【04-04中世後期の演劇】ファルス(笑劇)の劇世界2012/08/19 02:57

中世後期(15、16世紀)に作られた《短い劇形式》の作品、すなわちファルス(笑劇)とソティ(阿呆劇)は約250編が現存しているが、これは当時、実際に上演された作品のごく一部に過ぎない。B. C. ボーエンによると、この二つのジャンルの違いは、作品内容の現実へのかかわり方にある*。ファルスの登場人物は、家庭を持ち、職業、身分など現実社会の人間の属性を備え、しばしば固有名を持っている。これに対してソティでは、具体性が乏しい象徴的で曖昧な場で劇が展開する。登場人物の数はたいてい多くて、「第1の阿呆(ソ)」、「第2の阿呆」といった具合に番号によって示されることがある。

フェーヴルによるファルスの目録によると、現存するファルスは176編を数える。そこに登場する主な人物は、職人、小商人、ゆすりたかりを行う無頼の徒など、15、16世紀の庶民である。町の中に足を踏み入れた途端、騙されてしまう田舎者もファルスの重要な登場人物だ。田舎者の扱いに、ファルスが本質的に都市住民の観客を対象とした演劇であることが表れている。ファルスの主な舞台は町であり、その展開の核となるのは町の住民たちの間に起こるいざこざである。

貴族が主要な登場人物となっているファルスもあるが、こうしたファルスでは作品の舞台が田舎になっている。貴族はファルスでは笑いものにされる側である。例えば『貴族とノデ**』は、貴族に妻を寝取られたノデという名前の下僕が、仕返しに貴族の妻を寝取る話である。劇の最後でノデは自分の主人である貴族に、「ノデの真似をもうしてはいけませんよ。私もご主人様の真似はもうしませんから」と助言する。
『鶏小屋***』は次のような内容である。コガネムシ氏(Monseiur de la Hannetonnière)とチョウチョ氏(Monsieur de la Papillonnière)の二人の貴族は、粉屋の妻を口説く目的で、夫の留守中に粉屋の家にやって来る。最初にチョウチョ氏がやって来るが、間もなくコガネムシ氏がやって来たのでチョウチョ氏は鶏小屋の中に身を隠した。コガネムシ氏が粉屋の女房を口説こうとしたところで、粉屋の夫が帰宅したため、コガネムシ氏も鶏小屋に隠れた。粉屋は二人の貴族の妻を家に連れて来た。貴族の妻と粉屋、そして粉屋の妻も加わって、四人は大宴会を始める。二人の貴族は、鶏小屋で臆病に身を隠したまま、そのらんちき騒ぎを見守るはめになった。最後に粉屋の夫は鶏小屋に隠れていた貴族たちを見つけ、鶏小屋から引きずり出す。そして人の女房に手を出そうとしたことを謝罪させ、粉屋が抱えていた借金を帳消しにさせる。
ファルスではこのように、田舎貴族もまた都市の観客たちの笑いの対象になっている。もっとも貴族が登場するファルスの数は多くない。ファルスによく登場するのは、靴直し職人、臓物料理屋、金物屋、居酒屋店主、そして僧侶といった人物である。韻文笑話のファブリオと同様に、ファルスに登場する僧侶や司祭は常に好色で貪欲で、聖務日課書を開くよりも他人の妻をものにすることに熱心であるような人物ばかりである。

ファルスの登場人物たちの関心は、即物的な欲望と直結している。食べること、セックスすること、そして金を手に入れること。これらの欲望を満たすためのあらゆる策略は正当化される。また騙されたことに対する復讐もファルスの世界では奨励される。復讐にはしばしば手に棒を持って相手を叩きのめすドタバタ喜劇的な手段が用いられる。
『パテとタルト****』では、腹を空かせた二人のならず者は、ケーキ屋の女房を騙して売り物のウナギのパテを手に入れる。一度成功して味を占めた二人は、今度はタルトを同じように手に入れようとするが失敗し、ケーキ屋の夫に棒で散々打ちのめされる。ファルスの世界では、棒で人を殴りつける側にいることが好ましいこととされる。弱い者、騙される側であるよりは、たとえ愚かであっても強い者の側にあることが、ファルスではよしとされるのである。

夫婦の対立はファルスの主要な主題だが、そこでもファルス特有の強者の論理が展開の鍵となることが多い。『洗濯桶*****』の主人公ジャキノは、妻の言いなりになってあらゆる家事を押し付けられる気弱な夫であるが、妻が洗濯桶の中から出ることができない状態になると、その立場が逆転する。最終的には力強き性である男性原理で話は締め括られるのである。

ファルスの演劇性の本質は、他人を騙し、笑いものにすることである。ベルナデット・レ=フロはファルスfarceの二つの語源について次のように説明する******。ファルスの語源の一つは« fars »でありこれは「詰物」(食べ物にも、衣類にも用いる)を意味する。もう一つの語源は« fart »であり、これは「化粧、変装」を意味する。この二つの語源はどちらもその意味の根底に「ごまかし」というニュアンスが含まれている。詰物も化粧も偽りの見かけを与えることで真実の姿をごまかすものだからである。ファルスにはまさにそういった人物たちが登場する。本来は従順であるはずの妻たちは、ファルスの世界では怒りっぽく、亭主をがみがみ怒鳴りつける。宗教者は猥褻で、貴族たちは品位に乏しい。判事は無能で、勇ましげな兵士は実は臆病者である。しかしこうした愚かで間抜けな人間たちが、意外な機転を発揮することがある。ファルスの世界では、間抜けな人間が状況をしばしばひっくり返し、騙そうとする人々を逆に騙したりする。他人を騙し、笑いものにすること、それは社会によって当然だと考えられている秩序に対する異議申し立てである。

ファルスではこの世間の秩序と力関係は、単純な肉体的な力に基づく関係にたいてい置き換えられる。夫たちは妻の平手打ちを恐れて妻の言いなりになる。『鶏小屋』の粉屋の主人は腕力でもって貴族たちを押さえつける。中世ファルスの傑作、『ピエール・パトラン先生*******』では、いかさまの達人であるパトランは羅紗屋と判事たちを狡猾な手段で丸め込んだものの、愚鈍な羊飼いがパトランの呼びかけに「ベー」と羊の鳴き真似をひたすら繰り返すのには、どうにも対処しようがなく、礼金を手にすることができなかった。

ファルスの世界では暴力と策略が賛美される。そこで重要なのは、食べ物、セックス、あるいは金といった即物的な欲望に身を委ね、他人持ち物を奪い取り、享受することである。しかしその力関係はたやすく逆転する。先ほど騙された人間が今度は棍棒を手に復讐にやって来て、今度はこちらを打ちのめすかもしれないのだから。

* BOWEN (Barbara), Les Caractéristiques essentielles de la farce française et leur survivance dans les années 1550-1620, Urbana, University of Illinois Press, 1964.
** FAIVRE (Bernard), Répertoire des fraces françaises des origines à Tabarin, [s.l.], Imprimerie nationale, 1993. N°70. Le Gentilhomme,Lison, Naudet, La damoiselle (autre titre : Le Gentilhomme et Naudet).
*** Ibid. N°138. Le Poulailler à six personnages (autres titres : Le Poulier à six personnages; Les Deux gentilhommes et le meunier).
**** Ibid. N°125. Le Pâté et la tarte.
***** Ibid. N°43. Le Cuvier.
****** REY-FLAUD (Bernadette), La Farce ou la machine à rire, Genève, Droz, 1984.
******* FAIVRE,op.cit. N°95. Le Maître Pierre Pathelin (autre titre : Pathelin).渡辺一夫訳『ピエール・パトラン先生』東京:岩波書店、《岩波文庫》、1963年。

【04-05中世後期の演劇】ソティ(阿呆劇)の社会風刺2012/08/19 17:10

ファルスでは暴力が支配するドタバタの笑いが優位にあり、その登場人物は現実社会と結びついた具体的な身体を持っている。これに対して、ソティ(阿呆劇)の登場人物は、もっとあいまいで抽象的な存在である。

阿呆sot(ソ)は伝統のなかで形成された類型的役柄である。ソティの阿呆は、狂人と道化の二つの意味を持つfou(フ)とつながりを持つ。狂人および道化は一般社会からは追放された、時に煩わしく、時に滑稽な存在であるが、神の刻印を授けられた聖なる神秘的存在であるとも見なされていた。「狂人、道化」を意味するfouは、ソティのなかで阿呆sot(ソ)という演劇的類型となった(ソティの阿呆sotは作品によってはfouと呼ばれることもある)。演劇的道化である阿呆は、それゆえあらゆる社会的所属から切り離されており、あらゆるタブーから解放されている。

ソティには複数の阿呆が登場することがあるが、個々の阿呆には個別的性格は付与されていない。劇中で阿呆は固有名を持っていない。第1の阿呆、第2の阿呆と番号で呼ばれたり、あるいは「穴あき頭」、「抜け目のない顔」、「消息を知らせる者」と呼ばれたりする。阿呆は言語的存在である。阿呆の演劇的実体は自分の話す台詞によって、そしてその台詞に割り当てられた批判的な機能によってのみ、その存在が保証される。阿呆は、ちまたで人が口を敢えて閉ざしている事柄、小声でささやかれている事柄を大声で叫ぶ。尊敬しなくてはならない人々を愚弄し、表立った批判が躊躇されるような大物を告発する。しかし阿呆が存在を許されるのは舞台の上でのみなのだ。阿呆のことばが意味を持ち得るのは舞台上だけ、すなわち空想上の場だけなのである。ことばによって現実の世界を改革しようなどという大それた目論見を阿呆たちは持っていない。

ソティには大きく二つの型がある。ジャン=クロド・オバイは、この二つの型をそれぞれ〈裁判形式のソティ sottie-jugement〉と〈筋立てのあるソティ sottie-action〉と呼んでいる*。いずれも擬人化によって演劇的身体を与えられたアレゴリックな人物が登場する。〈裁判形式のソティ〉の場合、〈阿呆の母〉もしくは〈阿呆たちの王〉と呼ばれるリーダーの指示に従って、阿呆たちの集団は自分たちの法廷に〈世界〉を呼び出し、次第に悪化していく〈世界〉を糾弾し、尋問を行う。〈世界〉は、作品によっては〈人々〉、〈数人の人〉、〈各々〉と呼ばれることもある。裁判での尋問を通して、この世の退廃の責任がどこにあるのかが追及される。現実の政治や社会の問題があからさまに風刺と批判の対象になることもあるが、最終的には責任の所在は用心深くぼかされ、〈時間〉と〈狂気〉という擬人化された抽象概念がこの世の災いの原因とされる。〈裁判形式のソティ〉では、阿呆の集団はこのように現実世界の外側に身を置き、外側から社会の不幸を批評し、裁くのである。

一方、〈筋立てのあるソティ〉では、阿呆はそれぞれ何らかの社会的集団を具現している。劇の題材となったあらゆる社会集団は阿呆であると風刺されていることになる。アンドレ ・ド・ラ・ヴィーニュ André de La Vigne(1457頃-1527頃)の『8人の登場人物によるソティ』はこのタイプのソティの典型的な作品だ。
〈世界〉を眠らせた後、〈濫用〉は自分が育てた樹木から落ちてきた6個の果実、〈放埓な阿呆〉(教会を表象する)、〈自惚れた阿呆〉(貴族)、〈腐敗した阿呆〉(法律家)、〈嘘つきの阿呆〉(商人)、〈無知の阿呆〉(民衆)、〈愚かな阿呆女〉(女性)とともに、今ある世界を壊し、新しい世界を作り出すことを決意する。新しい世界は、〈混乱〉を土台とし、6人の阿呆を柱にして、舞台上に組み上げられる。しかし最後に〈愚かな阿呆女〉を巡る争いで、新しい世界を表す建造物は崩壊し、古い世界の秩序が回復する。この作品の主題は世界を作り変えることであるが、今の世界を破壊した後で阿呆たちが作りあげたのは、現状の世界よりもさらに劣悪な世界なのだ。

〈筋立てのあるソティ〉では、阿呆たちは世界外存在として、言葉によって社会を外側から批判するのではなく、劇的世界のなかの存在として世間から批判されるべき非道徳的な振る舞いを自ら舞台上で再現することで、社会を風刺する。このため〈筋立てのあるソティ〉は〈裁判形式のソティ〉に比べると現実社会に対する批判はさらに間接的なものとなり、その攻撃性は弱まっている。〈筋立てのあるソティ〉で提示される風刺は、権力層にある人間にとってより受け入れやすいものになっているのである。

* AUBAILLY (Jean-Claude), Le Théâtre médiéval profane et comique, Paris, Larousse, 1975.