【03-10十三世紀都市の演劇】中世都市の風土における個人の姿2012/04/26 11:25

十三世紀の演劇作品は十数篇ほどしか現存していないが、それぞれの作品は様々な主題や異なる劇作術を示している。こうした多様な作品に共通して見られる特質を挙げるとすれば、主要な登場人物が類型ではなく、ひとりの個性を持つ人間として行動していることを挙げることができるだろう。十三世紀演劇が描き出すのは、さんざんためらい、迷い、葛藤した挙句、最後には本人が全く思いがけなかったような方向に落ち込んでしまうような人間の有り様である。

『テオフィールの奇蹟』では、テオフィールは悪魔に身を捧げるものの、結局は改悛して信仰を取り戻す。『葉陰の劇』のアダンは、個人の運命の転換を描く十三世紀演劇の特質を典型的に示している。劇の冒頭でアダンは勉学のため、これからパリに旅立つとアラスの友人たちに宣言するが、劇の最後の部分になっても彼はまだアラスにいて、仲間たちと居酒屋で酔いつぶれている。パリになかなか旅立つとことができないアダンの葛藤の証人となるのは観客である。果たして彼は結局パリに行くことはできなかったのだろうか? パリ行きは彼にとって不可能な夢だったのだろうか? 作者自身を作品の登場人物とする『葉陰の劇』は、自己を演じるロールプレイ、あるいは己を戯画化した「私演劇」でもある。作者でもあり演者でもアダンは、世間の自分に対する批判、嘲笑に対して、萎縮したり、弁明したりするのではなく、演劇作品を通して自虐的に自己の姿をさらすことで応えているのである。

十三世紀都市の演劇作品の登場人物たちは、社会的宿命に為す術もなく囚われたままの受動的な人物ではない。彼らは苦悩と葛藤、絶望のなかで、その宿命から逃れで出ようという意志を持っている。たとえ宗教的作品であっても、そこに登場する人物は、神と悪魔に弄ばれる繰り人形ではないのである。十二世紀半ばに書かれた教会の演劇、『アダム劇』では、悪魔がエヴァのもとに歩み寄ったが、そのおよそ一世紀後にパリのリュトブフが書いた『テオフィールの奇蹟』では、テオフィールが自らの意志に基づき悪魔のほうへと向かう。

十三世紀都市の演劇では金銭が重要な役割を担う。この金銭への執着によって、教会の演劇にはみられない、自らの意志によって主体的に動く人物が登場することが可能になったとフェーヴルは指摘する。十三世紀の演劇作品のなかで、金銭欲から自由な人物は、騎士からのプレゼントを拒否した『ロバンとマリオンの劇』の羊飼い娘マリオンだけである。この田園牧歌劇は、十三世紀演劇作品のなかで、金銭の介在しない純粋な愛の風景を描いた唯一の作品になっている。他の作品に登場するクルトワ、テオフィール、アダン、そしてアラスの住民たちといった人物はすべて、金銭への欲望に囚われ、この欲望が彼らの行動を決定する。自分自身の欲望に従って生きようとする者にとって、富は必要不可欠なものとなる。金銭は十三世紀演劇の人物にとって決定的な役割を持つようになった。『聖ニコラの劇』で異教徒の王が聖ニコラを畏怖し、改宗を決意したのは、聖ニコラが奇蹟によって王の宝物を守ったからであり、さらにその宝物を二倍にしてくれたからなのである。

都市の申し子である十三世紀演劇には、聖職者の文化に見られるような現世への軽蔑的態度、現世をあの世へ向かう通過のための一時的な場所として軽視するような考えは、見出すことができない。天上的価値と地上的価値を和解させることを目指す都市の論理を、十三世紀都市の演劇は示そうとしている。個人が富を後ろ盾に社会的に成り上がって行くことは都市社会では必ずしも否定されるものではないが、こうした生き方は、おそらく当時の都市では、道徳的なものであるとはみなされていなかった。演劇作品のなかでは、こうした利己的態度は風刺的に取り上げられた。異教徒、卑しい身分の人間たち、そして吝嗇なブルジョワたちといった人間たちが、金銭欲に囚われた存在として批判的に描き出される。しかし彼らはその金銭欲への執着によって、個として立ち現れた存在にもなっている。

こうした都市における欲望と個のあり方を鮮やかに描き出している例としてフェーヴルは、十三世紀後半に書かれた笑劇(ファルス)の先駆的作品である『少年と盲人』をとりあげる。この作品の主人公である少年は、純真な子供ではなく、厳しい世間のなかを狡猾に生き抜いてきた不良である。物乞いの手伝いをする小僧を探している盲人がいた。少年はこの盲人にうまく取り入って雇われの身となる。少年は盲人の目が見えないことにつけこんで、盲人をだまし、殴り、盲人から身ぐるみ奪い取ってしまうのだが、それだけでは満足しない。この少年はいったん盲人のそばを離れたあと、わざわざ戻ってきて、事態を把握できず呆然とする盲人に、自分が彼に対して行った悪業を明らかにする。この悪党は、自分より弱く哀れな他者をだまし、その財産を奪い取ることによって、高らかに自己存在を肯定するのである。

『少年と盲人』の少年のように、弱者への加虐的な振る舞いによって自身が抱え込んでいるや鬱屈やいらだちをあからさまに発散するような人物は、十四世紀以降の演劇作品のなかには見出すことができない。笑劇(ファルス)や聖史劇(ミステール)に登場する人物は、程度の差こそあれ当時の約束事に基づく類型的な人物であり、十三世紀の芝居の主人公が持っていた強烈な個性は持っていないとフェーヴルは指摘する。

十三世紀演劇は、大ブルジョワによる「集団的メセナ」が機能する条件を備えたいくつかの中心的都市でしか成立しなかった。こうした都市の代表がアラスであり、パリだった。これらの都市では、ブルジョワという新しい勢力が台頭し、彼ら自身のための文化を創り出そうとしていた。都市では封建領主や教会によって支持されていた旧来の文化が解体され、旧勢力との内的緊張のなかで、ブルジョワによって新たな均衡が再構成されようとしていた。このような状況のなかで、ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』、アダン・ド・ラ・アルの『葉陰の劇』、リュトブフの『テオフィールの奇蹟』といった傑作が生まれる。これらの作品の作者は、集団で創作され、上演される演劇という形式のなかに、都市共同体の欲求に応える新しいタイプのコミュニケーションのあり方を見出したのである。ボデル、アダン・ド・ラ・アル、リュトブフといった詩人たちは、それぞれのやり方で演劇作品を通して、都市的風土のなかでのリアルな人間像を描き出した。偉大な職業作家であるだけでなく、自らパフォーマンスを行うジョングルールでもあった彼らは、豊かな教養は持っていたものの、その社会階層は低く、財産も持っていなかった。演劇作品のなかで、彼らはそうした自らの不安定な状態を、都市社会の鏡として提示した。例えば『葉陰の劇』で、アダン・ド・ラ・アルが自身を戯画化することによって、彼が属する社会的集団の矛盾を風刺的に表現したように。

フランス語の演劇の揺籃期にあたる時代に生まれたこれらの作品は、驚くべき早熟性を示しているが、その多くは後の時代にその直接の後継を持たず、演劇史のなかでは孤立した存在となった。その作品が影響を持ったのは極めて限定的な地域におけるごく短い歴史的瞬間に過ぎない。しかしそれはフランス演劇史における特権的な場と時だったのである。

【03-09十三世紀都市の演劇】十三世紀演劇のフォークロア(2):五月祭の風習と『葉陰の劇』2012/04/12 23:52

十三世紀演劇のフォークロア(2):五月祭の風習と『葉陰の劇』

アダン・ド・ラ・アルのもう一つの演劇作品『葉陰の劇』は、『ロバンとマリオンの劇』以上に豊かなフォークロア的要素を含有している。バフチンは『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』のなかで、『葉陰の劇』に見られるカーニヴァル的要素について言及し、ラブレーのグロテスク・リアリズムの世界の先駆をこの作品に見出している*。

バフチンは『葉陰の劇』の登場人物たちが、カーニヴァル的祝祭に許された権利を行使していると指摘する。この劇では、通常の生活の軌道を逸脱し、あらゆる公的で聖的な価値を転倒させることが許された無礼講の状況が再現されていることを確認することができるからだ。バフチンはまた『葉陰の劇』に現れるカーニヴァル的モチーフを列挙する。尿による医者の病気診断、阿呆、狂人、娼婦といった周縁的人物、異教的存在である妖精たちの到来、妖精の予言と呪い、運命の輪についての解説、酒宴、サイコロ遊び、ミサのパロディ、聖遺物の効用への揶揄など。こうしたカーニヴァル的要素によって、通常の秩序から逸脱した非公式な世界がこの作品のなかで表現されていることにバフチンは注目し、こうした主題系と五月祭のフォークロアとの関係性を強調している。

『葉陰の劇』を、ラブレー的なグロテスク・リアリズムの系統のなかに位置づけ読み解くバフチンの解釈は魅力的ではあるが、カーニヴァルをキーワードとする彼の民衆文化論では歴史学的、文学史的な実証性は問題になっていないことには注意する必要があるだろう。バフチンの「カーニヴァル」は、シャリヴァリ、公現祭、五月祭、定期市、婚礼、収穫祭などかつて行われていたあらゆる民衆的祝祭様式の特性が集約された概念的なものなのである。

フランスの中世演劇の研究者、ミシェル・ルスはより実証的な観点から『葉陰の劇』と五月祭のフォークロアの関係について論証を試みている**。ここからはルスの説に依りながら、『葉陰の劇』のフォークロワ的要素について述べることにしよう。まず作品の上演日について検討してみよう。作品に現れる様々なフォークロア的モチーフから、この作品が五月祭の習俗ととりわけ深い関係を持っていることを重視したバフチンは、作品の上演が五月祭の祝日である5月1日に行われたという説をとっている。『葉陰の劇』 と五月祭の関係についてはルスも見解を同じくするが、作品の上演日についてはロジェ・ベルジェなどの研究に基づき、別の説をとっている。

作品の上演年については、作中で言及されている社会的事件や固有人名から1276年というのが定説になっている。アドルフ・ゲノンは、この作品がこの年のペンテコステ(聖霊降誕祭)の前日である5月30日土曜日に上演されたと考えた。聖霊が使徒のもとに降臨したことを祝うペンテコステは移動祝日で、復活祭後の第七日曜日がこの祝日に当たる。当時の史料によると、この日はアラスのシテ地区に居住していた聖堂参事会会員が、アラスのノートルダム教会の聖遺物匣を町の広場に設置された東屋(この東屋は緑の葉のついた木枝で作られていたためfeuilléeと呼ばれていた)に移動させる習慣があった。

ノートルダム教会の聖遺物匣については、劇中でも言及されている。ルスもこの劇がペンテコステの習俗と関わりを持っていたとするゲノンの見解を妥当なものだとするが、劇の登場人物と実際の信心会メンバー(『葉陰の劇』にはアラスの住民が実名で登場する)の重なりや、劇中時間が夜から朝にかけてに設定されていることから、この芝居の上演はペンテコステの前夜ではなく、その前後の別の日に開催された〈アラスのジョングルールとブルジョワの信心会〉の会合で行われたいうロジェ・ベルジェの説を支持している。そしてベルジェの研究によると、この年、ペンテコステの祝日の近くにあった信人会の集会の日は、三位一体の祝日(ペンテコステの後の最初の日曜日)の前の木曜、1276年6月5日になる。『葉陰の劇』の上演日をペンテコステと関連づけるルスたちの仮説に対しては、ペンテコステは劇の主要なモチーフを構成する五月祭とは日が離れすぎているという反論もある。しかしエルンスト・ラングロワが13世紀にペンテコステと五月祭が混同されていたことを指摘している他、近代の風習についての報告であるが、民俗学者のファン・へネップも地域によって五月祭の風習がペンテコステの時期に行われていたことを報告している。

ルスは劇中で提示される主題とフォークロアの関係について、主にファン・へネップが報告するフランス各地の五月祭の風習を参照することで、興味深い仮説を提示している。1098行からなる(バデルの校訂に基づく行数***)『葉陰の劇』は内容的に大きく三つの部分に分かれ、全体では25のエピソードを引き出すことができる。この作品を記録する写本(Paris, BnF, fr. 25566)上では、テクストは近代劇のように幕や場で区切られたかたちで記録されているわけではないが、ここでは便宜的に第一部、第二部、第三部と呼ぶことにしておこう。第一部(1〜589行)は作者をはじめとするアラスの住民たちが中心となる場である。この最初の部分の51行から174行で、登場人物のアダンは、妻マロワとの出会いと愛の誕生、そして出会ったときの若々しいマロワの美しさと年齢を重ね容貌の衰えた現在のマロワの姿を対比させて、長大な叙情詩的長台詞で歌い上げるが、この描写は中世の叙情詩、とりわけパストゥレル(羊飼い娘の歌)で伝統的に歌われてきた出会いと愛の誕生のトポスと重なる。そしてこの愛が生まれる季節は、多くの場合、緑の萌え出づる五月である。

アダンとその妻の恋愛についてのエピソードの後、登場人物たちは町の住人の結婚生活について噂話をはじめ、とりわけ女性について辛辣な論評を行う。男たちによる女性に対するあけすけできわどい批評もまた五月祭の風俗として中世の史料で確認することができる。

第一部後半ではいかがわしい医者が登場し、彼は尿を使った診断で町の住民たちを診断する。その診断で明らかになるのはアダンの父やその他のブルジョワたちの吝嗇病やドゥシュ婦人の乱れた性生活ぶりである。バフチンも言及する民衆文化的なグロテスク・リアリズムの笑いの場面である。医者の次には、放浪僧がやってきて阿呆を治すという聖アケールの聖遺物で商売を始める。町に住む阿呆の他、隣町から狂人がやってきてその場を混乱させる。阿呆の祝祭といえば、降誕祭から公現祭にかけての時期に行われることが多かったのだが、五月から六月にかけての時期に信心会によって阿呆祭が行われる地域もあった。

五月祭のフォークロアとの関連で最も興味深いのは、『葉陰の劇』第二部の妖精たちのエピソードである。アラスの町の広場に、年に一度、妖精たちが降り立つ伝統があったことは、劇中の登場人物の台詞のなかで示されている。この妖精たちが現れるのは夜でなければならなかった。キリスト教以前の異教的な要素の強い五月祭の行事は、公的なキリスト教的秩序のもとにはる昼間ではなく、夜のあいだに行われることが多かったのである。

ファン・へネップはドイツやフランスの一部で四月三十日の夜から五月一日にかけてかつて行われていた魔法使いを迎える風習についても報告している。『葉陰の劇』では、アダンと彼の友人のリキエが夜にやってくる妖精たちの食卓の準備を行っている。食卓に降り立つのはモルグ、アルシル、マグロールという三人の女の妖精である。モルグとアルシルは食卓を準備したアダンとリキエに好ましい予言を授けるが、マグロールは自分の場所にナイフが用意されていなかったことに機嫌損ね、二人の男に呪いをかける。妖精たちは、妖精の王エルカンとの恋やアラスの大ブルジョワについての噂話、そして運命の輪について語ったあと、、アラスの別の場所で彼女たちを待つ老女たちのもとに向かうため、食卓の場所から立ち去る。

十三世紀には妖精の信仰が盛んであったことはダニエル・ポワリオンの研究によって裏付けられている****。『葉陰の劇』より時代は下るが、近代の五月祭の風習には、『葉陰の劇』の妖精たちを連想させる興味深いものがいくつかある。例えば、予言の書の著者として有名な十六世紀のノストラダムスは当時の南仏で次のような風習があったことを伝えている。まず界隈で最も美しい娘を選ぶ。その娘を花の冠、花綱で飾り立てた服装を着せ、女神のように玉座に座らせる。そこを通りかかった人は、キスと引き換えにお金を置く。
ファン・へネップは19世紀の南フランスで行われていた以下のような五月祭の風習を報告している。

・五月の女王は、聖体行列の祭壇のように飾られてた小さなテーブルのそばに座る。仲間の女性たちが彼女の結婚資金のための募金を呼びかける(モンペリエ)。
・五月の女王はリボンと花で飾られた白いドレスを来て、町中に置かれたテーブルに座る(アグド[南仏の都市])。
・五月一日に子供たちは一人の若い娘を通りに連れ出す。この女性は五月の女王と呼ばれた。町中の交差点に花で飾られた祭壇を作り、そこにその女王を座らせる。仲間の女性たちは持参金を持たせるためのお金を通りがかりの人にお願いする(ニーム)。
・五月の四回の日曜には、若い娘たちは、町で一番美しい娘を、宝石や羽、花で飾り、葉のついた樹枝と花でできた丸屋根の小屋の中に座らせる。仲間の娘たちは通りがかりの人たちに花を与え、引き換えに金銭を受け取る(アルデッシュ)。

『葉陰の劇』の妖精たちの場面には、上にあげた近代の五月祭風習との興味深い類似点がいくつか確認することができる。五月祭では五月の女王は何人かの若い娘たちに取り巻かれているが、『葉陰の劇』でも妖精は一人ではない。三人の妖精たちがやって来るが、そのなかでモルグが他の二人の妖精、マグロールとアルシルの主人であることは、そのやり取りから明らかである。五月祭の娘たちのように、この三人の妖精たちは、着飾っている。『葉陰の劇』では妖精たちを迎えるための食卓が準備されるが、モンプリエとアジドでも五月祭女王のためのテーブルが用意されていた。

五月祭で少女たちが募金を行うという風習は多くの地域でみられたことがへネップの報告からうかがい知ることができるが、この募金の目的は、へネップによるモンプリエとニームの五月祭の報告にあるように、五月の女王の結婚資金を得ることにあったのだろう。五月の女王はしばしば五月の花嫁と呼ばれることもあった。『葉陰の劇』でも妖精の結婚はほのめかされている。妖精モルグは、妖精の王エルカンの求愛を受け入れ、永遠の愛を誓うむねを、エルカンの使者クロクソに伝える。また劇の最後の場面で、狂人は「行くぞ、私は花婿なんだ」(1092行)という前後の文脈からは意味不明の捨て台詞を残して舞台から退場するが、ルスはこの台詞は「五月の花嫁」を踏まえたパロディであり、この作品と五月祭のフォークロアの関わりがあってこそ意味のあるギャグになっていると主張している。

『葉陰の劇』の三人の妖精が、近代の五月祭における女王へと姿を変えた経緯については、以下のような説明がある。へネップの五月祭習俗の研究では、各地で見られる五月の女王は座ったまま、じっと動かないという共通した特徴を持つことが報告されている。へネップは、この不動性は五月の女王がその起源において持っていた厳かな聖性を象徴するものであると考えた。何世紀もの資料の空白はあるが、へネップがまず想起したのは古代ローマの女神、フローラである。フローラは花と豊穣の女神であり、その祭礼では陽気でしかも卑猥な祝祭劇が上演されたという。ただしガリア地方でのフローラ信仰は確認されていない。キリスト教以前の古代のガリア地方で信仰の対象となった女神としてはマーテルがいる。このマーテル女神は三人組だった。ダニエル・ポワリオンはこの古代ガリアのマーテル三女神が中世においては妖精となり、『葉陰の劇』で三人の妖精となって現れたのだとと推定している****。その後、ガリアの三女神は中世後期に盛んになったマリア信仰のなかに取り込まれた。近代の五月の女王には聖母マリアの面影も投影されているという。イングランドでは五月の女王は、ロビンフッド伝説と結びつき、ロビンフッドの恋人、マリアンの名前が五月の女王に与えられたことは、既に述べた。マリアンの名前は、中世フランス文学の羊飼い娘の名に由来し、アダン・ド・ラ・アルの『ロバンとマリオンの劇』の主人公でもあった。近代の五月の女王の二つの原型が、アダン・ド・ラ・アルの二つの劇作品のなかで提示されているのである。

ナイフを用意されていなかった妖精が機嫌を損ね、呪いをかけるという『葉陰の劇』のエピソードは、ペローやグリム童話で取り上げられている『眠れる森の美女』に繋がるものであることは敢えて指摘するまでもないだろう。『葉陰の劇』の妖精、モルグ、アルシル、マグロールは、近代に伝承された妖精の民話の原型でもあるのだ。

作品のタイトルとなっている「葉陰」feuilléeもまた五月祭のフォークロアと関わりを持つ。『葉陰の劇』というタイトルは、作品を記載する写本でテクストの終わりを示すために写字生が記す作品末記述(explicit)から取られている。写本では、当時のピカルディ方言形でfuellieと記されているが、これは「狂気」を意味するfolieと同音異義語であり、作品内容から考えて「葉陰」と掛詞になっている。

「葉陰」という訳語が当てられたfuellie(現代仏語のfeuillée)は、葉のついた樹枝に関係するさまざまな事物を指し示す。五月祭の夜に、緑葉のついた樹枝を森に取りに行くという風習は、十三世紀前半の韻文物語、『ギヨーム・ド・ドール』で言及されている*****。 『葉陰の劇』が上演された十三世紀後半のアラスでは、ノートルダム教会の聖遺物匣を納める緑葉の樹枝で作られた小屋が、fuellieと呼ばれ、この聖遺物匣は、年に一度、ペンテコステの日に町の広場に移送される慣わしがあったことは既にこの章で述べた。『葉陰の劇』の登場人物のひとりはこの聖遺物匣について次のように言及している。

「それより、ノートルダムの聖遺物箱にキスしに行こうじゃないか。そしてそこにろうそくを捧げよう。ろうそくがちゃんと匣を照らしてくれるように。それが一番いいよ」(1076-77行)

へネップの調査によると、アルデシュ県のジエールの五月祭ではかつて、若い娘たちは緑の葉のついた小枝で小さな東屋を作り、そこに五月の女王を座らせていた。聖遺物匣にせよ、五月の女王にせよ、緑葉の樹枝でできた小屋は聖的なものを保護する機能を持っていた。『葉陰の劇』の劇中の台詞のなかには実はfuellieという語は使われていない。にもかかわらず、この作品を写本に記録した写字生はどうしてfuellieを、巻末語として採用したのだろうか。もしこの劇におけるfuellieが、ノートルダム教会教会の聖遺物匣を保護する小屋を指していたとすれば、その小屋は劇の上演空間の外側にあったことになる。しかし台詞の上でも、視覚的にも現れない事物を、作品のタイトルの機能を持つことが巻末語として採用するのは奇妙に感じられる。ルスはfuellieは舞台上に劇の最初から最後まで舞台装置として設置されていたと考える。そしてこのfuellieの存在は、登場人物の台詞のなかで、間接的なやり方で示されている。妖精の到来の場面の直前に、アダンとともに妖精の食卓を準備していたリキエは、よその土地からやって来た放浪僧に次のように話す。

「お坊さん、いいことをしてくれないかね。あんたの持ってきた聖遺物を隠しておいて欲しいんだ。もしあんたがここにいなければ、とっくの前に、この場所で、妖精たちの素晴らしい奇蹟が起こっていたはずなんだ。」(559-566)

「この場所で(chi endroit)」と言うとき、リキエは舞台上に設置された「葉陰」を指差していたのだとルスは述べる。そしてジエールの五月の女王の風習に見られるように、この「葉陰」は、妖精たちを迎える食卓を覆う東屋であったとルスは解釈した。

ペンテコステの日に町の広場に移送されるノートルダム教会の聖遺物匣を護る「葉陰」は、妖精たちを迎えるために建てられた(そして後の時代に五月の女王の風習へとつながる)異教的性格の「葉陰」とは相入れない存在である。しかし『葉陰の劇』で成立したバフチン的意味の「カーニヴァル」的世界のなかで、教会的「葉陰」は異教的「葉陰」を押しのけることができなかった。上に引用したリキエの台詞には、この二つの世界の共存の難しさが示されている。キリスト教的世界の記号である聖遺物と聖職者が舞台上に見える間は、異教的な存在である妖精たちは姿を現すことができないのだ。アダン・ド・ラ・アルは『葉陰の劇』のなかで、二つの「葉陰」を反目と補完の関係のなかで共存させようとしている。このキリスト教と異教の二つの世界を調整するために、まず妖精たちを「葉陰」に迎えたあとで、アラスの住民たちはもう一つの「葉陰」があるノートルダム教会の聖遺物匣にロウソクを捧げに行くのである。妖精たちを迎える「葉陰」は舞台装置として中央に設置され、一夜の無礼講の夜、非公式の世界を象徴するものとして機能した。しかしノートルダム教会の聖遺物匣について言及し、アラスの住人たちがそこへ祈りを捧げに行く場面で作品を締めくくることで、劇の作者であるアダンは「葉陰」がキリスト教化された状況も示しているのである。

アラスの中心にあった聖ヴァースト修道院が伝える十四世紀の記録には、プチ・マルシェ広場にノートルダム教会の聖遺物匣を収めるための葉陰が設置され、そこで様々な贈り物や若い人たちによる娯楽行事が行われたことが報告されているが、妖精たちの記述はない。『葉陰の劇』上演から一世紀がたったこの時代になると、妖精たちを迎える異教的葉陰の伝統はアラスから消滅し、キリスト教的な葉陰の風習だけが残ったようである。

*ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』杉原直人訳、水声社、2007年、31、331-339頁。
** ROUSSE (Michel), « Le Jeu de la feuillée et les coutumes du cycle de mai», in Mélanges de langue et littérature françaises du Moyen Âge et de la Renaissance offerts à Monsieur Charles Foulon, Rennes, Univ. de Haute-Bretagne, 1980, t. 2, p. 313-327, repris dans La Scène et les tréteaux, Orléans, Paradigme, p. 169-196.
*** Adam de la Halle. Œuvres complètes, éd. et trad., Pierre-Yves Badel, Paris, LGF, 1995, p. 286-375.
****Daniel Poirion, « Le rôle de la fée Morgue et de ses compagnes dans le Jeu de la Feuilée », Bulletin bibliographique de la société internationale arthurienne, t. 18 (1966), p. 125-135. Voir en particulier p. 128-130.
***** Jean Renart, Guillaume de Dôle, éd. Félix Lecoy, Paris, 1962. CFMA, v.4151-4162

【03-08十三世紀都市の演劇】十三世紀演劇とフォークロア(1):『ロバンとマリオンの劇』の場合2012/04/05 15:08

現存する十三世紀の演劇作品には上演記録が残っていないため、上演の状況については作中に記されている情報から推定するしかない。この時代には常設の劇場はまだ存在せず、興行としての演劇は成立してなかった。十三世紀の演劇作品の多くは共同体の祝祭や儀式のおりに上演されたと考えられている。アダン・ド・ラ・アルの二つの劇作品、『ロバンとマリオンの劇』と『葉陰の劇』には、作品成立の背景となる当時の祝祭およびフォークロアを想起させる興味深い記述が含まれている。

『ロバンとマリオンの劇』は羊飼いと騎士の恋のやりとりを描く中世抒情詩のジャンルであるパストゥレルの世界を、田園牧歌劇のかたちに書き換えた作品だ。この作品は、1282年頃、シチリア王、シャルル・ダンジュのナポリの宮廷で、饗宴の余興として上演されたと考えられている。アダンは1280年頃からシャルル・ダンジュの甥であり、アラスの領主であったアルトワ伯ロベール二世に仕え、1282年の「シチリアの晩鐘」事件の後に、伯とともにイタリアに赴き、そこで1288年頃に死んだと推定されている。

『ロバンとマリオンの劇』は大きく二つの部分に分かれる。羊飼い娘マリオンと騎士のやりとりが中心となる前半の部分には、多数の歌とダンスが挿入されている。後半はマリオンとその恋人ロバン、そして彼らの羊飼いの仲間たちによる遊戯の場面が続き、劇の最後はダンスで締め括られる。

フォンテーヌは『ロバンとマリオンの劇』で描かれたダンス、遊戯の数々とその配置を、ほぼ同時期の作品、ジャック・ブルテル の『ショヴァンシの騎馬槍試合』(1285年)に詳述された宮廷の饗宴のプログラムと比較し、両者の類似点に着目した*。『ショヴァンシの騎馬槍試合』では1285年にロレーヌ地方のショヴァンシで行われた大規模な騎馬槍試合とそれに伴う宮廷の饗宴の様子が詳細に記録されている。フォンテーヌは、現実の宮廷宴会のプログラム構成と『ロバンとマリオンの劇』のなかで演じられる羊飼いたちの歌、ダンス、食事、遊戯との間の多くの共通点を指摘している。『ロバンのマリオンの劇』に記述された多彩な娯楽の構成には、『ショヴァンシの騎馬槍試合』で描写されるような当時の宮廷の饗宴の様相が反映されているというフォンテーヌの指摘は、この作品がナポリの宮廷で饗宴の余興として上演されたという従来の仮説を補強するものとなっている。多様な要素が詰め込まれたことによって『ロバンとマリオンの劇』は雑然としたレビューの様相を呈しているが、それはこの作品が宮廷の饗宴のためのプログラムとして構想された結果と考えると説明がつく。

『ロバンとマリオンの劇』の後半で羊飼いたちが行う遊戯は、当時の風俗を伝える興味深い資料となっている。羊飼いたちは「聖コームの遊び」と「王と王妃の遊び」という遊戯を行う。この二つの遊戯の名前は、ラブレーの『ガルガンチュア』第二十二章のなかで列挙された遊戯の一覧のなかにも見出すことができる。また前述の『ショヴァンシの騎馬槍試合』でも、「王と王妃の遊び」は貴族たちによって行われている。

「聖コームの遊び」はにらめっこの変種のような他愛もない遊びである。 一人がまず聖コームに選ばれる。他のものは聖コームに順番にふざけた贈り物を捧げにいくのだが、聖コームが変な顔をして、笑わせようとするのを我慢しなければならない。そのときに笑ってしまったら、聖コームの役を代わって引き受けることになる。「王と王妃の遊び」は「嘘をつかない王」という名前でも知られている遊戯で、十三、四世紀の宮廷でよく行われていた。まず王、もしくは王妃を一人選ぶ。王(もしくは王妃)は、臣下たちに何か質問をし、臣下たちはその質問には必ず答えなければならない。その質問の内容は恋愛、恋人に関するものが多く、しばしばきわどい性的な仄めかしを含む。

ヴォルティエが提示する史料には、ペンテコステ(聖霊降臨祭)のおりに毎年アンジェで『ロバンのマリオンの劇』というタイトルの演劇作品が上演されたことが記されている**。この『ロバンとマリオンの劇』はアダン・ド・ラ・アルの作品であるかどうかはわからないのだが、演劇作品の上演がペンテコステの祝祭と関わりがあったことを伝えている点で注目に値する。移動祝祭日であるペンテコステは五月初旬から六月初旬のあいだに祝われるが、このペンテコステの祝祭は春の到来を祝う五月祭の習俗と混同されることが珍しくなかった。五月祭の習俗は時代、地域によって異なるが、グリン・ウイッカムによれば、十七世紀はじめごろまでのイギリスの五月祭では王と王妃が祭の参加者のなかから選出され、彼らはロビンフッドとマリオンと呼ばれたとのことである***。中世フランスの牧歌では羊飼いのカップルだったロバンとマリオンが、近代初期のイングランドの五月祭の風習ではアウトローの英雄ロビンフッドとその恋人マリアンに姿を変えているというのは興味深い。五月祭の王と王妃の名前に加え、アダン・ド・ラ・アルの『ロバンとマリオンの劇』で羊飼いたちが興じた遊戯のひとつが「王と王妃の遊び」であることも、五月祭の風習とこの田園牧歌劇の成立とのつながりを示唆している。ロバンとマリオンを主人公とするフランスの田園牧歌の伝統は、近代初期のイングランドの五月祭のなかで、ロビンフッド伝説、森に住むとされた野生の男(緑の男)のフォークロアと混じり合い、新たな形で継承されていたのである。

* Marie-Madeleine Fontaine, « Danser dans le Jeu de Robin et Marion », in Le Corps et ses énigmes au Moyen Age, dir. par B. RIBÉMONT, actes du colloque Orléans 15-16 mai 1992, Caen, Paradigme, 1993, p.45-54.
** Roger Vaultier, Le Folklore pendant la guerre de Cent Ans d'après les lettes de rémission du Trésor des Chartes, Paris, Guénégaud, 1965, p. 72.
***グリン・ウィッカム『中世演劇の社会史』山本浩訳、筑摩書房、1990年、p.193-197.

【03-07十三世紀都市の演劇】演劇的時空と現実の時空の統合:『葉陰の劇』の場合2012/02/18 16:52

十三世紀演劇作品の多くでは、『聖ニコラの劇』や『テオフィールの奇蹟』のように、複数の場所で同時進行的に複数のエピソードが展開するが、アダン・ド・ラ・アルの二つの劇作品、『ロバンとマリオンの劇』と『葉陰の劇』では時空間は異なった処理が施されている。この二つの作品では筋は単一の場所で展開し、劇中を流れる時間はほぼ現実の時間と重なっている。『ロバンとマリオンの劇』の舞台は、羊飼いたちが生活する田園に設定されている。羊飼いのマリオンが花冠を作っていると、そこに騎士が通りかかるという場面から劇は始まる。この発端から劇の最後まで、主人公のマリオンを含めすべての登場人物たち(騎士、ロバン、そして他の羊飼いたち)は、この唯一の場を入退場する。

『葉陰の劇』の舞台はアラスの町の一角である。この舞台上に設定された世界を出入りできるのは、妖精たちなどよその土地からアラスにやってきた登場人物だけである。アラスの住民たちは劇空間に囚われていて、この町から出ることはできない。『葉陰の劇』の17名の登場人物のうちの約半数は架空の人物ではなく、作者のアダンを始め、当時、実在したアラスの住民たちであり、こうした役柄はおそらく本人によって演じられていただろう。劇の内容から、自分自身を登場人物として演じる役者たちは、自分の出番になると客席から舞台に上がり、出番が終わるとまた客席に戻って、芝居を見物していた可能性が高いとフェーヴルは推定する。劇の冒頭で妖精を迎える東屋の準備をしていたアダンとリキエは、自分たちの出番が終わると、一旦客席に戻り、妖精たちの到来を他の観客たちと一緒に待つ。このとき、彼らとともに妖精の登場を待つ観客たちもまた、劇内世界と現実世界の重なり合う重層的な空間にいるのである。登場人物のひとりが客席の一角で立ち上がり、その場所で話しはじめる。あるいは《演技エリア》までやってきて、自分に割り当てられた役柄を演じ、その場面が終わると再び元の客席に戻って座る。『葉陰の劇』では、このように《演技エリア》である舞台と客席が一体となり、ひとつの演劇的空間が形成されていた。

このように劇空間と現実空間が統合されている一方で、『葉陰の劇』では劇内での場面の移行は明確なやり方で示されている。妖精たちの食卓の場面から、居酒屋の場面に移るときに、この場の転換を導くのは登場人物のひとりであるアーヌ・ル・メルシエ[小間物商のアーヌ]である。妖精たちがアラスの広場から立ち去ると、妖精たちが話しているあいだはずっと眠り込んでいた放浪の修道僧が目を覚ます。アーヌはよそ者であるこの放浪僧を、アラス住民の常連たちが集う居酒屋まで連れて行く(『葉陰の劇』875-902行)。この場面の移行のあいだに、妖精たちのために用意されて食卓は舞台上から片付けられ、それと入れ違いに場面が居酒屋であることを示すためのテーブルが《演技エリア》に設置されただろう。

フェーヴルはさらに劇内世界の場所が、現実の場所と重なっていたと想定する。つまり『葉陰の劇』の居酒屋の場面は、その当時、実際にアラスにあったラウル・ル・ウェディエが経営する居酒屋のなかで上演された可能性が高いと彼は考える。十三世紀のテクストを通して、当時の居酒屋の様子が再現されているというのは、実に魅力的な仮説である。戯曲に書き込まれた細部の描写がこの仮説の信憑性を高めている。例えば、居酒屋の客のリキエには次のような台詞がある。
「(居酒屋主人のラウルに向かって)おい、一杯お願いするよ。(仲間のギヨに向かって)さあ、こっちに座ろう。ほら、そこの窓の縁(li rebas)に葡萄酒の瓶は置いておけばいいよ(914-917行)」

「窓の縁(li rebas)」という特定の場所を示す記述は、この作品が上演される場所が前もって決まっていたからこそ出てくるように思える。『葉陰の劇』の居酒屋では、このように想像上の劇空間と現実の空間が重なりあっていた可能性が高いのである。

『葉陰の劇』では空間的な面だけでなく、時間的な面でも、劇世界と現実世界は重なり合っている。劇中でアラスの住民たちは妖精を迎えるために食卓を準備し、その食卓に妖精たちは降り立つが、この芝居を観ている観客たちはまさに妖精たちがこの町にやってくることになっている夜にこの芝居を観ていたのだとフェーヴルは考える。登場人物の一人であるリキエは言う。
「妖精たちが今晩やって来るのは昔から決まっている習慣なのだ(566-567行)」
『葉陰の劇』の観客は、この妖精たちの到来を迎える夜を、演劇的世界にいる登場人物たちとともに過ごすのである。劇内の時間の速度は、現実の速度よりも若干早く進む。劇は夕暮れに始まり、翌日の日の出の時間に終わる。しかし『テオフィールの奇蹟』や『聖ニコラの劇』に見られるような時間の跳躍は、『葉陰の劇』にはない。またアダン・ド・ラ・アルのもうひとつの演劇作品、『ロバンとマリオンの劇』でも、『葉陰の劇』同様に、劇内時間と実際の時間はほとんど重なっている。

こうした劇の時・空間と現実の時・空間の重層化は、十三世紀の演劇作品の中では、アダン・ド・ラ・アルの二つの演劇作品に特有のものだ。こうした時・空間の統合はこの時代の劇作術としては例外的なものだったかもしれない。ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』では、演劇的時・空間の扱いは、アダン・ド・ラ・アルの作品と異なり、複合的なシステムが導入されている。『聖ニコラの劇』の最初の部分では、ジャン・ボデルは複数の場所と時間を設定し、並行して筋を進行させる。しかし中間の夜の居酒屋の場面では、筋を単一の時間と場所のなかで展開させる。そして最後の部分では、居酒屋の場面とサラセン王の宮廷の場面が交互に現れる。これはひとつの形式に留まることに作者が躊躇した結果こうなってしまったのだろうか、あるいは作者は敢えて複数のリズムを作品のなかに取り入れようとしたのだろうか。

【03-05十三世紀都市の演劇】奇跡の起きる場所、宗教劇の上演空間(1)2012/02/12 03:33

ジャン・フーケ『聖アポロニアの殉教』(1445頃)
宗教的な主題の十三世紀演劇作品、ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』やリュトブフの『テオフィールの奇蹟』は、おおむね天国─地上─地獄の象徴的な軸に基づく劇構造を持っている。既に指摘したように、この構造は教会内での演劇である典礼劇でも確認することができる。また教会の外で上演され、典礼とは関わりを持っていないにも関わらず、その宗教的内容ゆえに、両作品とも劇の最後が、出演者と観客によって歌われる《テ・デウム(主であるあなたをわれわれは讃えます)》で締め括られる。これも典礼劇から引き継いだ習慣のひとつである。

典礼劇のなかには詳細なト書きがあるものが少なからずあるが、現存する十三世紀のフランス語演劇作品の写本では、ト書き的な記述(ディダスカリ)はあったとしても極めて貧弱である。『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』も例外ではない。おそらく、典礼劇は典礼の一部である以上、正確な手順を厳密に規定し、それを祭式者でもある演者が遵守することが必要とされたのに対し、十三世紀の演劇作品の場合、職業芸人であるジョングルールが演じ手であったため、詳細な演出的指示は必要とされず、むしろ演者の即興に委ねられた部分が多くあったという事情の違いに由来するものだろう。十三世紀演劇の舞台上演の実際については、ディダスカリの欠如のため、よくわかっていない部分が多いが、フェーヴルは先行研究を踏まえ、十三世紀の宗教的主題の劇作品について次のような舞台を想定している。

『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』では、《演技エリア》 aire de jeuの一方の端には神の《場》lieu(リュ)、もう一方の端には悪魔の《場》が、設置されていた。神の《場》には『聖ニコラの劇』では天使と聖ニコラ、『テオフィールの奇蹟』では聖母マリアが待機し、この《場》から、中央の演技エリアへ姿を現した。一方、悪魔の《場》には『聖ニコラの劇』ではテルヴァガンの神殿、『テオフィール』では地獄が設置されていた。

ところで中世演劇特有の舞台空間を示す用語として《マンシオン》mansionという用語が十九世紀以来用いられてきたのだが、フェーヴルはこの用語の使用については否定的な立場を取っている。《マンシオン》は従来の中世フランス語演劇史研究では、「ある特定の場所を表すための舞台装置一式」をおおむね意味している。『フランス語宝典』TLF**の記述によると、ラテン語で「住居」などを意味する《mansio》に由来するこの語が、舞台装置の意味で用いられている最初の用例は、十二世紀に書かれたと考えられているアングロ・ノルマン方言の典礼劇『救世主の復活』に確認できる。しかしこの用語が、中世の文献でこの意味で使用されている例は、この作品でしか確認されていない。1855年に文献学者のポーラン・パリスが聖史劇の演出について言及する際にこの語を用い、それ以来、《マンシオン》が中世演劇の舞台装置を示す用語として定着したようである。中世の演劇テクストで、演技する舞台を示す語として《マンシオン》よりはるかによく用いられたのは《場》lieu(リュ)という語である。

十三世紀のフランス語宗教劇の舞台は、複数の《場》によって構成されていたと考えられている。しかしこの《場》がどのように配置されていたかについては、研究者によって見解が異なる。大きく分けて、観客に向かい合うかたちで、複数の《場》が隣り合わせに並置されていたという説と、複数の《場》が観客とともに円形を形作っていたという説の二つがある。後者の仮説はレ=フロが提示したもので、レ=フロはこの円形舞台を《魔法の円》 cercle magiqueと名付けている**。

並列的な《場》を想定すると、『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』で物語が展開し、演技が行われた場所(以下《演技エリア》とする)は、「神」と「悪魔」二つの象徴的な《場》の中央前より部分だった可能性が高いとフェーヴルは考える。もし複数の《場》と観客席が《魔法の円》を形成していたと想定するレ=フロの仮説にそって考えるならば、物語が展開する《演技エリア》はこの円の中央部分だっただろう。《演技エリア》の存在は中世末期の聖史劇の舞台で確認することができるが(図、ジャン・フーケ『聖アポロニアの殉教』を参照のこと)、この舞台設計は上演についての資料がほとんど残っていない十三世紀まで遡ることができるとレ=フロは主張し、フェーヴルもそれを妥当な推論だとしている。

《場》は原則的に出番ではない登場人物たちの待機場所だったと考えられている。場合によっては、観客もその場に居合わせて、《演技エリア》で展開する劇を見物していた。もし役者たちがいつもそれぞれの《場》の内部で演技を行っていたと仮定すれば、狭苦しい空間のなかで役者たちが立ち往生する動きの乏しい舞台となるか、あるいはそれぞれ独立した場面を作るのに必要な広さを持つ複数の《場》を並置させるために、公演ごとに壮大な規模の演劇空間を準備しなければならなくなってしまう。こういった理由でおそらく、《場》とは別に《演技エリア》は舞台空間の形成の上で用意する必要があった。役者は自分の出番でないときに自分の《場》に待機して、《演技エリア》を見守る。そして自分の出番になると《場》から《演技エリア》に入り、芝居に参加する。そして自分の登場場面が終わると、《演技エリア》から退場し、自分の《場》へと戻っていった。

しかし劇行為は必ずしも《演技エリア》でだけ展開していたとは限らない。フェーヴルはさらにダイナミックで可変・流動的な上演空間を想定する。この《演技エリア》は劇行為の要請に応じてあらゆる《場》を自由に取り込むことが可能であったとフェーヴルは考える。例えば、『聖ニコラの劇』の上演に際しては、居酒屋として設定された《場》が、《演技エリア》と融合して複合的な《演技エリア》を形成する。その居酒屋の《場》に悪党たちは集まり、そこを《演技エリア》として芝居を続ける。そしてその次の場面では、王の宮廷として設定された《場》がそのまま、《演技エリア》となる。このように場面ごとに、《場》を中心に《演技エリア》が移動していった可能性をフェーヴルは提示している。レ=フロが提唱する《魔法の円》の上演空間でもこうした可動式の《演技エリア》は充分に想定可能である。しかしもし役者たちが部分的にでも《場》の内側で演技を行うのであれば、《魔法の円》というレ=フロの仮説は説得力の乏しいものになってしまうとフェーヴルは指摘する。というのも《場》の内部で芝居が行われた場合、《場》が円形状に配置されていると、観客の多くはその様子を見ることができなくなってしまうからである。

* Trésor de la langue française: Paul Imbs他によって編纂され、1971-94年に刊行された全16巻のこの辞書は、国立フランス語研究所INaLFによって電子化され、インターネット上の次のurlで無料で 利用することができる。atilf.atilf.fr/tlf.htm
** REY-FLAUD (Henri), Le Cercle magique : Essai sur le théâtre en rond à la fin du Moyen Âge, Paris, Gallimard, 1973.

【03-04十三世紀都市の演劇】二つの劇世界の共存:「こちら」と「あちら」2012/01/04 00:04

十三世紀の演劇作品は、このように、「こちら」と「あちら」の二つの異なる世界の存在が出会う場となることが多い。『葉陰の劇』は、アラスの町、すなわち「こちら」の世界で展開する。アラスの住民がこの町から離れることは簡単なことではないが(『葉陰の劇』の作者であり、劇中人物でもあるアダンもまた、この町を抜け出すことができないでいる)、異世界である「あちら」から、怪しげな力を持つさまざまな存在が、まるで「葉陰」の下で待ち合わせをしているかのように、この町へやって来る。放浪僧はあらたかな御利益をもたらすという聖遺物を持ち込んで、町の人間を相手に商売を行い、狂人は意味不明の言葉をまくし立てて人々を当惑させ、妖精たちは不吉な予言で人々を脅かす。この町にやってきた異邦人のなかで、町から抜け出すことができたのは妖精たちだけである。妖精たちはアラスの他の場所で行われる老婆たちとの集会のため、舞台から立ち去った。放浪僧と狂人は劇の最後まで舞台上に残る。朝になり、居酒屋の常連たちが家路に向かい退場した後も、彼らは舞台上にとどまったままだ。アラスの町にいったん入り込んでしまうと、そこから抜け出すのは本当に大変なことなのだ。

アダン・ド・ラ・アルは『葉陰の劇』以外に、『ロバンとマリオンの劇*』という田園牧歌劇を残している。『ロバンとマリオンの劇』でも二つの異なる世界の住民が劇空間のなかで出会う。羊飼いたちが生活する田園世界に、「あちら」である宮廷から騎士が馬に乗ってやって来るのである。騎士は羊飼い娘のマリオンを誘惑し、口説き落とそうとするが、マリオンはきっぱりとそれをはねつける。マリオンにとっては、騎士の持っていた野鳥の肉よりも、自分たちが食べ慣れたチーズ、パン、リンゴのほうが魅力的なのである。羊飼い娘に拒絶され、気分を害した騎士は田園を立ち去り、マリオンは恋人の羊飼い、ロバンのもとに戻る。『ロバンとマリオンの劇』では、素朴な田園的生活の喜びが、羊飼いたちの遊戯、歌、冗談とともに、描き出されている。「あちら」の住人である騎士がやって来たり、下品な物言いをする羊飼いがいたり、狼が侵入したりして「こちら」の世界の平穏を揺るがそうとするが、結局のところ「こちら」の牧歌的劇世界は維持されるのである。

ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』における「こちら」と「あちら」の二つの世界の関係は、アダン・ド・ラ・アルの作品よりもはるかに複雑である。アダン・ド・ラ・アルの二つの作品では、劇世界は基本的に「こちら」で展開し、そこに「あちら」の人物が侵入するという構造になっている。それに対して、『聖ニコラの劇』では、「こちら」と「あちら」の二つの世界が、作品の内部で錯綜している。劇の舞台は「アフリカ」にあるサラセン人の王国で展開していることに、一応はなっている。この王国は「東洋からカタロニアまで」広がる広大な地域を領土としている。この王国の宮廷に集まる異教徒の諸侯たちは、現実には存在しない空想上の国々からやって来た。金の糞をする犬がいたり、風車小屋の挽き臼ほどの大きさの貨幣を用いられたりするような国である。

この王国の中心にある居酒屋は劇行為が展開する重要な場所の一つなのだが、その居酒屋はアラスにあるのだ。つまりこの居酒屋の主人とそこに集まる客は、「アフリカ」にあるサラセン人王国の臣民であると同時に、北フランスの都市、アラスの住民でもあるのである。居酒屋にいる人間は異教徒であるはずなのに、アラスの住民であるかのような言動を行う。彼らの口から出てくる地名はアラス近郊の村の名前だ。「アフリカ」の居酒屋主人は、オセール(ブルゴーニュ地方の都市。中世でワインの産地として有名だった)産の葡萄酒を自慢して客にふるまう。そしてその客たちはサラセン人であるにもかかわらず、「神にかけて par Dieu」あるいは「聖ヨハネにかけて par saint Jean」という表現とともに誓いの言葉を述べる。

しかし劇世界のなかで、このような地理的混乱が生じているのはこの居酒屋の中だけであることも注意しておこう。アフリカ王の宮廷では、王もその臣下たちもマホメット、アポロン、テルヴァガンという異教徒の三神(中世の武勲詩などではイスラム教徒がこの三神を信仰しているという記述がしばしば出てくる)しか知らない。つまり居酒屋における地理的状況の混乱は、作者ボデルの不注意によるものではない。作者は敢えて二つの地理的に遠く離れた場所、すなわちアラスと十字軍の遠征地である異国を、居酒屋でこのように錯綜させたである。『聖ニコラの劇』では、異教は「あちら」の世界から、「こちら」の世界であるアラスの居酒屋の中に入り込んでいる。居酒屋の客であるクリケ、ラゾワール、パンセデの三悪党は、「こちら」で異教徒として生活している。奇跡によって聖ニコラが彼らの前に現れ、アフリカ王の宝物を財宝庫に返却するように命令したときも、彼らはその生き方を変えようとはしないし、自分たちの行いを反省している様子もない。彼らは自分たちを超越する聖ニコラの霊力の強さに怯えてその命令に従ったが、だからといって本当に改悛したわけではないのである。

『聖ニコラの劇』では、このように、本当のキリスト教徒(十字軍兵士たち)、キリスト教徒でもあり異教徒でもある人たち(居酒屋にいる人物)、そして異教徒(サラセン王とその宮廷に集まる諸侯)が、舞台上で共存している。最後の場面では、サラセン人の王とその臣下たちはキリスト教徒に改宗し、舞台上に残るのはキリスト教徒だけになる。この時、居酒屋の悪党たちすでに舞台上から姿を消している。彼らは新天地を求め、この地を去ったのだ。

この芝居はハッピーエンドなのだろうか? もしサラセン人の国王が本当に心から改宗したのであれば、ハッピーエンドと言えるだろう。しかし国王がキリスト教徒に改宗したのは、キリスト教の教えに感化されたからではなく、聖ニコラが宝物庫の財宝を守ってくれたからである。こんな安易な理由で改宗し、しかも聖ニコラを神以上に崇拝するといういい加減な信仰者が、まともなキリスト教徒であると言えるだろうか? 無理矢理跪かされ、キリスト教への改宗を強要された「外乾燥アラビア国」の太守の態度はこの点で興味深い。この太守は、改宗後も心の奥ではマホメットを信仰しつづけると明言し、自分は表向きだけのキリスト教徒(実は隠れイスラム教徒)となることを、果敢にも認めている。おそらく同じ部屋にいた他の異教徒の諸侯たちの本心も、言葉には出してはいないものの、「外乾燥アラビア国」の太守とそう違わないはずだ。

劇世界のなかで、居酒屋のなかだけをアラスと設定することで、作品が伝えようとしたメッセージはより明瞭になったように感じられる。この芝居を観たアラスの支配階層の人間たちは、居酒屋の間抜けな悪党たちにアラスの下層階級の人間を重ねて見ただろうし、十字軍の兵士たちとサラセン人の捕虜となった誠実なキリスト教徒という高貴で理想的な人物には、自分自身の姿を重ねただろう。しかしこうした自分に都合のよい見方だけでなく、ブルジョワたちは『聖ニコラの劇』の登場人物たちの世俗的な言動のリアリティに、己の姿の写し絵を認めずにいることは難しかったに違いない。『聖ニコラの劇』では、自分たちの財宝をしっかりと守ってくれるような力に対して、すぐに服従する人間たちの姿が風刺的に描かれている。異教徒の王やその臣下たちの功利的な態度には、ブルジョワたちも思い当たるところがあったはずだ。『聖ニコラの劇』では、このように、「こちら」と「あちら」が作品全編にわたって入り組んだかたちで共存している。そしてその共存の様子は、一人の人間の心のなかで、異教的な悪とキリスト教的な善が共存し、時に葛藤する姿を想起させる。

どんな人間でも心のなかで神の正義と悪魔の誘惑が相争うような経験はあるはずだ。パリの詩人、リュトブフによる『テオフィールの奇跡**』(十三世紀後半)は、こうした人間の善悪の葛藤を描く典型的な作品の一つである。この作品のなかで、聖職者テオフィールは、己の欲望を極限まで追求しようとする。彼は聖職者として出世したいという野心に燃え、窮乏に陥ることをひどく恐れている。現状に不満を抱く彼は、神が自分に与えた境遇を呪い、聖職者という身分でありながら神を否定する。『テオフィールの奇跡』の冒頭の独白では、神への激しい罵詈雑言と呪詛が連なっている。テオフィールは自分の主人である主を裏切り、別の主人に臣従の誓いを立てることは選択する。とはいうもの、彼は天国を捨て、地獄を選んだつもりはないのだ。彼の二者択一は二つの「あちら」(天国と地獄)を巡るものではない。彼は、自分にとっての「あちら」である天上の世界を拒み、「こちら」である地上と現世での権力を選ぶのである。

ただし『テオフィールの奇蹟』では、善悪の力の不均衡が作品全体を支配している。テオフィールが頼みとする悪魔は、複雑な手順の儀式を行わないと彼のいる地上の世界に呼び寄せることが出来ないのに対し、彼が拒んだ天上の存在、聖母マリアは、テオフィールが心からの改悛の情を示しさえすればすぐに手をさしのべてくれる。現世の富の分配者である悪魔はもとより天の聖母マリアの正義に勝ち目はないのである。聖母マリアは、瞬き一つで悪魔の太鼓腹を押しつぶし、テオフィールが魂を受け渡すことを記した証書を奪い取ってくれるのだ。

ある人間が罪を犯し、その後でその罪を悔いる、すると聖母マリアが現れ贖罪の手助けを行う。『テオフィールの奇跡』で示されたこの三段階の展開は、次の世紀に制作された「複数の人物による聖母奇蹟劇集」の基本的構成となる。「聖母奇蹟劇集」は1339年から1382年の間、金銀細工商の兄弟信心会(聖エロア信心会)の毎年恒例の集会で上演された。

「聖母奇蹟劇集」では、テオフィールが神に対して示したような精神的な格闘は、もはやほとんど見られない。作品の筋立ては取り違え、人違い、嘘を多用した通俗的なものになり、そのなかで表明される望みは、良い縁談、商売繁盛、名声を手に入れることなどあからさまに現世利益に関わるものが多い。聖母マリアは現世的欲望の調停者なる。彼女の劇中での役割は、間違って下された判決を覆したり、罪人の犯した罪を許したり、物事をもとあった状態に戻すことである。聖母マリアが現れ、魔法のバトンを振り回すだけで、凶悪な罪を犯した者が聖人になってしまう。聖母マリアの絶対的な力は、「聖母奇蹟劇集」で「あちら」である天上世界が「こちら」にある現世に対して圧倒的に優位にあることを示しているのである。
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* アダン・ル・ボシュ「ロバンとマリオンの劇」神沢栄三訳、『フランス中世文学集4 奇蹟と愛と』東京:白水社、1996年、453-500頁。この音楽劇の録音は数多い。最近のものとしては、Ensemble Micrologus, Le Jeu de Robin et Marion & autres œuvres, Harmonia Mundi, 2004 (ZZT 040602) [http://store.harmoniamundi.com/adam-jeu-de-robin-et-marion.html]がある。
** リュトブフ「テオフィールの奇跡」神沢栄三訳、『フランス中世文学集4 奇蹟と愛と』東京:白水社、1996年、427-452頁。

【03-03十三世紀都市の演劇】演劇的な場としての居酒屋2011/12/23 01:22

居酒屋は十三世紀の演劇にとって特権的な場所である。この時代にアラスで書かれた三つの重要な演劇作品に居酒屋が舞台として登場する。聖書の「放蕩息子」のたとえ(ルカ第11章11-32)の翻案である『アラスのクルトワ』の半分の場面は、居酒屋で展開する。ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』でも、居酒屋は劇を構成する重要な場のひとつとなっている。アダン・ド・ラ・アルの『葉陰の劇』は、大きく三つの部分から構成されるが、その最後の部分は居酒屋が舞台になっている。

居酒屋は猥雑と混沌が支配する場所である。居酒屋で客は放縦と安楽を満喫する。彼らは存分に飲み食いし、喧嘩し、サイコロ賭博に興じ、いかがわしい女たちとの会話を楽しむ。しかしこうした愉みと引き替えに、居酒屋は人々から多額の金銭を奪い取る。『アラスのクルトワ』では、主人公のクルトワは、プレットとマンシュヴェールという二人の売春婦にカモにされ、父親した相続した財産を奪い取られたうえ、着ていた服まで居酒屋に置いていくはめになった。

『聖ニコラの劇』に登場する三人の悪党、クリケ、パンセデ、ラゾワールは、サラセン王の宝物庫から財宝を盗み出し、それを元手にして大酒を飲み、王侯貴族さながらの派手な掛け金でサイコロ賭博を居酒屋で楽しんでいた。しかし彼らの前に現れた聖ニコラの怒りに怯え、盗んだ財宝をサラセン王の宝物庫に戻さなくてはならなくなる。財宝をあてに散々飲み食いしていたため、居酒屋主人に飲み代を支払うことができず、着ていた外套を代金代わりに居酒屋に置いて出るという惨めな状態に最終的に彼らは陥ってしまう。

『葉陰の劇』では、聖遺物を見せることでお布施を集める放浪僧は、居酒屋にいた連中の悪質ないたずらの餌食となり、大金を請求される。放浪僧は質草として、大事な商売道具の聖アケールの聖遺物を居酒屋の主人に預けなくてはならなくなる(最終的には放浪僧は何とか金を工面して、聖遺物を取り戻す)。このように居酒屋で人が、金銭的な面だけでなく、精神的な意味でも、破綻していく様子がこれらの作品では描かれている。

『葉陰の劇』に登場する妖精、マグロールは、妖精たちを迎える東屋に、自分にだけ食器が用意されていなかったことに機嫌を損ねる。彼女は、この東屋の準備をしたアダンのパリへの旅立ちが遅れ(アダンは劇の冒頭でこれから勉学のためパリに向けて旅立つことを宣言している)、アラスの町から結局抜け出すことができないだろうという意地悪い予言をする。この予言はすぐに実現してしまったように思える。妖精たちの登場する場面の後には、居酒屋での場面が続く。居酒屋ではアラスの住民たちが集まって酒を飲んでいる。そのなかに、パリに向けとっくに出発しているはずのアダンの姿があるのだ。彼はアラスの仲間たちとここで朝まで過ごすのである。この居酒屋の場では、アダンには台詞が割りあてられていない。もう既にかなり酩酊状態にあるのか、彼は仲間たちの悪ふざけを黙って聞いている。夜が明け、アラスの聖ニコラ教会の鐘の音が聞こえ始めると、非日常の狂騒的な時間は終わる。常連たちは居酒屋を出て、自分たちの家へ戻って行く。

『聖ニコラの劇』の悪党たちもまた朝の光が照り始めると居酒屋を後にする。『アラスのクルトワ』では、一文無しとなったクルトワは、居酒屋の主人に外に放り出される。精神的および金銭的な苦境に陥ったクルトワは、たまたま出会った紳士に与えられた豚飼いという仕事を、天からの恩寵であるかのように受け入れる。居酒屋で、人は自らを見失い、ときに破滅にまで追いやられることもある。そこで冷静さを保つことができるのは居酒屋の主人だけである。十三世紀アラスの演劇作品では、居酒屋の主人はいつも悪巧みの主犯であり、仲間とグルになってカモとなる客から何とかして金をだまし取ろうとする役柄である。『アラスのクルトワ』では、父からの遺産をすべて奪われ無一文となったクルトワは身ぐるみ剥がされ、『聖ニコラの劇』ではクリケは着ていたマントを奪い取られ、『葉陰の劇』では放浪僧は、一時的ではあったが、商売道具の聖遺物を借金の型として置かなければならなかった。

こうした居酒屋のエピソードには、悪所通いの道徳的・金銭的危険性を告発するという教訓的意図が込められているのかもしれない。しかし、こうした場合、演劇による再現が、悪徳の告発という教訓を伝える手段として、有効かどうかは何とも言えないところがある。舞台でそうした場面が演じられることが、かえって有害な影響を観客に与える可能性もないわけではないからである。悪所での遊興の描写が正確であればあるほど、その様子は観客にとって魅惑的なものとなり、劇中で居酒屋の客が味わうことになる不幸な結末の苦さを相殺してしまいかねない。こうした描写を教訓とするには、登場人物と彼らの失敗に、観客が自らの姿を重ねる必要があるだろう。ところが、例えば『アラスのクルトワ』の主人公に対して、この芝居の観客が、そういう見方をしていたかどうかは大いに疑問なのである。世間知らずで田舎者のクルトワは、アラスの町に足を踏み入れた途端に騙されてしまうが、彼は町の人間にとってはよそ者である。また『聖ニコラの劇』で居酒屋に集まるならず者もまた、町の住民とは相容れない存在だ。

結局のところ、この放蕩の場で犠牲者となるのは、もとより破滅してしかるべき者、すなわち田舎者とならず者なのだ。田舎者は、最終的には、都市を離れ自分の農場へ戻っていく。ならず者はもとより社会の周縁に生きる存在である。いずれも芝居の観客である都市住民とは異なる社会グループに属している人間であり、観客たちは優越感をもって、他人事として彼らの失敗を見物していたに違いない。クルトワたちを嗤う観客もまた居酒屋に通う客であるかもしれない。しかし彼らは芝居の登場人物たちとは違って、自分たちは悪所での遊興、放蕩の危険性を知っていて、劇の登場人物のような愚かな失敗を回避できると思い込んでいる。こうした都市住民の考えは、『聖ニコラの劇』に登場する異教徒の王の伝令、オベロンの扱いに読み取ることができる。オベロンも居酒屋にやって来る。しかし彼はサイコロ賭博で悪党のクリケに勝ち、支払いをクリケに押しつけて、ただ酒を飲むことに成功するのである。ならず者と違い、王の家来であれば、居酒屋に入って酒を飲んでも損をすることなくそこから出ることができるのである。

『聖ニコラの劇』(1200年頃)のおよそ75年後に上演された『葉陰の劇』(1276年頃)の居酒屋の様子は、『聖ニコラの劇』とまったく同一の次元にあるわけではない。『葉陰の劇』の世界でも居酒屋には相変わらず雑多な人間がやってくるが、そこにいる客はいかにも現実の居酒屋にいそうな人間である。『葉陰の劇』の観客がどのような社会階層に属する人間であったのかははっきりわかっていないが、劇の登場人物でもあるアダンやリキエと同じようなアラスの下層市民が観客に含まれていたことはほぼ間違いないと思われる。


この芝居の最後の三分の一は居酒屋の中で展開するが、居酒屋は作品のなかの舞台であるだけなく、実際に作品が上演された場所であったという可能性もある、とフェーヴルは示唆する。『葉陰の劇』の校訂者の一人、ジャン・デュフルネは、作品の解説のなかで、作品のタイトルとして用いられている「葉陰」feuilléeとは(実際にはテクストの末尾のexplicitから『葉陰の劇』というタイトルが取られている)、年に一度、アラスの町に降り立つ妖精たちを迎える葉のついた木の枝で作られた東屋を指していただけでなく、居酒屋の看板もそう呼ばれていた可能性があると記している。もしかすると居酒屋のなかには、劇の上演にあわせ、緑の葉のついた枝で作られた東屋も設置されていたかもしれない。『葉陰の劇』のなかで、居酒屋の常連たちは出される葡萄酒を遠慮なくけなし、食べ物を不作法に食べ散らすが、登場人物のこうした言動は、居酒屋でこの作品が上演されたというフェーヴルの想像の妨げとはならない。なぜならそうした無遠慮なふるまいは、その都度、居酒屋主人によって注意されているからである。この居酒屋主人もまた、『アラスのクルトワ』と同じように、町の住民である常連たちをけしかけて、旅の僧から金をだまし取る。僧が酔っ払って寝ている間に、客たちは僧のつけで勝手にサイコロ賭博をはじめ、その支払いを僧に押しつけるのだ。この僧は怪しげな聖遺物でお布施を集める旅回りの人間であり、彼らにとってはよそ者だ。この居酒屋で金銭的損害を被るのはこの僧だけである。

居酒屋の常連たちはまた、学僧となる強い願いを持ちパリに出発しようとしたアダンを引き留め、居酒屋に引きずり込んで堕落させた。居酒屋は13世紀の演劇作品のなかでアラスの町全体の換喩として機能している。そこでは官能的な欲望のやりとりが露骨に行われ、莫大な金が浪費される。その現世的欲望の魔力に取り憑かれた人々は、その中に取り込まれ、身動きできなくなってしまうのである。

【03-02十三世紀都市の演劇】社会の鏡としての演劇(『葉陰の劇』と『聖ニコラの劇』)2011/12/08 14:35

現存するアダン・ド・ラ・アルの二つの演劇作品のうちの一つである『葉陰の劇』には、アラスの大ブルジョワへの批判や風刺、皮肉がふんだんに盛り込まれているが、これを作者の社会的身分と関連づけ、この作品の反=都市貴族階級の側面を過大に見積もらないように注意しなくてはならない。『葉陰の劇』では幾人かの大ブルジョワたちの吝嗇ぶりが名指しで辛らつに批判されているが、作品で言及されていない別の大ブルジョワの一族が観客にいて、劇中のそうした場面で自分のライバルが批判されるのを満足げに眺めていた可能性もあるのだから。

もっとも『葉陰の劇』のなかに見られる現実社会の反映は、それまでの演劇には見られないものであることは確かである。作者はアラスの都市内部の対立に大胆に言及し、幾人かの人間を手厳しく批判する一方で、別の人間についてはその風刺にかなり手加減を加えている。『葉陰の劇』では、アダン・ド・ラ・アルの批判の矛先は都市の大ブルジョワたちにとどまらない。この頃、聖職者の免税特権の一部を廃止した教皇も批判の対象となっている。さらに大ブルジョワとして権勢をふるっていたクレスパン家とルシャール家の後ろ盾となっていたアラスの封建領主、アルトワ伯もまた、間接的にではあるが、批判されている。このような個人を名指しした直接的な風刺を行っている点で、『葉陰の劇』は十五世紀の阿呆劇(ソティ)の先駆けとなっている。

また阿呆劇と同じように、『葉陰の劇』の内容は、キリスト教よりはむしろ異教に由来する祝祭と強く結びついている。おそらくこの作品はペンテコステの祝日の前後に上演された。『葉陰の劇』には、年に一度、妖精たちが町の広場に到来する夜の出来事が記されている。この劇の中盤では、アラスの広場に到来した異教的な存在である妖精たちによる幻想的驚異が展開する。この妖精たちの口を借りて、通常ならまず許されないような辛辣な批判や自由な言説が繰り広げられる。『葉陰の劇』はおそらく、何回も再演されることを想定して作られた作品ではなく、一回きりの上演のために書かれた作品だった。再演が仮にあったとしても、再演の場では現実を写し取ったこのような作品の風刺の多くは効力を失い、理解されなくなってしまっていただろう。本来ならばこの種の作品は記録されることなく忘れ去られてしまったに違いない。『葉陰の劇』はアダン・ド・ラ・アルという、演劇のみならず多くのジャンルに作品を残した大詩人の作品であったがゆえに、写本に記録されるという幸運を得たのだろう。中世演劇作品で『葉陰の劇』ほど、具体性をもって同時代の現実を描き出した作品は他にはない。

ただし、もっと一般的なかたちで13世紀の世相を反映した内容を持つ演劇作品は他にもある。例えば、『聖ニコラの劇』の冒頭部では、十字軍に対する強い関心が表明されている。この作品は第四次十字軍(1200年頃)の頃に書かれた。『聖ニコラの劇』の作者、ジャン・ボデルは、聖人による奇跡という「聖者伝」で扱われてきた伝統的な素材を選択しつつ、従来の奇跡譚にはみられない独自のあり方でこの素材を提示している。まず劇の舞台となるのは十字軍の遠征先、サラセン軍の土地である。異教徒の王がキリスト教徒の侵入を知らされる場面で芝居は幕を開ける。『聖ニコラの劇』では、キリスト教徒は敵地でサラセン軍によってほぼ全滅の状態に追いやられてしまう。生き残ったキリスト教徒は一人だけで、彼はサラセン人に囚われの身となる。

『聖ニコラの劇』はおそらく、異教徒たちとの戦いの犠牲になったキリスト教戦士たちを讃える芝居でもあった。『聖ニコラの劇』の基調は悲劇的なものではないのだが、劇中で十字軍兵士たちが登場する唯一の場面にはパロディの笑いの雰囲気はない。サラセン人の大軍との決戦の直前の場面である。十字軍兵士たちは、数的に圧倒的に劣勢の状態にあり、決死の戦いとなることを承知している。取り乱すことなく、むしろ喜びをもって、この戦いへの覚悟を確認する彼らの姿には悲劇的な美しさがある。天使が彼らのそばに降り立つ。この戦闘による死は、戦士たちにとって驚異的な幸運なのである。というのも死によって彼らには殉教者の冠が与えられ、彼らの前に天国の門が開かれることになるからである。壮絶な戦いのあと、天使がキリスト教徒の遺体に言葉をかける。するとキリスト教の戦士たちは起き上がり、天使に導かれ天国へと向かう。当時の上演ではこうした場面が再現されたに違いない。しかし『聖ニコラの劇』で殉教は美しい行為として描かれてはいるが、その行為は異教徒には何ら影響をもたらすことはなかった。異教徒たちは聖ニコラの行う奇跡によって改宗へと導かれるのだが、その奇跡は聖戦の場では起きない。

サラセン王は宝物庫の鍵をわざとかけないままにして、そこに奇跡を起こすという聖ニコラの像を「番人」として置く。そして宝物庫の鍵がかかっていないことを国中に告知する。一晩その状態にしておいて、もし盗賊によって宝物庫の宝が盗まれていたら、サラセン王は捕虜のキリスト教徒を殺すことにしたのである。町の居酒屋でその話を聞いた盗賊は、宝を盗み出して、それを居酒屋に運び込んだ。すると聖ニコラが、その宝を取り戻すために居酒屋に姿を現した。そして聖ニコラの奇跡によって、宝は異教徒の王のもとに戻される。異教徒の王はこの奇跡によってキリスト教徒に改宗した。『聖ニコラの劇』で奇跡の場となるのは、多くのキリスト教徒が血を流した戦場ではなく、居酒屋なのである。

【03-01十三世紀都市の演劇】演劇都市アラス2011/12/08 14:23

市庁舎と町の有力者たちの館がその周囲に立ち並ぶ大広場は、都市共同体の権力にとって象徴的な空間だった。広場では市が立ち、祝祭が行われた。宗教行事などの行列から住民の暴動まで、都市生活におけるあらゆる重要な出来事がここで繰り広げられた。そしてたいていの場合、演劇の上演も都市の中央にある大広場で行われた。もちろん中世の演劇公演の場は広場に限られていたわけではない。草原、墓地、屋内の広間などでも芝居は上演されていた。しかし中世の俗語による演劇作品は、少なくとも換喩的な意味合いにおいては、都市の広場と常に強く結びついていた。中世演劇はブルジョワ(ブルジョワとは語源的に「bourg」(町)の住民を意味する)による、ブルジョワのための演劇だったのである。13世紀都市は「武勲詩から『聖ニコラの劇』を、ファブリオから『少年と盲人』を、聖書の譬話から『アラスのクルトワ』を、教訓的説教譚から『テオフィールの奇跡』を、そしてさらには「複数の人物による聖母奇跡劇集」を、暇乞いの歌から『葉陰の劇』を、田園牧歌詩から『ロバンとマリオンの劇』」を創造した、とジャン=シャルル・パイヤンは記す*。中世都市のブルジョワたちは、既存の多くの文芸ジャンルを、都市共同体の文芸によりふさわしい演劇という形式に書き換えていったのだった。

パイヤンが引き合いに出した上記のテクストのうち、『テオフィールの奇蹟』と「聖母奇蹟劇集」はパリの作品だが、他の作品はすべてピカルディ地方、とりわけその中心都市であったアラスに関わりのある作者によって書かれた作品である。アラス近辺で制作・上演された演劇作品を記載する写本がたまたま現在までが残ったゆえに、演劇作品の制作地がこのように偏ってしまった可能性はある。他の地方でも演劇作品は制作・上演されていたが、それを記した写本は失われてしまった、あるいはそもそも記録されなかったのかもしれない。十編ほど現存する13世紀のフランス語演劇作品のうち、『聖ニコラの劇』と『葉陰の劇』という二つの重要な作品は同一の写本(Paris BnF fr. 25666)に記録され、しかもこの両作品を現在まで伝えるのはこの写本だけなのである。もしこの写本が焼失していたら、中世フランス演劇史の記述は現在あるものとはまったく異なったものになっていただろう。しかし、たとえアラス以外の都市でも演劇の制作・上演が行われていたとしても、中世演劇における13世紀アラスの特権的地位は揺らぐことはない。

12世紀末にコミューン都市として自治権を獲得したアラスは、13世紀には繊維工業や国際貿易の要として、大いに繁栄していた。裕福なブルジョワが台頭し、その経済力によって市参事会の掌握し、都市の支配階級を形成した。旧来の封建的貴族階級に対抗しようとした大ブルジョワたちは、封建貴族が行っていたように、祝祭、騎馬槍試合、そしてある種の文芸コンクールでもあった《ピュイ》と呼ばれるアラス独自の祭典を主催した。当時の文芸の担い手であったジョングルールたちは、アラスでは保護された。大ブルジョワたちによる文芸の奨励によって、ジョングルールたちはこの町では定住して創作活動を行う手段を手に入れることができたのである。アラスでは、ジョングルールたちは放浪の旅芸人でなく、都市の構成員の一部となった。この町では《ジョングルールとブルジョワの信心会》が組織され、この信心会の物故者名簿が現在まで伝わっている。この町で手に入れた安定した文芸環境のなかで、ジョングルールたちのなかには、文芸のパフォーマーとしてだけではなく、自ら詩人・作曲家となって、新たな文学形式を試みたり、既存の文芸形式をさらに洗練させたりする者が現れた。

もっともアラスの職業的なジョングルールの生活は、必ずしもうらやむべきものであったというわけではない。都市構成員として認められたといても、ジョングルールは大ブルジョワの奉公人であり、都市の上層階級に属してはいなかったのである。例えば、アラス出身のジョングルール兼詩人、アダン・ド・ラ・アルは市参事会の吏員の息子であり、彼の一族は資産を持ってはいなかった。アダンは一介のclerc(クレール)に過ぎなかった。フランス語のclercは一般的には「聖職者」を意味するが、アダンは聖職者として教会や修道院で生活していたわけではない。彼は結婚していた。clercは、学校に通って読み書きができるようになった人間を幅広く指しており、公証人、書記、秘書官、法律家、それらの見習い、学生、詩人などはすべてclercと呼ばれていた。要するにアダンは都市の支配階級であった大ブルジョワに経済的に従属した小ブルジョワのインテリだったのである。

*PAYEN, (Jean-Charles), « Théâtre médiéval et culture urbaine », Revue d’histoire du théâtre, 1983, p. 233-250.

【02-04役者とジョングルール】個人芸から集団による表現へ:複数の人物による芝居2011/11/26 03:25

ジョングルールの芸能は本質的にソロ・パフォーマンスであり、集団による芸能ではない。いかにジョングルールが役者のように演じたとしても、その芸は語りのシステムのなかに組み込まれたものである。役者とは違い、ジョングルールは、自分たちの芸が作りだした世界のなかに観客を引き込むことはない。ジョングルールは、自分が今、ここで語っているのは、どこか別の場所で起こった、過去の物語であると、明示的なかたちであれ、暗示的なかたちであれ、観客に対して常に伝えているのである。ジョングルールは、現実の世界と物語の世界の間を絶えず行き来する。これこそがジョングルールの芸の特質なのである。しかし集団によるパフォーマンスのなかで、ジョングルールがこの技芸を用いて、二つの世界を行き来する様子を思い浮かべることは難しい。ジョングルールがある人物から別の人物へ、ある場所から別の場所へと自在に移行することができるのは、その技芸が単独のパフォーマンスに基づくものであるからなのである。

語りもの文芸は、単独の朗唱者による芸能であり、集団的パフォーマンスにはなじまない。語りものの文化が演劇の文化と一致することはほとんどなかったことは、これまでしばしば指摘されてきた。アラブやブラック・アフリカでは、あたかもこの二つの文化が共存不可能であるかのように、語りものの文化が消滅するとそれと入れ替わりに演劇の文化が出現している。フランスでは、14世紀になるとジョングルールは徐々に衰退し、その技芸は失われていった。それはおそらく、ペストや戦乱などこの時代の社会全体に関わる危機的状況のなかで、放浪の旅芸人であったジョングルールの顧客となる層が徐々にその活力を失ったために違いない。時代が進むにつれ、旅回りをやめて定住化するジョングルールが増えてきた。ジョングルールのなかには、特定の貴族に仕え、宮廷お抱えの芸人、作家として活動する者が出てきた。あるいはメネストレルménestrel、さらに時代が進むとメネトリエménétrierと呼ばれる芸人となり、音楽家や道化として宴会、舞踏会を盛り上げることをもっぱらの職務とするようになった。

ジョングルールの消滅によって生じた芸能の空白は、徐々に同業者による信心会の成員たちによる素人芝居によって埋められていった。前述したように、初期の受難劇に含まれる語りの詩行のなかには、ジョングルールたちのレパートリーで使われていた素材が再利用された痕跡を見出すことができる。中世の教会建築に、古代ローマの神殿の円柱が再利用されているのと同じように、信心会の素人役者たちはジョングルールの遺産を利用したのである。芸能者としての訓練を経ていない彼らにとって、ジョングルールによる語りのテクストを複数の演じ手によって上演されるためのテクストに書き換える作業は、簡単なものでなかったに違いない。残されたテクストの不器用さが、この作業の大変さを示している。14、5世紀の演劇テクストのタイトルにはしばしば「複数の人物による」par personnagesという語が添えられていることは興味深い。あたかも作品が単独の人物ではなくて、複数の人物によって演じられる芝居であることを明確に示すために添えられているかのようである。

単独のジョングルールから複数の役者たちによる表現への移行は、受難劇以外でも、おそらく同じようなかたちで行われた。ファブリオ(韻文小話)とファルス(笑劇)については、かなり以前から多くの研究で、その着想、主題、内容の親近性について指摘されてきた。この二つの文学形式が年代的に交錯するのも14世紀である。語りものジャンルであるファブリオは、その担い手であったジョングルールの消滅とともに消えてしまった。そしてこれと入れ替わるようにファルスが出現した。ファルスは、ファブリオと同じ素材を用い、その素材を「複数の人物による芝居」へと再構成したのである。ファルス冒頭にしばしば置かれる長大なモノローグや、最後に置かれる観客への呼びかけといった技法はおそらく、このジャンルが継承したジョングルール芸の痕跡だろう。

しかし複数の役者によって演じられる作品が、14世紀以前になかったわけではない。教会の演劇の枠組みとはまったく関係のないところで、北フランスの大商業都市、アラスでは、われわれが演劇と呼びうる作品が13世紀には既に成立していた。この世紀、アラスは、ジャン・ボデル、アダン・ド・ラ・アルといったジョングルール出身の詩人たちによる数編の演劇作品を残している。ジャン・ボデルによって13世紀初頭に書かれた『聖ニコラの劇』は、14世紀はじめの『パラティヌス受難劇』や『オタン受難劇』などの初期受難劇よりもはるかに高度で成熟した演劇性を備えている。

それでは13世紀のアラスは、なぜ演劇都市としてこのような特権性、先進性を持つことができたのだろうか。なぜジョングルールたちは、この町で演劇の作者となり、都市住民のための「町の広場の演劇」を作り出すことができたのだろうか。