【03-08十三世紀都市の演劇】十三世紀演劇とフォークロア(1):『ロバンとマリオンの劇』の場合2012/04/05 15:08

現存する十三世紀の演劇作品には上演記録が残っていないため、上演の状況については作中に記されている情報から推定するしかない。この時代には常設の劇場はまだ存在せず、興行としての演劇は成立してなかった。十三世紀の演劇作品の多くは共同体の祝祭や儀式のおりに上演されたと考えられている。アダン・ド・ラ・アルの二つの劇作品、『ロバンとマリオンの劇』と『葉陰の劇』には、作品成立の背景となる当時の祝祭およびフォークロアを想起させる興味深い記述が含まれている。

『ロバンとマリオンの劇』は羊飼いと騎士の恋のやりとりを描く中世抒情詩のジャンルであるパストゥレルの世界を、田園牧歌劇のかたちに書き換えた作品だ。この作品は、1282年頃、シチリア王、シャルル・ダンジュのナポリの宮廷で、饗宴の余興として上演されたと考えられている。アダンは1280年頃からシャルル・ダンジュの甥であり、アラスの領主であったアルトワ伯ロベール二世に仕え、1282年の「シチリアの晩鐘」事件の後に、伯とともにイタリアに赴き、そこで1288年頃に死んだと推定されている。

『ロバンとマリオンの劇』は大きく二つの部分に分かれる。羊飼い娘マリオンと騎士のやりとりが中心となる前半の部分には、多数の歌とダンスが挿入されている。後半はマリオンとその恋人ロバン、そして彼らの羊飼いの仲間たちによる遊戯の場面が続き、劇の最後はダンスで締め括られる。

フォンテーヌは『ロバンとマリオンの劇』で描かれたダンス、遊戯の数々とその配置を、ほぼ同時期の作品、ジャック・ブルテル の『ショヴァンシの騎馬槍試合』(1285年)に詳述された宮廷の饗宴のプログラムと比較し、両者の類似点に着目した*。『ショヴァンシの騎馬槍試合』では1285年にロレーヌ地方のショヴァンシで行われた大規模な騎馬槍試合とそれに伴う宮廷の饗宴の様子が詳細に記録されている。フォンテーヌは、現実の宮廷宴会のプログラム構成と『ロバンとマリオンの劇』のなかで演じられる羊飼いたちの歌、ダンス、食事、遊戯との間の多くの共通点を指摘している。『ロバンのマリオンの劇』に記述された多彩な娯楽の構成には、『ショヴァンシの騎馬槍試合』で描写されるような当時の宮廷の饗宴の様相が反映されているというフォンテーヌの指摘は、この作品がナポリの宮廷で饗宴の余興として上演されたという従来の仮説を補強するものとなっている。多様な要素が詰め込まれたことによって『ロバンとマリオンの劇』は雑然としたレビューの様相を呈しているが、それはこの作品が宮廷の饗宴のためのプログラムとして構想された結果と考えると説明がつく。

『ロバンとマリオンの劇』の後半で羊飼いたちが行う遊戯は、当時の風俗を伝える興味深い資料となっている。羊飼いたちは「聖コームの遊び」と「王と王妃の遊び」という遊戯を行う。この二つの遊戯の名前は、ラブレーの『ガルガンチュア』第二十二章のなかで列挙された遊戯の一覧のなかにも見出すことができる。また前述の『ショヴァンシの騎馬槍試合』でも、「王と王妃の遊び」は貴族たちによって行われている。

「聖コームの遊び」はにらめっこの変種のような他愛もない遊びである。 一人がまず聖コームに選ばれる。他のものは聖コームに順番にふざけた贈り物を捧げにいくのだが、聖コームが変な顔をして、笑わせようとするのを我慢しなければならない。そのときに笑ってしまったら、聖コームの役を代わって引き受けることになる。「王と王妃の遊び」は「嘘をつかない王」という名前でも知られている遊戯で、十三、四世紀の宮廷でよく行われていた。まず王、もしくは王妃を一人選ぶ。王(もしくは王妃)は、臣下たちに何か質問をし、臣下たちはその質問には必ず答えなければならない。その質問の内容は恋愛、恋人に関するものが多く、しばしばきわどい性的な仄めかしを含む。

ヴォルティエが提示する史料には、ペンテコステ(聖霊降臨祭)のおりに毎年アンジェで『ロバンのマリオンの劇』というタイトルの演劇作品が上演されたことが記されている**。この『ロバンとマリオンの劇』はアダン・ド・ラ・アルの作品であるかどうかはわからないのだが、演劇作品の上演がペンテコステの祝祭と関わりがあったことを伝えている点で注目に値する。移動祝祭日であるペンテコステは五月初旬から六月初旬のあいだに祝われるが、このペンテコステの祝祭は春の到来を祝う五月祭の習俗と混同されることが珍しくなかった。五月祭の習俗は時代、地域によって異なるが、グリン・ウイッカムによれば、十七世紀はじめごろまでのイギリスの五月祭では王と王妃が祭の参加者のなかから選出され、彼らはロビンフッドとマリオンと呼ばれたとのことである***。中世フランスの牧歌では羊飼いのカップルだったロバンとマリオンが、近代初期のイングランドの五月祭の風習ではアウトローの英雄ロビンフッドとその恋人マリアンに姿を変えているというのは興味深い。五月祭の王と王妃の名前に加え、アダン・ド・ラ・アルの『ロバンとマリオンの劇』で羊飼いたちが興じた遊戯のひとつが「王と王妃の遊び」であることも、五月祭の風習とこの田園牧歌劇の成立とのつながりを示唆している。ロバンとマリオンを主人公とするフランスの田園牧歌の伝統は、近代初期のイングランドの五月祭のなかで、ロビンフッド伝説、森に住むとされた野生の男(緑の男)のフォークロアと混じり合い、新たな形で継承されていたのである。

* Marie-Madeleine Fontaine, « Danser dans le Jeu de Robin et Marion », in Le Corps et ses énigmes au Moyen Age, dir. par B. RIBÉMONT, actes du colloque Orléans 15-16 mai 1992, Caen, Paradigme, 1993, p.45-54.
** Roger Vaultier, Le Folklore pendant la guerre de Cent Ans d'après les lettes de rémission du Trésor des Chartes, Paris, Guénégaud, 1965, p. 72.
***グリン・ウィッカム『中世演劇の社会史』山本浩訳、筑摩書房、1990年、p.193-197.

【03-09十三世紀都市の演劇】十三世紀演劇のフォークロア(2):五月祭の風習と『葉陰の劇』2012/04/12 23:52

十三世紀演劇のフォークロア(2):五月祭の風習と『葉陰の劇』

アダン・ド・ラ・アルのもう一つの演劇作品『葉陰の劇』は、『ロバンとマリオンの劇』以上に豊かなフォークロア的要素を含有している。バフチンは『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』のなかで、『葉陰の劇』に見られるカーニヴァル的要素について言及し、ラブレーのグロテスク・リアリズムの世界の先駆をこの作品に見出している*。

バフチンは『葉陰の劇』の登場人物たちが、カーニヴァル的祝祭に許された権利を行使していると指摘する。この劇では、通常の生活の軌道を逸脱し、あらゆる公的で聖的な価値を転倒させることが許された無礼講の状況が再現されていることを確認することができるからだ。バフチンはまた『葉陰の劇』に現れるカーニヴァル的モチーフを列挙する。尿による医者の病気診断、阿呆、狂人、娼婦といった周縁的人物、異教的存在である妖精たちの到来、妖精の予言と呪い、運命の輪についての解説、酒宴、サイコロ遊び、ミサのパロディ、聖遺物の効用への揶揄など。こうしたカーニヴァル的要素によって、通常の秩序から逸脱した非公式な世界がこの作品のなかで表現されていることにバフチンは注目し、こうした主題系と五月祭のフォークロアとの関係性を強調している。

『葉陰の劇』を、ラブレー的なグロテスク・リアリズムの系統のなかに位置づけ読み解くバフチンの解釈は魅力的ではあるが、カーニヴァルをキーワードとする彼の民衆文化論では歴史学的、文学史的な実証性は問題になっていないことには注意する必要があるだろう。バフチンの「カーニヴァル」は、シャリヴァリ、公現祭、五月祭、定期市、婚礼、収穫祭などかつて行われていたあらゆる民衆的祝祭様式の特性が集約された概念的なものなのである。

フランスの中世演劇の研究者、ミシェル・ルスはより実証的な観点から『葉陰の劇』と五月祭のフォークロアの関係について論証を試みている**。ここからはルスの説に依りながら、『葉陰の劇』のフォークロワ的要素について述べることにしよう。まず作品の上演日について検討してみよう。作品に現れる様々なフォークロア的モチーフから、この作品が五月祭の習俗ととりわけ深い関係を持っていることを重視したバフチンは、作品の上演が五月祭の祝日である5月1日に行われたという説をとっている。『葉陰の劇』 と五月祭の関係についてはルスも見解を同じくするが、作品の上演日についてはロジェ・ベルジェなどの研究に基づき、別の説をとっている。

作品の上演年については、作中で言及されている社会的事件や固有人名から1276年というのが定説になっている。アドルフ・ゲノンは、この作品がこの年のペンテコステ(聖霊降誕祭)の前日である5月30日土曜日に上演されたと考えた。聖霊が使徒のもとに降臨したことを祝うペンテコステは移動祝日で、復活祭後の第七日曜日がこの祝日に当たる。当時の史料によると、この日はアラスのシテ地区に居住していた聖堂参事会会員が、アラスのノートルダム教会の聖遺物匣を町の広場に設置された東屋(この東屋は緑の葉のついた木枝で作られていたためfeuilléeと呼ばれていた)に移動させる習慣があった。

ノートルダム教会の聖遺物匣については、劇中でも言及されている。ルスもこの劇がペンテコステの習俗と関わりを持っていたとするゲノンの見解を妥当なものだとするが、劇の登場人物と実際の信心会メンバー(『葉陰の劇』にはアラスの住民が実名で登場する)の重なりや、劇中時間が夜から朝にかけてに設定されていることから、この芝居の上演はペンテコステの前夜ではなく、その前後の別の日に開催された〈アラスのジョングルールとブルジョワの信心会〉の会合で行われたいうロジェ・ベルジェの説を支持している。そしてベルジェの研究によると、この年、ペンテコステの祝日の近くにあった信人会の集会の日は、三位一体の祝日(ペンテコステの後の最初の日曜日)の前の木曜、1276年6月5日になる。『葉陰の劇』の上演日をペンテコステと関連づけるルスたちの仮説に対しては、ペンテコステは劇の主要なモチーフを構成する五月祭とは日が離れすぎているという反論もある。しかしエルンスト・ラングロワが13世紀にペンテコステと五月祭が混同されていたことを指摘している他、近代の風習についての報告であるが、民俗学者のファン・へネップも地域によって五月祭の風習がペンテコステの時期に行われていたことを報告している。

ルスは劇中で提示される主題とフォークロアの関係について、主にファン・へネップが報告するフランス各地の五月祭の風習を参照することで、興味深い仮説を提示している。1098行からなる(バデルの校訂に基づく行数***)『葉陰の劇』は内容的に大きく三つの部分に分かれ、全体では25のエピソードを引き出すことができる。この作品を記録する写本(Paris, BnF, fr. 25566)上では、テクストは近代劇のように幕や場で区切られたかたちで記録されているわけではないが、ここでは便宜的に第一部、第二部、第三部と呼ぶことにしておこう。第一部(1〜589行)は作者をはじめとするアラスの住民たちが中心となる場である。この最初の部分の51行から174行で、登場人物のアダンは、妻マロワとの出会いと愛の誕生、そして出会ったときの若々しいマロワの美しさと年齢を重ね容貌の衰えた現在のマロワの姿を対比させて、長大な叙情詩的長台詞で歌い上げるが、この描写は中世の叙情詩、とりわけパストゥレル(羊飼い娘の歌)で伝統的に歌われてきた出会いと愛の誕生のトポスと重なる。そしてこの愛が生まれる季節は、多くの場合、緑の萌え出づる五月である。

アダンとその妻の恋愛についてのエピソードの後、登場人物たちは町の住人の結婚生活について噂話をはじめ、とりわけ女性について辛辣な論評を行う。男たちによる女性に対するあけすけできわどい批評もまた五月祭の風俗として中世の史料で確認することができる。

第一部後半ではいかがわしい医者が登場し、彼は尿を使った診断で町の住民たちを診断する。その診断で明らかになるのはアダンの父やその他のブルジョワたちの吝嗇病やドゥシュ婦人の乱れた性生活ぶりである。バフチンも言及する民衆文化的なグロテスク・リアリズムの笑いの場面である。医者の次には、放浪僧がやってきて阿呆を治すという聖アケールの聖遺物で商売を始める。町に住む阿呆の他、隣町から狂人がやってきてその場を混乱させる。阿呆の祝祭といえば、降誕祭から公現祭にかけての時期に行われることが多かったのだが、五月から六月にかけての時期に信心会によって阿呆祭が行われる地域もあった。

五月祭のフォークロアとの関連で最も興味深いのは、『葉陰の劇』第二部の妖精たちのエピソードである。アラスの町の広場に、年に一度、妖精たちが降り立つ伝統があったことは、劇中の登場人物の台詞のなかで示されている。この妖精たちが現れるのは夜でなければならなかった。キリスト教以前の異教的な要素の強い五月祭の行事は、公的なキリスト教的秩序のもとにはる昼間ではなく、夜のあいだに行われることが多かったのである。

ファン・へネップはドイツやフランスの一部で四月三十日の夜から五月一日にかけてかつて行われていた魔法使いを迎える風習についても報告している。『葉陰の劇』では、アダンと彼の友人のリキエが夜にやってくる妖精たちの食卓の準備を行っている。食卓に降り立つのはモルグ、アルシル、マグロールという三人の女の妖精である。モルグとアルシルは食卓を準備したアダンとリキエに好ましい予言を授けるが、マグロールは自分の場所にナイフが用意されていなかったことに機嫌損ね、二人の男に呪いをかける。妖精たちは、妖精の王エルカンとの恋やアラスの大ブルジョワについての噂話、そして運命の輪について語ったあと、、アラスの別の場所で彼女たちを待つ老女たちのもとに向かうため、食卓の場所から立ち去る。

十三世紀には妖精の信仰が盛んであったことはダニエル・ポワリオンの研究によって裏付けられている****。『葉陰の劇』より時代は下るが、近代の五月祭の風習には、『葉陰の劇』の妖精たちを連想させる興味深いものがいくつかある。例えば、予言の書の著者として有名な十六世紀のノストラダムスは当時の南仏で次のような風習があったことを伝えている。まず界隈で最も美しい娘を選ぶ。その娘を花の冠、花綱で飾り立てた服装を着せ、女神のように玉座に座らせる。そこを通りかかった人は、キスと引き換えにお金を置く。
ファン・へネップは19世紀の南フランスで行われていた以下のような五月祭の風習を報告している。

・五月の女王は、聖体行列の祭壇のように飾られてた小さなテーブルのそばに座る。仲間の女性たちが彼女の結婚資金のための募金を呼びかける(モンペリエ)。
・五月の女王はリボンと花で飾られた白いドレスを来て、町中に置かれたテーブルに座る(アグド[南仏の都市])。
・五月一日に子供たちは一人の若い娘を通りに連れ出す。この女性は五月の女王と呼ばれた。町中の交差点に花で飾られた祭壇を作り、そこにその女王を座らせる。仲間の女性たちは持参金を持たせるためのお金を通りがかりの人にお願いする(ニーム)。
・五月の四回の日曜には、若い娘たちは、町で一番美しい娘を、宝石や羽、花で飾り、葉のついた樹枝と花でできた丸屋根の小屋の中に座らせる。仲間の娘たちは通りがかりの人たちに花を与え、引き換えに金銭を受け取る(アルデッシュ)。

『葉陰の劇』の妖精たちの場面には、上にあげた近代の五月祭風習との興味深い類似点がいくつか確認することができる。五月祭では五月の女王は何人かの若い娘たちに取り巻かれているが、『葉陰の劇』でも妖精は一人ではない。三人の妖精たちがやって来るが、そのなかでモルグが他の二人の妖精、マグロールとアルシルの主人であることは、そのやり取りから明らかである。五月祭の娘たちのように、この三人の妖精たちは、着飾っている。『葉陰の劇』では妖精たちを迎えるための食卓が準備されるが、モンプリエとアジドでも五月祭女王のためのテーブルが用意されていた。

五月祭で少女たちが募金を行うという風習は多くの地域でみられたことがへネップの報告からうかがい知ることができるが、この募金の目的は、へネップによるモンプリエとニームの五月祭の報告にあるように、五月の女王の結婚資金を得ることにあったのだろう。五月の女王はしばしば五月の花嫁と呼ばれることもあった。『葉陰の劇』でも妖精の結婚はほのめかされている。妖精モルグは、妖精の王エルカンの求愛を受け入れ、永遠の愛を誓うむねを、エルカンの使者クロクソに伝える。また劇の最後の場面で、狂人は「行くぞ、私は花婿なんだ」(1092行)という前後の文脈からは意味不明の捨て台詞を残して舞台から退場するが、ルスはこの台詞は「五月の花嫁」を踏まえたパロディであり、この作品と五月祭のフォークロアの関わりがあってこそ意味のあるギャグになっていると主張している。

『葉陰の劇』の三人の妖精が、近代の五月祭における女王へと姿を変えた経緯については、以下のような説明がある。へネップの五月祭習俗の研究では、各地で見られる五月の女王は座ったまま、じっと動かないという共通した特徴を持つことが報告されている。へネップは、この不動性は五月の女王がその起源において持っていた厳かな聖性を象徴するものであると考えた。何世紀もの資料の空白はあるが、へネップがまず想起したのは古代ローマの女神、フローラである。フローラは花と豊穣の女神であり、その祭礼では陽気でしかも卑猥な祝祭劇が上演されたという。ただしガリア地方でのフローラ信仰は確認されていない。キリスト教以前の古代のガリア地方で信仰の対象となった女神としてはマーテルがいる。このマーテル女神は三人組だった。ダニエル・ポワリオンはこの古代ガリアのマーテル三女神が中世においては妖精となり、『葉陰の劇』で三人の妖精となって現れたのだとと推定している****。その後、ガリアの三女神は中世後期に盛んになったマリア信仰のなかに取り込まれた。近代の五月の女王には聖母マリアの面影も投影されているという。イングランドでは五月の女王は、ロビンフッド伝説と結びつき、ロビンフッドの恋人、マリアンの名前が五月の女王に与えられたことは、既に述べた。マリアンの名前は、中世フランス文学の羊飼い娘の名に由来し、アダン・ド・ラ・アルの『ロバンとマリオンの劇』の主人公でもあった。近代の五月の女王の二つの原型が、アダン・ド・ラ・アルの二つの劇作品のなかで提示されているのである。

ナイフを用意されていなかった妖精が機嫌を損ね、呪いをかけるという『葉陰の劇』のエピソードは、ペローやグリム童話で取り上げられている『眠れる森の美女』に繋がるものであることは敢えて指摘するまでもないだろう。『葉陰の劇』の妖精、モルグ、アルシル、マグロールは、近代に伝承された妖精の民話の原型でもあるのだ。

作品のタイトルとなっている「葉陰」feuilléeもまた五月祭のフォークロアと関わりを持つ。『葉陰の劇』というタイトルは、作品を記載する写本でテクストの終わりを示すために写字生が記す作品末記述(explicit)から取られている。写本では、当時のピカルディ方言形でfuellieと記されているが、これは「狂気」を意味するfolieと同音異義語であり、作品内容から考えて「葉陰」と掛詞になっている。

「葉陰」という訳語が当てられたfuellie(現代仏語のfeuillée)は、葉のついた樹枝に関係するさまざまな事物を指し示す。五月祭の夜に、緑葉のついた樹枝を森に取りに行くという風習は、十三世紀前半の韻文物語、『ギヨーム・ド・ドール』で言及されている*****。 『葉陰の劇』が上演された十三世紀後半のアラスでは、ノートルダム教会の聖遺物匣を納める緑葉の樹枝で作られた小屋が、fuellieと呼ばれ、この聖遺物匣は、年に一度、ペンテコステの日に町の広場に移送される慣わしがあったことは既にこの章で述べた。『葉陰の劇』の登場人物のひとりはこの聖遺物匣について次のように言及している。

「それより、ノートルダムの聖遺物箱にキスしに行こうじゃないか。そしてそこにろうそくを捧げよう。ろうそくがちゃんと匣を照らしてくれるように。それが一番いいよ」(1076-77行)

へネップの調査によると、アルデシュ県のジエールの五月祭ではかつて、若い娘たちは緑の葉のついた小枝で小さな東屋を作り、そこに五月の女王を座らせていた。聖遺物匣にせよ、五月の女王にせよ、緑葉の樹枝でできた小屋は聖的なものを保護する機能を持っていた。『葉陰の劇』の劇中の台詞のなかには実はfuellieという語は使われていない。にもかかわらず、この作品を写本に記録した写字生はどうしてfuellieを、巻末語として採用したのだろうか。もしこの劇におけるfuellieが、ノートルダム教会教会の聖遺物匣を保護する小屋を指していたとすれば、その小屋は劇の上演空間の外側にあったことになる。しかし台詞の上でも、視覚的にも現れない事物を、作品のタイトルの機能を持つことが巻末語として採用するのは奇妙に感じられる。ルスはfuellieは舞台上に劇の最初から最後まで舞台装置として設置されていたと考える。そしてこのfuellieの存在は、登場人物の台詞のなかで、間接的なやり方で示されている。妖精の到来の場面の直前に、アダンとともに妖精の食卓を準備していたリキエは、よその土地からやって来た放浪僧に次のように話す。

「お坊さん、いいことをしてくれないかね。あんたの持ってきた聖遺物を隠しておいて欲しいんだ。もしあんたがここにいなければ、とっくの前に、この場所で、妖精たちの素晴らしい奇蹟が起こっていたはずなんだ。」(559-566)

「この場所で(chi endroit)」と言うとき、リキエは舞台上に設置された「葉陰」を指差していたのだとルスは述べる。そしてジエールの五月の女王の風習に見られるように、この「葉陰」は、妖精たちを迎える食卓を覆う東屋であったとルスは解釈した。

ペンテコステの日に町の広場に移送されるノートルダム教会の聖遺物匣を護る「葉陰」は、妖精たちを迎えるために建てられた(そして後の時代に五月の女王の風習へとつながる)異教的性格の「葉陰」とは相入れない存在である。しかし『葉陰の劇』で成立したバフチン的意味の「カーニヴァル」的世界のなかで、教会的「葉陰」は異教的「葉陰」を押しのけることができなかった。上に引用したリキエの台詞には、この二つの世界の共存の難しさが示されている。キリスト教的世界の記号である聖遺物と聖職者が舞台上に見える間は、異教的な存在である妖精たちは姿を現すことができないのだ。アダン・ド・ラ・アルは『葉陰の劇』のなかで、二つの「葉陰」を反目と補完の関係のなかで共存させようとしている。このキリスト教と異教の二つの世界を調整するために、まず妖精たちを「葉陰」に迎えたあとで、アラスの住民たちはもう一つの「葉陰」があるノートルダム教会の聖遺物匣にロウソクを捧げに行くのである。妖精たちを迎える「葉陰」は舞台装置として中央に設置され、一夜の無礼講の夜、非公式の世界を象徴するものとして機能した。しかしノートルダム教会の聖遺物匣について言及し、アラスの住人たちがそこへ祈りを捧げに行く場面で作品を締めくくることで、劇の作者であるアダンは「葉陰」がキリスト教化された状況も示しているのである。

アラスの中心にあった聖ヴァースト修道院が伝える十四世紀の記録には、プチ・マルシェ広場にノートルダム教会の聖遺物匣を収めるための葉陰が設置され、そこで様々な贈り物や若い人たちによる娯楽行事が行われたことが報告されているが、妖精たちの記述はない。『葉陰の劇』上演から一世紀がたったこの時代になると、妖精たちを迎える異教的葉陰の伝統はアラスから消滅し、キリスト教的な葉陰の風習だけが残ったようである。

*ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』杉原直人訳、水声社、2007年、31、331-339頁。
** ROUSSE (Michel), « Le Jeu de la feuillée et les coutumes du cycle de mai», in Mélanges de langue et littérature françaises du Moyen Âge et de la Renaissance offerts à Monsieur Charles Foulon, Rennes, Univ. de Haute-Bretagne, 1980, t. 2, p. 313-327, repris dans La Scène et les tréteaux, Orléans, Paradigme, p. 169-196.
*** Adam de la Halle. Œuvres complètes, éd. et trad., Pierre-Yves Badel, Paris, LGF, 1995, p. 286-375.
****Daniel Poirion, « Le rôle de la fée Morgue et de ses compagnes dans le Jeu de la Feuilée », Bulletin bibliographique de la société internationale arthurienne, t. 18 (1966), p. 125-135. Voir en particulier p. 128-130.
***** Jean Renart, Guillaume de Dôle, éd. Félix Lecoy, Paris, 1962. CFMA, v.4151-4162

【03-10十三世紀都市の演劇】中世都市の風土における個人の姿2012/04/26 11:25

十三世紀の演劇作品は十数篇ほどしか現存していないが、それぞれの作品は様々な主題や異なる劇作術を示している。こうした多様な作品に共通して見られる特質を挙げるとすれば、主要な登場人物が類型ではなく、ひとりの個性を持つ人間として行動していることを挙げることができるだろう。十三世紀演劇が描き出すのは、さんざんためらい、迷い、葛藤した挙句、最後には本人が全く思いがけなかったような方向に落ち込んでしまうような人間の有り様である。

『テオフィールの奇蹟』では、テオフィールは悪魔に身を捧げるものの、結局は改悛して信仰を取り戻す。『葉陰の劇』のアダンは、個人の運命の転換を描く十三世紀演劇の特質を典型的に示している。劇の冒頭でアダンは勉学のため、これからパリに旅立つとアラスの友人たちに宣言するが、劇の最後の部分になっても彼はまだアラスにいて、仲間たちと居酒屋で酔いつぶれている。パリになかなか旅立つとことができないアダンの葛藤の証人となるのは観客である。果たして彼は結局パリに行くことはできなかったのだろうか? パリ行きは彼にとって不可能な夢だったのだろうか? 作者自身を作品の登場人物とする『葉陰の劇』は、自己を演じるロールプレイ、あるいは己を戯画化した「私演劇」でもある。作者でもあり演者でもアダンは、世間の自分に対する批判、嘲笑に対して、萎縮したり、弁明したりするのではなく、演劇作品を通して自虐的に自己の姿をさらすことで応えているのである。

十三世紀都市の演劇作品の登場人物たちは、社会的宿命に為す術もなく囚われたままの受動的な人物ではない。彼らは苦悩と葛藤、絶望のなかで、その宿命から逃れで出ようという意志を持っている。たとえ宗教的作品であっても、そこに登場する人物は、神と悪魔に弄ばれる繰り人形ではないのである。十二世紀半ばに書かれた教会の演劇、『アダム劇』では、悪魔がエヴァのもとに歩み寄ったが、そのおよそ一世紀後にパリのリュトブフが書いた『テオフィールの奇蹟』では、テオフィールが自らの意志に基づき悪魔のほうへと向かう。

十三世紀都市の演劇では金銭が重要な役割を担う。この金銭への執着によって、教会の演劇にはみられない、自らの意志によって主体的に動く人物が登場することが可能になったとフェーヴルは指摘する。十三世紀の演劇作品のなかで、金銭欲から自由な人物は、騎士からのプレゼントを拒否した『ロバンとマリオンの劇』の羊飼い娘マリオンだけである。この田園牧歌劇は、十三世紀演劇作品のなかで、金銭の介在しない純粋な愛の風景を描いた唯一の作品になっている。他の作品に登場するクルトワ、テオフィール、アダン、そしてアラスの住民たちといった人物はすべて、金銭への欲望に囚われ、この欲望が彼らの行動を決定する。自分自身の欲望に従って生きようとする者にとって、富は必要不可欠なものとなる。金銭は十三世紀演劇の人物にとって決定的な役割を持つようになった。『聖ニコラの劇』で異教徒の王が聖ニコラを畏怖し、改宗を決意したのは、聖ニコラが奇蹟によって王の宝物を守ったからであり、さらにその宝物を二倍にしてくれたからなのである。

都市の申し子である十三世紀演劇には、聖職者の文化に見られるような現世への軽蔑的態度、現世をあの世へ向かう通過のための一時的な場所として軽視するような考えは、見出すことができない。天上的価値と地上的価値を和解させることを目指す都市の論理を、十三世紀都市の演劇は示そうとしている。個人が富を後ろ盾に社会的に成り上がって行くことは都市社会では必ずしも否定されるものではないが、こうした生き方は、おそらく当時の都市では、道徳的なものであるとはみなされていなかった。演劇作品のなかでは、こうした利己的態度は風刺的に取り上げられた。異教徒、卑しい身分の人間たち、そして吝嗇なブルジョワたちといった人間たちが、金銭欲に囚われた存在として批判的に描き出される。しかし彼らはその金銭欲への執着によって、個として立ち現れた存在にもなっている。

こうした都市における欲望と個のあり方を鮮やかに描き出している例としてフェーヴルは、十三世紀後半に書かれた笑劇(ファルス)の先駆的作品である『少年と盲人』をとりあげる。この作品の主人公である少年は、純真な子供ではなく、厳しい世間のなかを狡猾に生き抜いてきた不良である。物乞いの手伝いをする小僧を探している盲人がいた。少年はこの盲人にうまく取り入って雇われの身となる。少年は盲人の目が見えないことにつけこんで、盲人をだまし、殴り、盲人から身ぐるみ奪い取ってしまうのだが、それだけでは満足しない。この少年はいったん盲人のそばを離れたあと、わざわざ戻ってきて、事態を把握できず呆然とする盲人に、自分が彼に対して行った悪業を明らかにする。この悪党は、自分より弱く哀れな他者をだまし、その財産を奪い取ることによって、高らかに自己存在を肯定するのである。

『少年と盲人』の少年のように、弱者への加虐的な振る舞いによって自身が抱え込んでいるや鬱屈やいらだちをあからさまに発散するような人物は、十四世紀以降の演劇作品のなかには見出すことができない。笑劇(ファルス)や聖史劇(ミステール)に登場する人物は、程度の差こそあれ当時の約束事に基づく類型的な人物であり、十三世紀の芝居の主人公が持っていた強烈な個性は持っていないとフェーヴルは指摘する。

十三世紀演劇は、大ブルジョワによる「集団的メセナ」が機能する条件を備えたいくつかの中心的都市でしか成立しなかった。こうした都市の代表がアラスであり、パリだった。これらの都市では、ブルジョワという新しい勢力が台頭し、彼ら自身のための文化を創り出そうとしていた。都市では封建領主や教会によって支持されていた旧来の文化が解体され、旧勢力との内的緊張のなかで、ブルジョワによって新たな均衡が再構成されようとしていた。このような状況のなかで、ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』、アダン・ド・ラ・アルの『葉陰の劇』、リュトブフの『テオフィールの奇蹟』といった傑作が生まれる。これらの作品の作者は、集団で創作され、上演される演劇という形式のなかに、都市共同体の欲求に応える新しいタイプのコミュニケーションのあり方を見出したのである。ボデル、アダン・ド・ラ・アル、リュトブフといった詩人たちは、それぞれのやり方で演劇作品を通して、都市的風土のなかでのリアルな人間像を描き出した。偉大な職業作家であるだけでなく、自らパフォーマンスを行うジョングルールでもあった彼らは、豊かな教養は持っていたものの、その社会階層は低く、財産も持っていなかった。演劇作品のなかで、彼らはそうした自らの不安定な状態を、都市社会の鏡として提示した。例えば『葉陰の劇』で、アダン・ド・ラ・アルが自身を戯画化することによって、彼が属する社会的集団の矛盾を風刺的に表現したように。

フランス語の演劇の揺籃期にあたる時代に生まれたこれらの作品は、驚くべき早熟性を示しているが、その多くは後の時代にその直接の後継を持たず、演劇史のなかでは孤立した存在となった。その作品が影響を持ったのは極めて限定的な地域におけるごく短い歴史的瞬間に過ぎない。しかしそれはフランス演劇史における特権的な場と時だったのである。