の一角で立ち上がり、その場所で話しはじめる。あるいは《演技エリア》までやってきて、自分に割り当てられた役柄を演じ、その場面が終わると再び元の客席に戻って座る。『葉陰の劇』では、このように《演技エリア》である舞台と客席が一体となり、ひとつの演劇的空間が形成されていた。
このように劇空間と現実空間が統合されている一方で、『葉陰の劇』では劇内での場面の移行は明確なやり方で示されている。妖精たちの食卓の場面から、居酒屋の場面に移るときに、この場の転換を導くのは登場人物のひとりであるアーヌ・ル・メルシエ[小間物商のアーヌ]である。妖精たちがアラスの広場から立ち去ると、妖精たちが話しているあいだはずっと眠り込んでいた放浪の修道僧が目を覚ます。アーヌはよそ者であるこの放浪僧を、アラス住民の常連たちが集う居酒屋まで連れて行く(『葉陰の劇』875-902行)。この場面の移行のあいだに、妖精たちのために用意されて食卓は舞台上から片付けられ、それと入れ違いに場面が居酒屋であることを示すためのテーブルが《演技エリア》に設置されただろう。
フェーヴルはさらに劇内世界の場所が、現実の場所と重なっていたと想定する。つまり『葉陰の劇』の居酒屋の場面は、その当時、実際にアラスにあったラウル・ル・ウェディエが経営する居酒屋のなかで上演された可能性が高いと彼は考える。十三世紀のテクストを通して、当時の居酒屋の様子が再現されているというのは、実に魅力的な仮説である。戯曲に書き込まれた細部の描写がこの仮説の信憑性を高めている。例えば、居酒屋の客のリキエには次のような台詞がある。
「(居酒屋主人のラウルに向かって)おい、一杯お願いするよ。(仲間のギヨに向かって)さあ、こっちに座ろう。ほら、そこの窓の縁(li rebas)に葡萄酒の瓶は置いておけばいいよ(914-917行)」
「窓の縁(li rebas)」という特定の場所を示す記述は、この作品が上演される場所が前もって決まっていたからこそ出てくるように思える。『葉陰の劇』の居酒屋では、このように想像上の劇空間と現実の空間が重なりあっていた可能性が高いのである。
『葉陰の劇』では空間的な面だけでなく、時間的な面でも、劇世界と現実世界は重なり合っている。劇中でアラスの住民たちは妖精を迎えるために食卓を準備し、その食卓に妖精たちは降り立つが、この芝居を観ている観客たちはまさに妖精たちがこの町にやってくることになっている夜にこの芝居を観ていたのだとフェーヴルは考える。登場人物の一人であるリキエは言う。
「妖精たちが今晩やって来るのは昔から決まっている習慣なのだ(566-567行)」
『葉陰の劇』の観客は、この妖精たちの到来を迎える夜を、演劇的世界にいる登場人物たちとともに過ごすのである。劇内の時間の速度は、現実の速度よりも若干早く進む。劇は夕暮れに始まり、翌日の日の出の時間に終わる。しかし『テオフィールの奇蹟』や『聖ニコラの劇』に見られるような時間の跳躍は、『葉陰の劇』にはない。またアダン・ド・ラ・アルのもうひとつの演劇作品、『ロバンとマリオンの劇』でも、『葉陰の劇』同様に、劇内時間と実際の時間はほとんど重なっている。
こうした劇の時・空間と現実の時・空間の重層化は、十三世紀の演劇作品の中では、アダン・ド・ラ・アルの二つの演劇作品に特有のものだ。こうした時・空間の統合はこの時代の劇作術としては例外的なものだったかもしれない。ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』では、演劇的時・空間の扱いは、アダン・ド・ラ・アルの作品と異なり、複合的なシステムが導入されている。『聖ニコラの劇』の最初の部分では、ジャン・ボデルは複数の場所と時間を設定し、並行して筋を進行させる。しかし中間の夜の居酒屋の場面では、筋を単一の時間と場所のなかで展開させる。そして最後の部分では、居酒屋の場面とサラセン王の宮廷の場面が交互に現れる。これはひとつの形式に留まることに作者が躊躇した結果こうなってしまったのだろうか、あるいは作者は敢えて複数のリズムを作品のなかに取り入れようとしたのだろうか。
『葉陰の劇』の舞台はアラスの町の一角である。この舞台上に設定された世界を出入りできるのは、妖精たちなどよその土地からアラスにやってきた登場人物だけである。アラスの住民たちは劇空間に囚われていて、この町から出ることはできない。『葉陰の劇』の17名の登場人物のうちの約半数は架空の人物ではなく、作者のアダンを始め、当時、実在したアラスの住民たちであり、こうした役柄はおそらく本人によって演じられていただろう。劇の内容から、自分自身を登場人物として演じる役者たちは、自分の出番になると客席から舞台に上がり、出番が終わるとまた客席に戻って、芝居を見物していた可能性が高いとフェーヴルは推定する。劇の冒頭で妖精を迎える東屋の準備をしていたアダンとリキエは、自分たちの出番が終わると、一旦客席に戻り、妖精たちの到来を他の観客たちと一緒に待つ。このとき、彼らとともに妖精の登場を待つ観客たちもまた、劇内世界と現実世界の重なり合う重層的な空間にいるのである。登場人物のひとりが客席の一角で立ち上がり、その場所で話しはじめる。あるいは《演技エリア》までやってきて、自分に割り当てられた役柄を演じ、その場面が終わると再び元の客席に戻って座る。『葉陰の劇』では、このように《演技エリア》である舞台と客席が一体となり、ひとつの演劇的空間が形成されていた。
このように劇空間と現実空間が統合されている一方で、『葉陰の劇』では劇内での場面の移行は明確なやり方で示されている。妖精たちの食卓の場面から、居酒屋の場面に移るときに、この場の転換を導くのは登場人物のひとりであるアーヌ・ル・メルシエ[小間物商のアーヌ]である。妖精たちがアラスの広場から立ち去ると、妖精たちが話しているあいだはずっと眠り込んでいた放浪の修道僧が目を覚ます。アーヌはよそ者であるこの放浪僧を、アラス住民の常連たちが集う居酒屋まで連れて行く(『葉陰の劇』875-902行)。この場面の移行のあいだに、妖精たちのために用意されて食卓は舞台上から片付けられ、それと入れ違いに場面が居酒屋であることを示すためのテーブルが《演技エリア》に設置されただろう。
フェーヴルはさらに劇内世界の場所が、現実の場所と重なっていたと想定する。つまり『葉陰の劇』の居酒屋の場面は、その当時、実際にアラスにあったラウル・ル・ウェディエが経営する居酒屋のなかで上演された可能性が高いと彼は考える。十三世紀のテクストを通して、当時の居酒屋の様子が再現されているというのは、実に魅力的な仮説である。戯曲に書き込まれた細部の描写がこの仮説の信憑性を高めている。例えば、居酒屋の客のリキエには次のような台詞がある。
「(居酒屋主人のラウルに向かって)おい、一杯お願いするよ。(仲間のギヨに向かって)さあ、こっちに座ろう。ほら、そこの窓の縁(li rebas)に葡萄酒の瓶は置いておけばいいよ(914-917行)」
「窓の縁(li rebas)」という特定の場所を示す記述は、この作品が上演される場所が前もって決まっていたからこそ出てくるように思える。『葉陰の劇』の居酒屋では、このように想像上の劇空間と現実の空間が重なりあっていた可能性が高いのである。
『葉陰の劇』では空間的な面だけでなく、時間的な面でも、劇世界と現実世界は重なり合っている。劇中でアラスの住民たちは妖精を迎えるために食卓を準備し、その食卓に妖精たちは降り立つが、この芝居を観ている観客たちはまさに妖精たちがこの町にやってくることになっている夜にこの芝居を観ていたのだとフェーヴルは考える。登場人物の一人であるリキエは言う。
「妖精たちが今晩やって来るのは昔から決まっている習慣なのだ(566-567行)」
『葉陰の劇』の観客は、この妖精たちの到来を迎える夜を、演劇的世界にいる登場人物たちとともに過ごすのである。劇内の時間の速度は、現実の速度よりも若干早く進む。劇は夕暮れに始まり、翌日の日の出の時間に終わる。しかし『テオフィールの奇蹟』や『聖ニコラの劇』に見られるような時間の跳躍は、『葉陰の劇』にはない。またアダン・ド・ラ・アルのもうひとつの演劇作品、『ロバンとマリオンの劇』でも、『葉陰の劇』同様に、劇内時間と実際の時間はほとんど重なっている。
こうした劇の時・空間と現実の時・空間の重層化は、十三世紀の演劇作品の中では、アダン・ド・ラ・アルの二つの演劇作品に特有のものだ。こうした時・空間の統合はこの時代の劇作術としては例外的なものだったかもしれない。ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』では、演劇的時・空間の扱いは、アダン・ド・ラ・アルの作品と異なり、複合的なシステムが導入されている。『聖ニコラの劇』の最初の部分では、ジャン・ボデルは複数の場所と時間を設定し、並行して筋を進行させる。しかし中間の夜の居酒屋の場面では、筋を単一の時間と場所のなかで展開させる。そして最後の部分では、居酒屋の場面とサラセン王の宮廷の場面が交互に現れる。これはひとつの形式に留まることに作者が躊躇した結果こうなってしまったのだろうか、あるいは作者は敢えて複数のリズムを作品のなかに取り入れようとしたのだろうか。
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