【05-09】《長大な劇形式》グロテスクな聖性 ― 2014/02/13 17:27
人物描写の単調さに対して、聖史劇のテクストにはしばしば非常に凝った詩的技巧が用いられた。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュなど、聖史劇の作者のなかには《大押韻派》*に属する詩人もいて、複雑な韻の組み合わせを追求することで驚くべき文体的名人芸を示すことができた。もっともテクストの施されたこうした詩的妙技は、彼らにとってほんの気晴らし程度のものだった。テクストはスペクタクルを構成する装飾のひとつでしかなかったのである。彼らは驚異的なスピードで脚本を書き上げることができた。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュは一万五百行の長さの『聖マルタンの聖史劇』を五週間で書き上げたが、それを特別なことだと考えている感じはない。オペラの台本や映画の脚本と同じように、聖史劇の脚本はスペクタクルの一部分であり、不可欠なものであるが、最も重要な要素ではなかった。
聖史劇は、そのテクストの長大さと卓越した詩法にもかかわらず、ことばの演劇ではなかった。聖史劇の本質は、群衆全体を興奮させ、楽しませ、魅了する力のなかに、見出すべきだろう。聖史劇の本当の魅力はその上演の現場のなかでしかおそらくとらえることができない。聖史劇の豊かさを作っていたものは、聖史劇の消滅とともに消えてしまったのだ。聖史劇は単に巨大でけばけばしい機械仕掛けのスペクタクルだっただけではない。フェーヴルは、アルトーの「われわれは皮膚によって、精神の中に形而上学的なものを取り戻すことができる」という言葉を引用し、聖史劇についてもこの「残酷の演劇」のテーゼは有効であると言う。
いや聖史劇だけでなくこの時代の宗教的感性全体についてもこのアルトーの警句は有効だろう。ホイジンガが《中世の秋》と呼んだこの時代には、キリスト受難についての神秘的瞑想と過剰にグロテスクな描写が共存している。フェーヴルはマティアス・グリューネヴァルト(1470?-1528)**のイーゼンハイム祭壇画で描かれている世界に、中世劇と共通するアンビヴァレンスを見出す。そこには教訓的・道徳的な意図が込められていることは疑いようがないが、倒錯的な嗜虐への関心もそこにははっきりと認めることができる。この時代には貪欲と恬淡、宗教的神秘と世俗的現実が共存し、人々は官能に酔いしれ、死に魅了されていた。聖史劇で展開する世界もこの中世末期の感性とは切り離すことはできない。形而上学的思索と猥雑な笑い、道徳的な教えとグラン・ギニョル風***の悪趣味、宗教的熱狂と市場の喧噪。聖史劇は全てを語り、全てを見せることを目指した。聖職者たちの知的な信仰と民衆の本能的な信仰、キリスト教に対する相反する二つの姿勢が聖史劇のなかには流れ込んでいる。
しかしこうした特徴ゆえに、聖史劇は終焉を迎えることになってしまう。十六世紀中頃に宗教紛争が深刻な事態に陥ったとき、聖史劇はその正当性をすべて失ってしまった。聖史劇に参加し、見物することは、共同体の成員が全員一致して、自発的に一つの信仰のあり方を公然と表明する行為に他ならない。宗教紛争の時代には、この信仰の土台が厳密な議論の対象となった。福音主義者と新教徒が聖史劇に含まれる外典や世俗的な要素を問題視するようになる。すると教学的な立場からの批判を怖れ、カトリックたちも聖史劇上演に対して慎重になり、否定的な態度を取るようになったのである。1548年11月17日は聖史劇終焉を示す象徴的な日付となった。この日に下されたパリ高等法院による判決で、受難劇協会は聖史劇の上演を禁じられた。しかし聖史劇の終焉は、1541年のパリ高等法院検事による告発のなかで、既に予告されていた。検事はこの告発書で「信仰について公に語ることは、もはや学者や知識人などこの問題に精通している人間の問題」であり、演劇および演劇上演にかかわる「アルファベットも読めない無知蒙昧な民衆」が関わる事柄ではないと述べている。
【史料】《聖史
劇の断罪》受難劇協会が演じた旧約聖書についての聖史劇上演の計画に対して、パリの高等法院の検事総長の告発文の抜粋(1541年)****
文盲でこうした[信仰に関わる]事柄について理解していない低い階層の人間たち、たとえば指物師、下級警官、織物職人、魚屋といった連中が、『使徒行伝の聖史劇』を上演したのだが、彼らは上演にあたって、典拠が不確かな事柄をいくつも付け加えるのみならず、劇の最初と最後に扇情的な笑劇や茶番劇を置いて作品を長なものとし、上演期間は、6ヶ月から7ヶ月の長きにわたった。この芝居の上演期間中、聖なる儀式は中断され、慈善活動と施しものは停滞し、不倫と密通、醜聞、嘲弄と嘲笑が蔓延してしまった。そして今もこの状況は続いている。
(…)この作品が上演されているあいだ、一般信徒たちは、祝祭日であっても、教区教会で行われるミサ、説教、夕べの祈りをなおざりにし、朝の8時、9時から夕方5時まで芝居見物に出かけるのだ。説教者たちも芝居に出かけてしまったので、説教も行われなかった。彼らが見に行った芝居で見聞きしたのは以下のような事柄である。演者たちは大道で堂々と奇矯なふるまいを行い、不適切なことばを言って、人々を笑わせている。例えば「聖霊は地上に降り立つのはもうこりごりだとさ!」といったふざけた文句を大声で叫んだりした。教区司祭たちの多くは芝居見物のために、祝日の晩課の祈りを怠ったり、あるいは正午に一度だけお祈りをしてすませたりしていた。こんな時間にお祈りをする慣例などないにもかかわらず。聖歌隊長や当高等法院付属の礼拝堂付の司祭たちもまた、聖史劇の上演期間中は、祝日の夜に行わなければならないお祈りを正午に行っていた。それどころか、芝居の時間に間に合うように、お祈りをその場で大急ぎですませたりしていたのである。
(…)上演に関わる人間は、企画者も演者も機械仕掛け職人も、皆、アルファベットのAとBの区別もできないような無知蒙昧の民ばかりだ。彼らは公共の場で演劇などを上演するのに必要な教育も訓練も受けていない。流麗な話し方、正しい言葉遣い、適切な発音を知らず、自分たちが話している内容も理解していないもとは一語しかないのに、余計な言葉を追加して三語に言い換えてしまうようなことは頻繁にある。文の途中でポーズを置いて、祈りの文句を意味不明なものにしてしまう。疑問文であるべき箇所を、感嘆文だと勘違いし、原文とは逆の意味になってしまうような動作、イントネーション、発声で話す。こんなありさまなので、上演の最中にしばしば、観客から嘲笑とヤジが巻き起こる。彼らの演劇は、教化どころか、スキャンダルと嘲弄の源になっているのである。
文盲でこうした[信仰に関わる]事柄について理解していない低い階層の人間たち、たとえば指物師、下級警官、織物職人、魚屋といった連中が、『使徒行伝の聖史劇』を上演したのだが、彼らは上演にあたって、典拠が不確かな事柄をいくつも付け加えるのみならず、劇の最初と最後に扇情的な笑劇や茶番劇を置いて作品を長なものとし、上演期間は、6ヶ月から7ヶ月の長きにわたった。この芝居の上演期間中、聖なる儀式は中断され、慈善活動と施しものは停滞し、不倫と密通、醜聞、嘲弄と嘲笑が蔓延してしまった。そして今もこの状況は続いている。
(…)この作品が上演されているあいだ、一般信徒たちは、祝祭日であっても、教区教会で行われるミサ、説教、夕べの祈りをなおざりにし、朝の8時、9時から夕方5時まで芝居見物に出かけるのだ。説教者たちも芝居に出かけてしまったので、説教も行われなかった。彼らが見に行った芝居で見聞きしたのは以下のような事柄である。演者たちは大道で堂々と奇矯なふるまいを行い、不適切なことばを言って、人々を笑わせている。例えば「聖霊は地上に降り立つのはもうこりごりだとさ!」といったふざけた文句を大声で叫んだりした。教区司祭たちの多くは芝居見物のために、祝日の晩課の祈りを怠ったり、あるいは正午に一度だけお祈りをしてすませたりしていた。こんな時間にお祈りをする慣例などないにもかかわらず。聖歌隊長や当高等法院付属の礼拝堂付の司祭たちもまた、聖史劇の上演期間中は、祝日の夜に行わなければならないお祈りを正午に行っていた。それどころか、芝居の時間に間に合うように、お祈りをその場で大急ぎですませたりしていたのである。
(…)上演に関わる人間は、企画者も演者も機械仕掛け職人も、皆、アルファベットのAとBの区別もできないような無知蒙昧の民ばかりだ。彼らは公共の場で演劇などを上演するのに必要な教育も訓練も受けていない。流麗な話し方、正しい言葉遣い、適切な発音を知らず、自分たちが話している内容も理解していないもとは一語しかないのに、余計な言葉を追加して三語に言い換えてしまうようなことは頻繁にある。文の途中でポーズを置いて、祈りの文句を意味不明なものにしてしまう。疑問文であるべき箇所を、感嘆文だと勘違いし、原文とは逆の意味になってしまうような動作、イントネーション、発声で話す。こんなありさまなので、上演の最中にしばしば、観客から嘲笑とヤジが巻き起こる。彼らの演劇は、教化どころか、スキャンダルと嘲弄の源になっているのである。
聖史劇は、人間と聖なるものを結びつける巨大で派手やかなスペクタクルであり、そこに終末論的な猥雑さと混沌があった。しかし1548年の聖史劇の上演禁止の判決によって、演劇における「皮膚」と「形而上学なもの」は分離してしまった。これ以降、現代にいたるまで、西洋演劇史のなかで、この二つの要素は決して折り合うことはなかったのである。
* 《大押韻派》Grands rhétoriqueurs 十五世紀後半から十六世紀に前半にかけて、ブルゴーニュ公の宮廷などで活躍した詩人たち。伝統的修辞学を最大限に活用し、発展させた技巧的な詩を残した。
** Matthias Grünewald 1470?-1528ドイツの芸術家、建築家、技師。マインツ(1508-14)、ブランデンブルク(1515-25)で宮廷画家だったということ以外、その生涯についてはほとんど不明。1516年には優れたイーゼンハイム祭壇画(コルマール美術館)を完成させた。
*** Grand-Guignol グラン・ギニョル座。パリのモンマルトルにあった猟奇・残酷劇専門の劇場。
**** サント=ブーヴ『16世紀のフランスの詩と演劇の展望』(1828)より。Sainte-Beuve, Tableau de la poésie française et du théâtre français au XVIe siècle, Paris, 1828, p.17-18.
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