【05-09】《長大な劇形式》グロテスクな聖性 ― 2014/02/13 17:27
人物描写の単調さに対して、聖史劇のテクストにはしばしば非常に凝った詩的技巧が用いられた。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュなど、聖史劇の作者のなかには《大押韻派》*に属する詩人もいて、複雑な韻の組み合わせを追求することで驚くべき文体的名人芸を示すことができた。もっともテクストの施されたこうした詩的妙技は、彼らにとってほんの気晴らし程度のものだった。テクストはスペクタクルを構成する装飾のひとつでしかなかったのである。彼らは驚異的なスピードで脚本を書き上げることができた。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュは一万五百行の長さの『聖マルタンの聖史劇』を五週間で書き上げたが、それを特別なことだと考えている感じはない。オペラの台本や映画の脚本と同じように、聖史劇の脚本はスペクタクルの一部分であり、不可欠なものであるが、最も重要な要素ではなかった。
聖史劇は、そのテクストの長大さと卓越した詩法にもかかわらず、ことばの演劇ではなかった。聖史劇の本質は、群衆全体を興奮させ、楽しませ、魅了する力のなかに、見出すべきだろう。聖史劇の本当の魅力はその上演の現場のなかでしかおそらくとらえることができない。聖史劇の豊かさを作っていたものは、聖史劇の消滅とともに消えてしまったのだ。聖史劇は単に巨大でけばけばしい機械仕掛けのスペクタクルだっただけではない。フェーヴルは、アルトーの「われわれは皮膚によって、精神の中に形而上学的なものを取り戻すことができる」という言葉を引用し、聖史劇についてもこの「残酷の演劇」のテーゼは有効であると言う。
いや聖史劇だけでなくこの時代の宗教的感性全体についてもこのアルトーの警句は有効だろう。ホイジンガが《中世の秋》と呼んだこの時代には、キリスト受難についての神秘的瞑想と過剰にグロテスクな描写が共存している。フェーヴルはマティアス・グリューネヴァルト(1470?-1528)**のイーゼンハイム祭壇画で描かれている世界に、中世劇と共通するアンビヴァレンスを見出す。そこには教訓的・道徳的な意図が込められていることは疑いようがないが、倒錯的な嗜虐への関心もそこにははっきりと認めることができる。この時代には貪欲と恬淡、宗教的神秘と世俗的現実が共存し、人々は官能に酔いしれ、死に魅了されていた。聖史劇で展開する世界もこの中世末期の感性とは切り離すことはできない。形而上学的思索と猥雑な笑い、道徳的な教えとグラン・ギニョル風***の悪趣味、宗教的熱狂と市場の喧噪。聖史劇は全てを語り、全てを見せることを目指した。聖職者たちの知的な信仰と民衆の本能的な信仰、キリスト教に対する相反する二つの姿勢が聖史劇のなかには流れ込んでいる。
しかしこうした特徴ゆえに、聖史劇は終焉を迎えることになってしまう。十六世紀中頃に宗教紛争が深刻な事態に陥ったとき、聖史劇はその正当性をすべて失ってしまった。聖史劇に参加し、見物することは、共同体の成員が全員一致して、自発的に一つの信仰のあり方を公然と表明する行為に他ならない。宗教紛争の時代には、この信仰の土台が厳密な議論の対象となった。福音主義者と新教徒が聖史劇に含まれる外典や世俗的な要素を問題視するようになる。すると教学的な立場からの批判を怖れ、カトリックたちも聖史劇上演に対して慎重になり、否定的な態度を取るようになったのである。1548年11月17日は聖史劇終焉を示す象徴的な日付となった。この日に下されたパリ高等法院による判決で、受難劇協会は聖史劇の上演を禁じられた。しかし聖史劇の終焉は、1541年のパリ高等法院検事による告発のなかで、既に予告されていた。検事はこの告発書で「信仰について公に語ることは、もはや学者や知識人などこの問題に精通している人間の問題」であり、演劇および演劇上演にかかわる「アルファベットも読めない無知蒙昧な民衆」が関わる事柄ではないと述べている。
【史料】《聖史
劇の断罪》受難劇協会が演じた旧約聖書についての聖史劇上演の計画に対して、パリの高等法院の検事総長の告発文の抜粋(1541年)****
文盲でこうした[信仰に関わる]事柄について理解していない低い階層の人間たち、たとえば指物師、下級警官、織物職人、魚屋といった連中が、『使徒行伝の聖史劇』を上演したのだが、彼らは上演にあたって、典拠が不確かな事柄をいくつも付け加えるのみならず、劇の最初と最後に扇情的な笑劇や茶番劇を置いて作品を長なものとし、上演期間は、6ヶ月から7ヶ月の長きにわたった。この芝居の上演期間中、聖なる儀式は中断され、慈善活動と施しものは停滞し、不倫と密通、醜聞、嘲弄と嘲笑が蔓延してしまった。そして今もこの状況は続いている。
(…)この作品が上演されているあいだ、一般信徒たちは、祝祭日であっても、教区教会で行われるミサ、説教、夕べの祈りをなおざりにし、朝の8時、9時から夕方5時まで芝居見物に出かけるのだ。説教者たちも芝居に出かけてしまったので、説教も行われなかった。彼らが見に行った芝居で見聞きしたのは以下のような事柄である。演者たちは大道で堂々と奇矯なふるまいを行い、不適切なことばを言って、人々を笑わせている。例えば「聖霊は地上に降り立つのはもうこりごりだとさ!」といったふざけた文句を大声で叫んだりした。教区司祭たちの多くは芝居見物のために、祝日の晩課の祈りを怠ったり、あるいは正午に一度だけお祈りをしてすませたりしていた。こんな時間にお祈りをする慣例などないにもかかわらず。聖歌隊長や当高等法院付属の礼拝堂付の司祭たちもまた、聖史劇の上演期間中は、祝日の夜に行わなければならないお祈りを正午に行っていた。それどころか、芝居の時間に間に合うように、お祈りをその場で大急ぎですませたりしていたのである。
(…)上演に関わる人間は、企画者も演者も機械仕掛け職人も、皆、アルファベットのAとBの区別もできないような無知蒙昧の民ばかりだ。彼らは公共の場で演劇などを上演するのに必要な教育も訓練も受けていない。流麗な話し方、正しい言葉遣い、適切な発音を知らず、自分たちが話している内容も理解していないもとは一語しかないのに、余計な言葉を追加して三語に言い換えてしまうようなことは頻繁にある。文の途中でポーズを置いて、祈りの文句を意味不明なものにしてしまう。疑問文であるべき箇所を、感嘆文だと勘違いし、原文とは逆の意味になってしまうような動作、イントネーション、発声で話す。こんなありさまなので、上演の最中にしばしば、観客から嘲笑とヤジが巻き起こる。彼らの演劇は、教化どころか、スキャンダルと嘲弄の源になっているのである。
文盲でこうした[信仰に関わる]事柄について理解していない低い階層の人間たち、たとえば指物師、下級警官、織物職人、魚屋といった連中が、『使徒行伝の聖史劇』を上演したのだが、彼らは上演にあたって、典拠が不確かな事柄をいくつも付け加えるのみならず、劇の最初と最後に扇情的な笑劇や茶番劇を置いて作品を長なものとし、上演期間は、6ヶ月から7ヶ月の長きにわたった。この芝居の上演期間中、聖なる儀式は中断され、慈善活動と施しものは停滞し、不倫と密通、醜聞、嘲弄と嘲笑が蔓延してしまった。そして今もこの状況は続いている。
(…)この作品が上演されているあいだ、一般信徒たちは、祝祭日であっても、教区教会で行われるミサ、説教、夕べの祈りをなおざりにし、朝の8時、9時から夕方5時まで芝居見物に出かけるのだ。説教者たちも芝居に出かけてしまったので、説教も行われなかった。彼らが見に行った芝居で見聞きしたのは以下のような事柄である。演者たちは大道で堂々と奇矯なふるまいを行い、不適切なことばを言って、人々を笑わせている。例えば「聖霊は地上に降り立つのはもうこりごりだとさ!」といったふざけた文句を大声で叫んだりした。教区司祭たちの多くは芝居見物のために、祝日の晩課の祈りを怠ったり、あるいは正午に一度だけお祈りをしてすませたりしていた。こんな時間にお祈りをする慣例などないにもかかわらず。聖歌隊長や当高等法院付属の礼拝堂付の司祭たちもまた、聖史劇の上演期間中は、祝日の夜に行わなければならないお祈りを正午に行っていた。それどころか、芝居の時間に間に合うように、お祈りをその場で大急ぎですませたりしていたのである。
(…)上演に関わる人間は、企画者も演者も機械仕掛け職人も、皆、アルファベットのAとBの区別もできないような無知蒙昧の民ばかりだ。彼らは公共の場で演劇などを上演するのに必要な教育も訓練も受けていない。流麗な話し方、正しい言葉遣い、適切な発音を知らず、自分たちが話している内容も理解していないもとは一語しかないのに、余計な言葉を追加して三語に言い換えてしまうようなことは頻繁にある。文の途中でポーズを置いて、祈りの文句を意味不明なものにしてしまう。疑問文であるべき箇所を、感嘆文だと勘違いし、原文とは逆の意味になってしまうような動作、イントネーション、発声で話す。こんなありさまなので、上演の最中にしばしば、観客から嘲笑とヤジが巻き起こる。彼らの演劇は、教化どころか、スキャンダルと嘲弄の源になっているのである。
聖史劇は、人間と聖なるものを結びつける巨大で派手やかなスペクタクルであり、そこに終末論的な猥雑さと混沌があった。しかし1548年の聖史劇の上演禁止の判決によって、演劇における「皮膚」と「形而上学なもの」は分離してしまった。これ以降、現代にいたるまで、西洋演劇史のなかで、この二つの要素は決して折り合うことはなかったのである。
* 《大押韻派》Grands rhétoriqueurs 十五世紀後半から十六世紀に前半にかけて、ブルゴーニュ公の宮廷などで活躍した詩人たち。伝統的修辞学を最大限に活用し、発展させた技巧的な詩を残した。
** Matthias Grünewald 1470?-1528ドイツの芸術家、建築家、技師。マインツ(1508-14)、ブランデンブルク(1515-25)で宮廷画家だったということ以外、その生涯についてはほとんど不明。1516年には優れたイーゼンハイム祭壇画(コルマール美術館)を完成させた。
*** Grand-Guignol グラン・ギニョル座。パリのモンマルトルにあった猟奇・残酷劇専門の劇場。
**** サント=ブーヴ『16世紀のフランスの詩と演劇の展望』(1828)より。Sainte-Beuve, Tableau de la poésie française et du théâtre français au XVIe siècle, Paris, 1828, p.17-18.
【05-08】《長大な劇形式》俳優と進行役 ― 2014/02/08 03:21
仕掛けによる趣向が重視されていた聖史劇は、役者たちの技量を味わう演劇ではなかったが、暴君、悪魔、道化(阿呆)などの喜劇的な人物を演じるには、それなりの技量が要求された。こうした喜劇的な役柄は、ファルス(笑劇)やソティ(阿呆劇)の世界に近い存在であり、地域にあるファルスやソティの上演団体(「陽気な信心会」といった名称で呼ばれていた)のメンバーがこうした喜劇的役柄を担当することが多かったようだ。しかし真面目な役柄の配役の選定では、演技力はそれほど重視されなかった。台詞の量が多い役柄は、聖職者、法律家といった人前での演説に慣れたプロが担当することがあったが、重要で威厳のある役を演じることが多かったのは、何よりも裕福な家の人間だった。演技力に長けていても貧しい人間には、こうした役柄を演じるチャンスは少なかったのだ。
聖史劇の俳優に求められる能力の筆頭は、自分の担当する台詞を覚え、それをはっきりと力強く発声することである。長大な聖史劇のテキストの台詞を、大群衆の前で話さなくてはならないのだから、これはたやすいことではない。1496年にスール Seurreで上演された『聖マルタンの聖史劇』の作者、アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュ André de la Vigne(1470?-1526?)は、この作品の上演について興味深い証言を残している。劇の冒頭で、悪魔役の俳優に火が燃え移るという事故が起こった。興奮し、大騒ぎする観客たちに対して、俳優たちはどう振る舞ったのか。ヴィーニュは記す。「舞台上の俳優たちの堂々たる態度は、巣穴のライオンや森に潜む山賊を凌駕するものだった」。大群衆の観客のやじや喧噪を圧倒するような大きな声と存在感が、聖史劇の俳優たちには重要だったのだ。ニュアンスに富んだ演技や声の調子の変化は重要ではなかった。1543年に聖史劇上演を禁じる命令を下したパリ高等法院の検事は、受難劇上演組合の俳優の芝居は「適切な雄弁術も、正しい発音も用いられておらず、知性を欠いた代物」であると批判している。
聖史劇の俳優の演技についての肯定的な記述はそもそも稀ではあるが、全くないわけではない。中でも1486年にメスMetzの町で上演された『聖カトリーヌの聖史劇』で主役を演じた18歳の女性の演技についての記述はよく知られている。年代記作家のフィリップ・ド・ヴィヌール Phillipe de Vigneullesは次のように記している。「この若い女性は聖カトリーヌを見事に演じ、その演技に観客は哀れみの情を催した。彼女の演技に涙する者もいた。彼女はあらゆる人たちに愛された」。そして「芝居を見てすっかり彼女に魅了された」貴族が彼女を妻にめとった。年代記作家がこのエピソードを記したのはおそらく、彼女の演技が並はずれて印象深く、高い評判を引き出したからに他ならないだろう。
最近の研究では、中世劇で女性が舞台に上がることはこれまでの研究で指摘されてきたほど例外的ではなかったことが明らかになっている。メスで1486年に聖カトリーヌを演じたこの女性は、記録で確認できる最初の女優ではない。1333年にルイゾン・アミロ Louison Amilhauという女性がトゥーロンToulonでの『聖母の降誕劇』Nativité de Notre-Dameで聖母マリアを演じたという記録が残っている。南仏のロマンRomansで1509年に上演された『三人の貴人の聖史劇』Mystère des trois Domsでは、女王プロゼルピーヌを除く全ての女性の登場人物は、女性によって演じられた。確かに全体的にみると、聖史劇では女優の起用は限定的であり、女性の役柄を含め、男優のみで上演されることが多かった。フランス北部ではこの傾向が強い。しかし女性が舞台に上がることが禁じられていたわけではない。
聖史劇上演を統括したのは、主催者 organisateurと進行役meneur de jeuである。進行役は舞台上演の責任者であるが、演出家や舞台監督と言うよりはむしろオーケストラの指揮者に近い。フーケの《聖女アポリアナ殉教図》には青い袖なしマントを来た進行役の姿が描かれている(拡大図を参照のこと)。片手で芝居の台本を持ち、もう一方の手には指揮棒を持っている。まさにオーケストラの指揮者のように、観客に見える位置で指揮棒を振って劇の進行をコントロールする。進行役は、俳優、楽器演奏者、舞台装置担当者に始まりの合図を出す。台詞を覚えていない役者には、台詞をささやく。端役たちの集団に指示を出して、芝居の進行速度を調整する。前口上と終口上も彼の役目だ。
上演に何日も要する聖史劇の規模の大きさを考えると、各場面の稽古はそう頻繁には行うことができなかったはずだ。舞台は上演直前に組み上げられるため、舞台上での稽古は行われなかった。俳優たちの大半は自分の出る場だけを把握するのが精一杯で、各場が全体のなかでどのようにつながっているのか分かっている人間はほとんどいなかっただろう。聖史劇はその巨大さゆえに、全体を統括する先導役が必要不可欠だったのだ。
物語の内容とは関係のない進行役が舞台上にいても、観客は気にならなかった。聖史劇は聖書のエピソードの写実的な再現を目指した演劇ではない。仕掛けやからくりが重視される聖史劇の表現は、「奇術師の写実主義」であるとベルナール・フェーヴルは評している。俳優も登場人物との同一化を必ずしも目指さない。俳優は自分の身体を通して、ある歴史上の人物を提示し、表現する。聖史劇の登場人物は、個性を持つ個人ではなく固定化された類型的人物なのだ。人物の類型は、聖書や聖者伝の読解や聖史劇上演の伝統のなかで形づくられたものだ。羊飼い、拷問役人、迫害者である王、隠者、改宗者、奇跡を受けた人と言った人物は、どの聖史劇でも交換可能な役柄である。
こうした類型的人物は、時代が下るにつれてますますその原型的な側面が強化され、記号化が進行した。悔い改めた罪びとの代表であるマリー=マドレーヌはその世俗性が強調された。卑劣なユダはあらゆる悪の宿命を背負う人物となった。ある聖史劇では、オイディプス伝説がユダに重ねられ、ユダはキリストを裏切る前に、父を殺し、母と結婚したことになっている。聖史劇ではあらゆる登場人物について、このような類型化・記号化が行われている。この傾向は道徳劇においてよりいっそう明瞭である。道徳劇では大半の役柄は擬人化された抽象概念である。「愛」は愛らしく、「嫉妬」は妬み深く、「理性」は理屈っぽい。登場人物の性格や言動は、その役柄によってあらかじめ厳密に規定されており、作者や俳優たちによる解釈の自由の余地はほとんど存在しない。
聖史劇の俳優に求められる能力の筆頭は、自分の担当する台詞を覚え、それをはっきりと力強く発声することである。長大な聖史劇のテキストの台詞を、大群衆の前で話さなくてはならないのだから、これはたやすいことではない。1496年にスール Seurreで上演された『聖マルタンの聖史劇』の作者、アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュ André de la Vigne(1470?-1526?)は、この作品の上演について興味深い証言を残している。劇の冒頭で、悪魔役の俳優に火が燃え移るという事故が起こった。興奮し、大騒ぎする観客たちに対して、俳優たちはどう振る舞ったのか。ヴィーニュは記す。「舞台上の俳優たちの堂々たる態度は、巣穴のライオンや森に潜む山賊を凌駕するものだった」。大群衆の観客のやじや喧噪を圧倒するような大きな声と存在感が、聖史劇の俳優たちには重要だったのだ。ニュアンスに富んだ演技や声の調子の変化は重要ではなかった。1543年に聖史劇上演を禁じる命令を下したパリ高等法院の検事は、受難劇上演組合の俳優の芝居は「適切な雄弁術も、正しい発音も用いられておらず、知性を欠いた代物」であると批判している。
聖史劇の俳優の演技についての肯定的な記述はそもそも稀ではあるが、全くないわけではない。中でも1486年にメスMetzの町で上演された『聖カトリーヌの聖史劇』で主役を演じた18歳の女性の演技についての記述はよく知られている。年代記作家のフィリップ・ド・ヴィヌール Phillipe de Vigneullesは次のように記している。「この若い女性は聖カトリーヌを見事に演じ、その演技に観客は哀れみの情を催した。彼女の演技に涙する者もいた。彼女はあらゆる人たちに愛された」。そして「芝居を見てすっかり彼女に魅了された」貴族が彼女を妻にめとった。年代記作家がこのエピソードを記したのはおそらく、彼女の演技が並はずれて印象深く、高い評判を引き出したからに他ならないだろう。
最近の研究では、中世劇で女性が舞台に上がることはこれまでの研究で指摘されてきたほど例外的ではなかったことが明らかになっている。メスで1486年に聖カトリーヌを演じたこの女性は、記録で確認できる最初の女優ではない。1333年にルイゾン・アミロ Louison Amilhauという女性がトゥーロンToulonでの『聖母の降誕劇』Nativité de Notre-Dameで聖母マリアを演じたという記録が残っている。南仏のロマンRomansで1509年に上演された『三人の貴人の聖史劇』Mystère des trois Domsでは、女王プロゼルピーヌを除く全ての女性の登場人物は、女性によって演じられた。確かに全体的にみると、聖史劇では女優の起用は限定的であり、女性の役柄を含め、男優のみで上演されることが多かった。フランス北部ではこの傾向が強い。しかし女性が舞台に上がることが禁じられていたわけではない。
聖史劇上演を統括したのは、主催者 organisateurと進行役meneur de jeuである。進行役は舞台上演の責任者であるが、演出家や舞台監督と言うよりはむしろオーケストラの指揮者に近い。フーケの《聖女アポリアナ殉教図》には青い袖なしマントを来た進行役の姿が描かれている(拡大図を参照のこと)。片手で芝居の台本を持ち、もう一方の手には指揮棒を持っている。まさにオーケストラの指揮者のように、観客に見える位置で指揮棒を振って劇の進行をコントロールする。進行役は、俳優、楽器演奏者、舞台装置担当者に始まりの合図を出す。台詞を覚えていない役者には、台詞をささやく。端役たちの集団に指示を出して、芝居の進行速度を調整する。前口上と終口上も彼の役目だ。
上演に何日も要する聖史劇の規模の大きさを考えると、各場面の稽古はそう頻繁には行うことができなかったはずだ。舞台は上演直前に組み上げられるため、舞台上での稽古は行われなかった。俳優たちの大半は自分の出る場だけを把握するのが精一杯で、各場が全体のなかでどのようにつながっているのか分かっている人間はほとんどいなかっただろう。聖史劇はその巨大さゆえに、全体を統括する先導役が必要不可欠だったのだ。
物語の内容とは関係のない進行役が舞台上にいても、観客は気にならなかった。聖史劇は聖書のエピソードの写実的な再現を目指した演劇ではない。仕掛けやからくりが重視される聖史劇の表現は、「奇術師の写実主義」であるとベルナール・フェーヴルは評している。俳優も登場人物との同一化を必ずしも目指さない。俳優は自分の身体を通して、ある歴史上の人物を提示し、表現する。聖史劇の登場人物は、個性を持つ個人ではなく固定化された類型的人物なのだ。人物の類型は、聖書や聖者伝の読解や聖史劇上演の伝統のなかで形づくられたものだ。羊飼い、拷問役人、迫害者である王、隠者、改宗者、奇跡を受けた人と言った人物は、どの聖史劇でも交換可能な役柄である。
こうした類型的人物は、時代が下るにつれてますますその原型的な側面が強化され、記号化が進行した。悔い改めた罪びとの代表であるマリー=マドレーヌはその世俗性が強調された。卑劣なユダはあらゆる悪の宿命を背負う人物となった。ある聖史劇では、オイディプス伝説がユダに重ねられ、ユダはキリストを裏切る前に、父を殺し、母と結婚したことになっている。聖史劇ではあらゆる登場人物について、このような類型化・記号化が行われている。この傾向は道徳劇においてよりいっそう明瞭である。道徳劇では大半の役柄は擬人化された抽象概念である。「愛」は愛らしく、「嫉妬」は妬み深く、「理性」は理屈っぽい。登場人物の性格や言動は、その役柄によってあらかじめ厳密に規定されており、作者や俳優たちによる解釈の自由の余地はほとんど存在しない。
【05-07】《長大な劇形式》舞台の仕掛けの重要性 ― 2014/02/03 13:26
典礼劇と同様に、聖史劇でも天国と地獄という二つの宗教的かつ象徴的な軸の両端が強調される。多くの場合、聖史劇で手の込んだ舞台装置が用いられたのは天国と地獄の二箇所だけだった。金色にきらめく天国には、冠をかぶった神がいて、その頭上を木製の天使たちが飛び回り、力天使(ヴェルテュ)と大天使(アルカンジュ)たちが周囲にいる。この天国のすぐそばには《シレート》(聖史劇の幕間に演奏される楽器演奏)のための場所が設けられ、そこからは心地よい音楽が聞こえてくる。場の転換をつないだり、あるいは重要な場面で観客の注意をひきつけたいときに、この場所で音楽が演奏される。
天国の反対側には地獄がある。地獄の出入り口はときおり炎が吹き上がる。火事の危険を避けるため、地獄の舞台装置は煉瓦で作られている。うめき声と鳴き声がそこからは聞こえ、悪魔たちが出入りする。キリスト教徒たちを迫害する王の宮殿もこのすぐそばにある。拷問役人たちがうごめく牢獄と居酒屋の舞台装置も地獄のそばに設置されることが多かった。受難聖史劇の上演では、イェルサレムの神殿もこの場所におかれた。以上が聖史劇を構成する基本的な場である。こうした基本的な場は、上演期間中はずっと舞台上に設置されていた。
これらの基本的な場のほかに、上演日や場面の必要に応じて設置される副次的で暫定的な場がある。誕生したばかりのイエスが置かれた飼い葉桶が置かれた場所が、翌日の上演では山の舞台美術が置かれていたり、あるいはひとつの舞台空間が、複数の場を兼ねたりすることもあった。同じ空間が、場面によって、集会所、城門の前、海を表すなど。看板でその場がどこなのかが示されることもあった。
舞台美術は聖史劇全体の予算に応じて、凝ったものが制作されたが、聖史劇の主催者がより大きな関心を示したのは、舞台美術よりはむしろ機械仕掛けの装置やからくりによる舞台効果だった。ヴァランシエンヌの聖史劇写本では、各幕(聖史劇では《日》(journée)と呼ばれる単位で分割されていた)の冒頭には、その幕で用いられる技巧・仕掛けの一覧が掲載されており、聖史劇上演のにおけるこうした機械仕掛けの趣向の重要性をうかがうことができる。
数あるからくり仕掛けのなかでももっとも好まれたのは、《宙乗り 》である。《宙乗り》は天使たちが天国から地上に降り立つ場面、サタン(魔王)がイエスを神殿の上に連れ去る場面、イエス・キリストの昇天の場面などで用いられた。垂直方向の移動には雲のかたちの白くぬられた小さな船のような乗り物が使われた。奇術的な仕掛けも好まれた。登場人物が一瞬で現れたり、姿を消したりする、水がブドウ酒に変わる、観客の目の前でパンがどんどん増えていく、ヨセフの持っている杖に突然花が咲く、彫像が突然倒れる、洪水で舞台上が水浸しなる、火炎が噴き出し、使徒たちに襲い掛かる、地獄で大砲のとどろきと共に稲妻がきらめくなど。
聖史劇の観客が何よりも期待したのは拷問の場面に違いない。拷問の場面にはリアルで生々しい情景を提示する工夫が考案された。セリ機構によって出現する「偽の体」、そして真っ赤に塗られた鞭。真っ赤に塗られた鞭がその身体に振り下ろされるたびに、役者の体が赤く染まっていく。俳優は断頭台に引きずり出され、そこでひざまずく。処刑の瞬間に俳優は人形と迫りの仕掛をつかって入れ替わる。人形の首がごろりと舞台に転がり、舞台は血だまりとなる。
すぐれた仕掛けの考案者、技術者は、聖史劇全体の成否の鍵となる重要な存在であり、時には高額な報酬を支払って遠くから呼び寄せられた。
天国の反対側には地獄がある。地獄の出入り口はときおり炎が吹き上がる。火事の危険を避けるため、地獄の舞台装置は煉瓦で作られている。うめき声と鳴き声がそこからは聞こえ、悪魔たちが出入りする。キリスト教徒たちを迫害する王の宮殿もこのすぐそばにある。拷問役人たちがうごめく牢獄と居酒屋の舞台装置も地獄のそばに設置されることが多かった。受難聖史劇の上演では、イェルサレムの神殿もこの場所におかれた。以上が聖史劇を構成する基本的な場である。こうした基本的な場は、上演期間中はずっと舞台上に設置されていた。
これらの基本的な場のほかに、上演日や場面の必要に応じて設置される副次的で暫定的な場がある。誕生したばかりのイエスが置かれた飼い葉桶が置かれた場所が、翌日の上演では山の舞台美術が置かれていたり、あるいはひとつの舞台空間が、複数の場を兼ねたりすることもあった。同じ空間が、場面によって、集会所、城門の前、海を表すなど。看板でその場がどこなのかが示されることもあった。
舞台美術は聖史劇全体の予算に応じて、凝ったものが制作されたが、聖史劇の主催者がより大きな関心を示したのは、舞台美術よりはむしろ機械仕掛けの装置やからくりによる舞台効果だった。ヴァランシエンヌの聖史劇写本では、各幕(聖史劇では《日》(journée)と呼ばれる単位で分割されていた)の冒頭には、その幕で用いられる技巧・仕掛けの一覧が掲載されており、聖史劇上演のにおけるこうした機械仕掛けの趣向の重要性をうかがうことができる。
数あるからくり仕掛けのなかでももっとも好まれたのは、《宙乗り 》である。《宙乗り》は天使たちが天国から地上に降り立つ場面、サタン(魔王)がイエスを神殿の上に連れ去る場面、イエス・キリストの昇天の場面などで用いられた。垂直方向の移動には雲のかたちの白くぬられた小さな船のような乗り物が使われた。奇術的な仕掛けも好まれた。登場人物が一瞬で現れたり、姿を消したりする、水がブドウ酒に変わる、観客の目の前でパンがどんどん増えていく、ヨセフの持っている杖に突然花が咲く、彫像が突然倒れる、洪水で舞台上が水浸しなる、火炎が噴き出し、使徒たちに襲い掛かる、地獄で大砲のとどろきと共に稲妻がきらめくなど。
聖史劇の観客が何よりも期待したのは拷問の場面に違いない。拷問の場面にはリアルで生々しい情景を提示する工夫が考案された。セリ機構によって出現する「偽の体」、そして真っ赤に塗られた鞭。真っ赤に塗られた鞭がその身体に振り下ろされるたびに、役者の体が赤く染まっていく。俳優は断頭台に引きずり出され、そこでひざまずく。処刑の瞬間に俳優は人形と迫りの仕掛をつかって入れ替わる。人形の首がごろりと舞台に転がり、舞台は血だまりとなる。
すぐれた仕掛けの考案者、技術者は、聖史劇全体の成否の鍵となる重要な存在であり、時には高額な報酬を支払って遠くから呼び寄せられた。
【05-06】ter《長大な劇形式》閉じられた劇空間 ― 2013/03/21 11:14
【05-06】bis《長大な劇形式》閉じられた劇空間 ― 2013/03/21 03:07
【05-06】《長大な劇形式》閉じられた劇空間 ― 2013/03/21 02:52
時代が下り観客から入場料を取るようになると、興行主はただ見されないように、開放的な町の大広場を離れ、四方を壁に囲われた閉鎖的な空間で次第に聖史劇の公演を行うようになった。市庁舎の中庭が公演会場として選ばれることが多かったが、修道院などの列柱廊に囲まれた方形広場、古代ローマの円形闘技場などで上演されることもあった。
閉鎖された劇場空間で料金を支払った観客が舞台を見ることができるように、個室型客席(ボックス席)と階段席が考案された。木造の観客席の建築には費用がかかるため、観客をできる限り詰め込むことで観劇料金を下げた。舞台と客席の設計は地域、時代、演目よってさまざまだった。複数の舞台美術(慣例的に「マンシオンmansions」と呼ばれる)を水平方向に並べた「並列舞台装置」が聖史劇の標準的な舞台構造であると長らく考えられていたが、1970年代になると、アンリ・レ=フロが複数の舞台が円形状に配置された「円形魔法陣」の舞台で聖史劇が上演されたという仮説を提唱し、従来の「並列舞台装置」仮説を批判した*。この仮説は論議の対象となったが、その後、エリー・コニグソン**をはじめとする何人かの研究者が、フランスでは場所によって、いくつかの舞台形状が用いられたことを明らかにした。観客が並列された複数の舞台装置と向き合うかたちの場合があれば、レ=フロが主張するように円形上に設置された複数の舞台装置が、観客席を取り囲むこともあった。あるいは中央の演技エリアを観客席が取り囲む形状の円形舞台で聖史劇が上演されることもあった。(【図】05-06terに掲載のイラストを参照のこと。http://morgue.asablo.jp/blog/2013/03/21/6754379)
聖史劇上演の様子を描いた図像資料としては、ジャン・フーケの『聖女アポリナの殉教図』(シャンティ、コンデ美術館所蔵)とヴァレンシエンヌの聖史劇の様子を描いたユベール・カイヨーHubert Caillauの写本細密画(パリ フランス国立図書館所蔵)の二枚がよく知られている。ジャン・フーケの絵はレ=フロの円形舞台説の内容とほぼ合致しているが、カイヨーの図像では並列舞台が描かれている。
(【図】ユベール・カイヨー「1476年ヴァレンシエンヌでの受難劇の細密画」 )
カイヨーの描く舞台装置は、左から「天国」、「ナザレの町」、「神殿」、「イェルサレム」、「王宮」、「司教たちの館」、「城門」、「古聖所(リンボ)」、「地獄」を表し、それぞれが独立した異なる場を形成している。カイヨーの舞台図は、あまりに真正面からシンメトリックな構図で書かれているため、上演時の舞台の様子を忠実に表現したものではないと考えられている。
ジャン・フーケの図像では、観客席と演者の待機場となるボックス席が、中央にある演技エリアを取り囲んでいる。フーケ図像では演技は地面の上で行われているがこれは例外的であり、通常は、幅が10メートルから40メートルほどある木製の長方形の舞台が設置された。
(前の記事掲載の図像を参照のこと。ジャン・フーケ『聖女アポリナの殉教図』http://morgue.asablo.jp/blog/2013/03/08/6740964 )
フーケの図像をマンガ風に書き直したアンドレ・ドゥゲーヌのイラストを参照して、その詳細を観察してみよう***。
(【図】については、次の【05-06】bisの記事掲載の図像を参照のこと。http://morgue.asablo.jp/blog/2013/03/21/6754054ドゥゲーヌによる『聖女アポリナの殉教図』のイラスト』)
中央の聖女アポリナの右手で、台本を持ち、指揮棒で指示しているのが、上演の総括監督であり、今日の舞台の演出家にあたる。前方の部分が物語が展開する演技エリアであり、《ウール》hourtないし《シャン》champと呼ばれていた。板に縛り付けられたアポリナは4人の処刑人によって拷問を受けている。中央の右手の処刑人は、アポリナの歯を抜こうとしているように見える。左前方には頭巾を被り、尻をむき出しに下道化の姿が見える。
後方にはボックス席が半円上に並んでいる。ボックスは観客席として用いられるほか、天国や地獄を表す場であったり、楽器演奏者の場所であったり、あるいは役者の待機場所であったりする。上の図では左から、観客席、天国、楽団席、役者の待機場、観客席(貴婦人)、観客席(ブルジョワ)、出入り口を挟んで、地獄という具合に並んでいる。
劇の登場人物は出番になると、自分の待機場であるボックスから前方の演技エリアに降りて来て、そこで芝居を行うのである。後方中央にあるボックスの座席は空席となっているが、そこは皇帝の玉座だったはずだ。そこに座っていたのは、前方の演技エリアで聖女アポリナを指さしているローマ皇帝デキウス(位248-251。伝統的宗教によるローマ帝国再建を目指し、多くのキリスト教徒を迫害したことで知られる)だろう。
空席となった玉座のあるボックスの中には10人ほどの人間が見える。彼らは観客なのかそれとも端役を演じる役者なのか。おそらく彼らは観客でもあり、役者でもあった。皇帝役の役者はおそらく市参事会で重要な役職についていた町の有力者だった。彼は当然、自分が登場する場面を見に来るように友人に声をかけただろう。当時の芝居の舞台衣装は、同時代の人間の着る衣装とほぼ同じものだったため、虚構と現実のあいだの移行は簡単に行われた。劇中の皇帝とその重臣たちのすがたは、そのまま市参事会役人とその友人たちに重なる。
聖史劇では、このように役者は自分の出番が終わると、自分の待機場のボックスへ戻り、他の役者たちの演技を見る観客となった。観客と演技者のボックスの区別は曖昧であり、「天国」や「地獄」のボックスでは、役者たちが芝居も行っていた。当時の文書でも、このボックス席を示す「loge」(観客席)と「echafaud」(舞台)の用語が区別されずに用いられている。
* REY-FLAUD (Henri), Le Cercle magique. Essai sur le théâtre en rond à la fin du Moyen Âge, Paris, Gallimard, 1973.
** KONIGSON (Élie), L’Espace théâtral médiéval, Paris, CNRS, 1975.
*** DEGAINE (André), Histoire du théâtre dessinée, Saint Genouph, A.-G. Nizet, 1992
閉鎖された劇場空間で料金を支払った観客が舞台を見ることができるように、個室型客席(ボックス席)と階段席が考案された。木造の観客席の建築には費用がかかるため、観客をできる限り詰め込むことで観劇料金を下げた。舞台と客席の設計は地域、時代、演目よってさまざまだった。複数の舞台美術(慣例的に「マンシオンmansions」と呼ばれる)を水平方向に並べた「並列舞台装置」が聖史劇の標準的な舞台構造であると長らく考えられていたが、1970年代になると、アンリ・レ=フロが複数の舞台が円形状に配置された「円形魔法陣」の舞台で聖史劇が上演されたという仮説を提唱し、従来の「並列舞台装置」仮説を批判した*。この仮説は論議の対象となったが、その後、エリー・コニグソン**をはじめとする何人かの研究者が、フランスでは場所によって、いくつかの舞台形状が用いられたことを明らかにした。観客が並列された複数の舞台装置と向き合うかたちの場合があれば、レ=フロが主張するように円形上に設置された複数の舞台装置が、観客席を取り囲むこともあった。あるいは中央の演技エリアを観客席が取り囲む形状の円形舞台で聖史劇が上演されることもあった。(【図】05-06terに掲載のイラストを参照のこと。http://morgue.asablo.jp/blog/2013/03/21/6754379)
聖史劇上演の様子を描いた図像資料としては、ジャン・フーケの『聖女アポリナの殉教図』(シャンティ、コンデ美術館所蔵)とヴァレンシエンヌの聖史劇の様子を描いたユベール・カイヨーHubert Caillauの写本細密画(パリ フランス国立図書館所蔵)の二枚がよく知られている。ジャン・フーケの絵はレ=フロの円形舞台説の内容とほぼ合致しているが、カイヨーの図像では並列舞台が描かれている。
(【図】ユベール・カイヨー「1476年ヴァレンシエンヌでの受難劇の細密画」 )
カイヨーの描く舞台装置は、左から「天国」、「ナザレの町」、「神殿」、「イェルサレム」、「王宮」、「司教たちの館」、「城門」、「古聖所(リンボ)」、「地獄」を表し、それぞれが独立した異なる場を形成している。カイヨーの舞台図は、あまりに真正面からシンメトリックな構図で書かれているため、上演時の舞台の様子を忠実に表現したものではないと考えられている。
ジャン・フーケの図像では、観客席と演者の待機場となるボックス席が、中央にある演技エリアを取り囲んでいる。フーケ図像では演技は地面の上で行われているがこれは例外的であり、通常は、幅が10メートルから40メートルほどある木製の長方形の舞台が設置された。
(前の記事掲載の図像を参照のこと。ジャン・フーケ『聖女アポリナの殉教図』http://morgue.asablo.jp/blog/2013/03/08/6740964 )
フーケの図像をマンガ風に書き直したアンドレ・ドゥゲーヌのイラストを参照して、その詳細を観察してみよう***。
(【図】については、次の【05-06】bisの記事掲載の図像を参照のこと。http://morgue.asablo.jp/blog/2013/03/21/6754054ドゥゲーヌによる『聖女アポリナの殉教図』のイラスト』)
中央の聖女アポリナの右手で、台本を持ち、指揮棒で指示しているのが、上演の総括監督であり、今日の舞台の演出家にあたる。前方の部分が物語が展開する演技エリアであり、《ウール》hourtないし《シャン》champと呼ばれていた。板に縛り付けられたアポリナは4人の処刑人によって拷問を受けている。中央の右手の処刑人は、アポリナの歯を抜こうとしているように見える。左前方には頭巾を被り、尻をむき出しに下道化の姿が見える。
後方にはボックス席が半円上に並んでいる。ボックスは観客席として用いられるほか、天国や地獄を表す場であったり、楽器演奏者の場所であったり、あるいは役者の待機場所であったりする。上の図では左から、観客席、天国、楽団席、役者の待機場、観客席(貴婦人)、観客席(ブルジョワ)、出入り口を挟んで、地獄という具合に並んでいる。
劇の登場人物は出番になると、自分の待機場であるボックスから前方の演技エリアに降りて来て、そこで芝居を行うのである。後方中央にあるボックスの座席は空席となっているが、そこは皇帝の玉座だったはずだ。そこに座っていたのは、前方の演技エリアで聖女アポリナを指さしているローマ皇帝デキウス(位248-251。伝統的宗教によるローマ帝国再建を目指し、多くのキリスト教徒を迫害したことで知られる)だろう。
空席となった玉座のあるボックスの中には10人ほどの人間が見える。彼らは観客なのかそれとも端役を演じる役者なのか。おそらく彼らは観客でもあり、役者でもあった。皇帝役の役者はおそらく市参事会で重要な役職についていた町の有力者だった。彼は当然、自分が登場する場面を見に来るように友人に声をかけただろう。当時の芝居の舞台衣装は、同時代の人間の着る衣装とほぼ同じものだったため、虚構と現実のあいだの移行は簡単に行われた。劇中の皇帝とその重臣たちのすがたは、そのまま市参事会役人とその友人たちに重なる。
聖史劇では、このように役者は自分の出番が終わると、自分の待機場のボックスへ戻り、他の役者たちの演技を見る観客となった。観客と演技者のボックスの区別は曖昧であり、「天国」や「地獄」のボックスでは、役者たちが芝居も行っていた。当時の文書でも、このボックス席を示す「loge」(観客席)と「echafaud」(舞台)の用語が区別されずに用いられている。
* REY-FLAUD (Henri), Le Cercle magique. Essai sur le théâtre en rond à la fin du Moyen Âge, Paris, Gallimard, 1973.
** KONIGSON (Élie), L’Espace théâtral médiéval, Paris, CNRS, 1975.
*** DEGAINE (André), Histoire du théâtre dessinée, Saint Genouph, A.-G. Nizet, 1992
【05-05】《長大な劇形式》聖史劇上演のコスト ― 2013/03/08 17:16
聖史劇(あるいは大規模な道徳劇)の上演は、都市の成員全体に関わる集団的な活動ではあったが、あらゆる社会階層の人間が同じ演劇的、宗教的熱狂のなかで共感し合うような民衆演劇のイメージは、中世演劇に付与された神話的幻想に過ぎない。聖史劇にも当時の都市の社会的身分のヒエラルキーが反映されていた。
現存する役者と制作者のリストの調査からは以下のような事実が明らかになっている。聖史劇の制作・上演の核となり、王や皇帝といった高貴で見栄えのする主要な役柄を担当したのは、財力と権力を持つブルジョワの一族といった都市の有力者だった。舞台で使う衣装は役者が自前で用意しなくてはならず、その費用を負担できるだけの経済力が必要とされたのだ。舞台衣裳は、資産家にとって自分の裕福さを誇示する機会であり、互いに贅沢さを競い合った。上演の前日には「お披露目」が行われ、舞台衣装を身につけた役者たちが街中を行進した。このお練りはある種のファッションショーであり、その豪華さで道ゆく人たちを圧倒した。1536年のブールジュBourges(フランス中部の都市)の町で行われたお練りの記録には、何ページにもわたってサテン、金の縁飾り、高価な宝石、ダマスク織の生地、ビロードなどで作った衣装が列挙されており、物乞い役の役者でさえ絹の衣装を身につけていたとある。ブールジュは例外的に豪華だったわけではない。フランス北部の都市、ヴァランシエンヌの歴史家、ルイ・ウィカールLouis Wicart は1547年に行われた聖史劇上演の興行主の一人だった。彼は舞台衣装について次のような証言を残している。「役者たちは絹やビロード、さらには金糸の織物で作られた服装を身につけていた。それまでこの町では誰も作ったことも、見たことのないような非常に豪華で金のかかった着物だった」。
同業者組合でもあった信心会組織が主催する聖史劇の上演もあった。都市の有力者が主催する大規模な聖史劇はキリストの受難を扱った受難劇Passionが多かったが、こうした信心会組織による聖史劇は、それぞれの組織の守護者の聖人を題材とする比較的小規模な作品が多く、出演者の社会的階層も高くなかった。1402年に国王シャルル六世から首都での聖史劇の独占的上演権を獲得したパリ受難劇協会のメンバーは、中層あるいは下層の町人だった。パリ高等法院の検察官は、この上演組織のメンバーは「指物師、下級役人、絨毯織師、魚売りといった卑しい身分の者たち」からなっていたと記している(1541年)。
しかし、こうした比較的小規模な聖史劇の上演においても都市の社会的秩序は尊重された。ジャン・フーケのあの有名な細密画(『聖女アポリナの殉教図』)を今一度注意深く見てみよう。ここで上演されている聖史劇は大規模で豪奢なものではない。上層のボックス席は、町の名士やブルジョワといった金のある観客のための座席だ。一般民衆の観客は、平土間で立ったまま、あるいは地ベタに座って芝居を観ている。どの聖史劇でも観客席はこのような二つのカテゴリーに分かれていた。比較的安い値段の平土間席では、上演の回毎に入場料を支払う必要があった。一方、高価なボックス席は、上演期間のあいだ、ずっと貸し切りとなった。
演劇公演で入場料を観客から取るようになったのは、この時代からである。当時の物価を考慮すると、入場料の設定はずしも高額であったとは言えない。ロマンでの聖史劇上演では、平土間席の値段は当時の土木工や石工の日当の15から20パーセントほどだった。仮に日当を1万円と考えると、1500円から2000円ということになる。それほど無理をしなくても支出可能な金額であるように思える。おそらく裕福ではない庶民は、通常上演期間が数日間におよぶ聖史劇を通しで全てみたわけではなく、見せ場となる場面だけを見たのだろう。会計簿の記録からは、受難劇上演ではイエスの磔の場面が上演される日が、最も多くの観客を集めていたことがわかる。裕福なブルジョワの観客はボックス席を借り切って、上演期間は毎日芝居を見に通ったのだろう。ボックス席は通常三人から六人の定員で、一人あたりの料金は平土間席の2、3倍高額だった。付近の都市の住民たちが大量に見物にやってきて入場料が高騰することもあった。
現存する役者と制作者のリストの調査からは以下のような事実が明らかになっている。聖史劇の制作・上演の核となり、王や皇帝といった高貴で見栄えのする主要な役柄を担当したのは、財力と権力を持つブルジョワの一族といった都市の有力者だった。舞台で使う衣装は役者が自前で用意しなくてはならず、その費用を負担できるだけの経済力が必要とされたのだ。舞台衣裳は、資産家にとって自分の裕福さを誇示する機会であり、互いに贅沢さを競い合った。上演の前日には「お披露目」が行われ、舞台衣装を身につけた役者たちが街中を行進した。このお練りはある種のファッションショーであり、その豪華さで道ゆく人たちを圧倒した。1536年のブールジュBourges(フランス中部の都市)の町で行われたお練りの記録には、何ページにもわたってサテン、金の縁飾り、高価な宝石、ダマスク織の生地、ビロードなどで作った衣装が列挙されており、物乞い役の役者でさえ絹の衣装を身につけていたとある。ブールジュは例外的に豪華だったわけではない。フランス北部の都市、ヴァランシエンヌの歴史家、ルイ・ウィカールLouis Wicart は1547年に行われた聖史劇上演の興行主の一人だった。彼は舞台衣装について次のような証言を残している。「役者たちは絹やビロード、さらには金糸の織物で作られた服装を身につけていた。それまでこの町では誰も作ったことも、見たことのないような非常に豪華で金のかかった着物だった」。
同業者組合でもあった信心会組織が主催する聖史劇の上演もあった。都市の有力者が主催する大規模な聖史劇はキリストの受難を扱った受難劇Passionが多かったが、こうした信心会組織による聖史劇は、それぞれの組織の守護者の聖人を題材とする比較的小規模な作品が多く、出演者の社会的階層も高くなかった。1402年に国王シャルル六世から首都での聖史劇の独占的上演権を獲得したパリ受難劇協会のメンバーは、中層あるいは下層の町人だった。パリ高等法院の検察官は、この上演組織のメンバーは「指物師、下級役人、絨毯織師、魚売りといった卑しい身分の者たち」からなっていたと記している(1541年)。
しかし、こうした比較的小規模な聖史劇の上演においても都市の社会的秩序は尊重された。ジャン・フーケのあの有名な細密画(『聖女アポリナの殉教図』)を今一度注意深く見てみよう。ここで上演されている聖史劇は大規模で豪奢なものではない。上層のボックス席は、町の名士やブルジョワといった金のある観客のための座席だ。一般民衆の観客は、平土間で立ったまま、あるいは地ベタに座って芝居を観ている。どの聖史劇でも観客席はこのような二つのカテゴリーに分かれていた。比較的安い値段の平土間席では、上演の回毎に入場料を支払う必要があった。一方、高価なボックス席は、上演期間のあいだ、ずっと貸し切りとなった。
演劇公演で入場料を観客から取るようになったのは、この時代からである。当時の物価を考慮すると、入場料の設定はずしも高額であったとは言えない。ロマンでの聖史劇上演では、平土間席の値段は当時の土木工や石工の日当の15から20パーセントほどだった。仮に日当を1万円と考えると、1500円から2000円ということになる。それほど無理をしなくても支出可能な金額であるように思える。おそらく裕福ではない庶民は、通常上演期間が数日間におよぶ聖史劇を通しで全てみたわけではなく、見せ場となる場面だけを見たのだろう。会計簿の記録からは、受難劇上演ではイエスの磔の場面が上演される日が、最も多くの観客を集めていたことがわかる。裕福なブルジョワの観客はボックス席を借り切って、上演期間は毎日芝居を見に通ったのだろう。ボックス席は通常三人から六人の定員で、一人あたりの料金は平土間席の2、3倍高額だった。付近の都市の住民たちが大量に見物にやってきて入場料が高騰することもあった。
【05-04】《長大な劇形式》嗜虐的スペクタクルの聖性 ― 2013/01/09 18:54
聖史劇および道徳劇で提示される世界は、至高の君主である神と悪魔の長であるサタンが対立軸となる善悪二元論の世界である。サタンによって地上に送り出された悪魔や擬人化された様々な悪徳は、邪悪な助言をささやいて人間たちを罪に陥れようと誘惑する。
悪魔の登場場面、拷問、居酒屋での喧噪の様子の描写は、聖史劇のなかでかなり大きな比重を占め、長大な作品の息抜きとなる悪趣味な幕間寸劇とは言えない。グレバンの受難劇では、拷問の場面は7000行に達し、これは十七世紀の古典主義悲劇の約三本分の長さに相当する。拷問吏だけでなく、悪魔たち、地獄の亡者たちも舞台上で拷問を行った。こうした悪役は一流どころの役者たちによって演じられていた。暴力的な虐待、酩酊的狂騒ぶり、そして卑俗な冗談に興じるこれらの役柄には、バフチン的意味における民衆性、肉体性が具現されている。作品のなかでは「暴君」tyranと呼ばれることもある彼らは、人間の邪悪な側面を表象し、来世と対立する俗世を露悪的なかたちで象徴する存在なのである。
「暴君」たちが嬉々として行う惨たらしい拷問の場面は、当時の観客を大いに魅了したことは間違いない。この場面の表現には、せり機構を使って人間の役者と瞬時に入れ替わる血が噴き出す人形の趣向など、凝った演出上の仕掛けも用いられている。演劇において悪の場面は、常に優れて見世物的であり、観客を興奮させるものだ。聖史劇・道徳劇もまたその例外ではない。悪魔や死刑執行人といった人物は、残虐さと滑稽さを併せ持つ花形の道化役だった。道徳劇では、擬人化された悪徳が登場する場面は美徳の描写よりも生き生きとした精彩を帯びる。
こうした悪が活躍する場面は、聖史劇や道徳劇の教化劇としての役割と相反するものではない。キリスト教の道徳は、罪悪の魅力的な側面とその誘いの強さを否定することは決してなかった。観客は後ろめたさを感じつつも、悪趣味で残虐な場面を存分に楽しみ、そしてそのすぐ後で、不道徳な場面を見て喜びを感じたことに対し改悛の情を示すのである。このような感情の行き来を観客に生じさせることで、聖史劇は観客を教導していく。残虐な拷問を見世物として楽しむとき、観客は無慈悲で浅ましい拷問吏の共犯者となる。この拷問吏は道化師として観客を笑わせなくてはならない。それは観客が後で我に返ったとき、自分が笑ったことを後悔するように仕向ける必要があるからである。殉教の苦しみのなかで苦悶の表情を浮かべていた人間の肉体が、全能である神の奇跡によって聖者の身体へ変わり、輝きを放つとき、拷問の場面で加虐の背徳的な快感を「暴君」とともに享受していたのと同じ観客が、厳粛で敬虔な面持ちで、登場人物たちとともに神への賛歌《Te deum laudamus 神であるあなたを私たちは讃えます》を歌い始める。賛嘆、残酷さ、憐憫、喜び、苦悩、恐怖、卑俗さ、熱狂。観客の情動に激しい揺さぶりをかけることで、聖史劇・道徳劇のスペクタクルは、観客の理性ではなく、本能と感性に強烈に作用する。
聖史劇・道徳劇は作品の長大さのみならず、観客の数の面でも大規模の演劇であったことも忘れてはならない。フランス東部の町、オータンで1516年に上演された聖史劇は8万人の観客を集めたという。フランス南東部の町ロマンでは1509年の6公演が行われ、それぞれの公演で1800名の観客が集まった。総数では観客動員は1万人を超える。フランス北部の町、ヴァランシエンヌでは、1547年に25回の公演が行われ、それぞれに公演で5500人以上の観客が集まった。総数では13万人を越える観客動員があったことにある。21世紀の今、ロマンやヴァランシエンヌといった地方都市で、これほど大勢の観客を集めることのできる演劇は果たしてあるだろうか?
悪魔の登場場面、拷問、居酒屋での喧噪の様子の描写は、聖史劇のなかでかなり大きな比重を占め、長大な作品の息抜きとなる悪趣味な幕間寸劇とは言えない。グレバンの受難劇では、拷問の場面は7000行に達し、これは十七世紀の古典主義悲劇の約三本分の長さに相当する。拷問吏だけでなく、悪魔たち、地獄の亡者たちも舞台上で拷問を行った。こうした悪役は一流どころの役者たちによって演じられていた。暴力的な虐待、酩酊的狂騒ぶり、そして卑俗な冗談に興じるこれらの役柄には、バフチン的意味における民衆性、肉体性が具現されている。作品のなかでは「暴君」tyranと呼ばれることもある彼らは、人間の邪悪な側面を表象し、来世と対立する俗世を露悪的なかたちで象徴する存在なのである。
「暴君」たちが嬉々として行う惨たらしい拷問の場面は、当時の観客を大いに魅了したことは間違いない。この場面の表現には、せり機構を使って人間の役者と瞬時に入れ替わる血が噴き出す人形の趣向など、凝った演出上の仕掛けも用いられている。演劇において悪の場面は、常に優れて見世物的であり、観客を興奮させるものだ。聖史劇・道徳劇もまたその例外ではない。悪魔や死刑執行人といった人物は、残虐さと滑稽さを併せ持つ花形の道化役だった。道徳劇では、擬人化された悪徳が登場する場面は美徳の描写よりも生き生きとした精彩を帯びる。
こうした悪が活躍する場面は、聖史劇や道徳劇の教化劇としての役割と相反するものではない。キリスト教の道徳は、罪悪の魅力的な側面とその誘いの強さを否定することは決してなかった。観客は後ろめたさを感じつつも、悪趣味で残虐な場面を存分に楽しみ、そしてそのすぐ後で、不道徳な場面を見て喜びを感じたことに対し改悛の情を示すのである。このような感情の行き来を観客に生じさせることで、聖史劇は観客を教導していく。残虐な拷問を見世物として楽しむとき、観客は無慈悲で浅ましい拷問吏の共犯者となる。この拷問吏は道化師として観客を笑わせなくてはならない。それは観客が後で我に返ったとき、自分が笑ったことを後悔するように仕向ける必要があるからである。殉教の苦しみのなかで苦悶の表情を浮かべていた人間の肉体が、全能である神の奇跡によって聖者の身体へ変わり、輝きを放つとき、拷問の場面で加虐の背徳的な快感を「暴君」とともに享受していたのと同じ観客が、厳粛で敬虔な面持ちで、登場人物たちとともに神への賛歌《Te deum laudamus 神であるあなたを私たちは讃えます》を歌い始める。賛嘆、残酷さ、憐憫、喜び、苦悩、恐怖、卑俗さ、熱狂。観客の情動に激しい揺さぶりをかけることで、聖史劇・道徳劇のスペクタクルは、観客の理性ではなく、本能と感性に強烈に作用する。
聖史劇・道徳劇は作品の長大さのみならず、観客の数の面でも大規模の演劇であったことも忘れてはならない。フランス東部の町、オータンで1516年に上演された聖史劇は8万人の観客を集めたという。フランス南東部の町ロマンでは1509年の6公演が行われ、それぞれの公演で1800名の観客が集まった。総数では観客動員は1万人を超える。フランス北部の町、ヴァランシエンヌでは、1547年に25回の公演が行われ、それぞれに公演で5500人以上の観客が集まった。総数では13万人を越える観客動員があったことにある。21世紀の今、ロマンやヴァランシエンヌといった地方都市で、これほど大勢の観客を集めることのできる演劇は果たしてあるだろうか?
【05-03】《長大な劇形式》作品巨大化の要因 ― 2013/01/05 00:54
聖史劇、そして道徳劇という巨大な演劇作品の上演は、都市にとって例外的な規模の大祝祭であり、稀にしか行われなかった。記録から欠落しているものはあるだろうが、1400年から1535年にあいだにドフィネ地方(フランス南東部)全体で上演された聖史劇と道徳劇の総数は三十ほどであり、平均すると十年に二作品が上演されたことになる。一人の人間が生涯の間に、大規模な演劇公演に立ち会うことのできる機会はそれほど多くはなかった。大押韻派の詩人、ジャン・ブシェ Jean Bouchet(1476-1550頃)は、ポワティエで1486年、1508年、そして1534年に受難劇の公演に立ち会った。三回目の公演のとき、彼は六十才だった。「私は生涯に三回の聖史劇の公演を観ることができた。自分の年齢を考えると、これは満足すべきことだ」とこの詩人は書き記している。
聖史劇はどのような機会に上演されたのだろうか? これは都市によってさまざまだった。フランス南東部の都市、ヴァランスでは25年毎にフェリクス、フォルトゥナ、アシレという三人の殉教聖人を題材にした作品を上演する習わしがあった。グルノーブルの南西、イゼール川沿いの都市、ロマンでの1509年の聖史劇上演は、ペストの災厄を逃れたことを神に感謝するために行われた。近隣の都市への競争意識が聖史劇上演のきっかけとなることもあった。例えば1500年ごろ、ドゥラン[アミアン北方の町]、アミアン[北フランス、ピカルディ地方の中心都市]、モンス[ベルギー南西部、エノー地方の町]で相次いで聖史劇の上演が行われた。また1534年から1536年のあいだには、ポワティエ[中仏、ポワトゥ地方の中心都市]、ソミュール[フランス西部、ロワール側沿いの町]、イスダン[中仏、ベリー地方の町]、さらにはブルージュ[ベリー地方の中心都市]で聖史劇の上演が行われた。
中世後期の都市生活における一大行事である聖史劇の上演は、観客である都市住民の啓発するための重要な機会でもあった。優れて教訓的ジャンルである聖史劇と道徳劇は、いずれも信仰に関わる問題を扱い、観客の魂を救済へと導くことがその重要な目的だ。それゆえ浄福と劫罰がこの二つのジャンルの大きな関心事となる。
しかし浄福と劫罰に関わる題材は実に幅広い領域にわたる。聖史劇の作者たちは、作品のなかであらゆる事象を語ることを目指した。ベルナール・フェーヴルは、当時の作者と観客たちにみられる完全な記述への志向に、聖史劇や道徳劇が徐々に長大化していった要因を見出そうとしている*。劇中で余すところなく事件を伝え、より詳しく説明するために、聖史劇の記述は次第に膨大なものになっていった。説教、拷問、奇跡のディテイルが、時代を下るにつれ書き加えられていく。劇中で展開する事件の筋書きをあらかじめ熟知している観客たちにとって、省略は欠落とみなされ、不評を招きかねなかったのである。
道徳劇では、徳を備えた魂が救済へと進み、罪深き魂が劫罰へと向かう道のりが、細々と描写された。聖史劇はキリストと守護聖人の生涯に関わる些末な事柄まで舞台にのせようとした。劇の結末は観客にとっては周知の事柄だった。作者はそれゆえ、これまでの作品で取り上げられることのなかった新しい主題の開拓ではなく、既によく知られている主題をより巧みに、すなわち先行する作品より詳細に、完全なかたちで表現することを目指した。グレバンの『受難劇』を、ジャン・ミシェルが書き換えたやり方にこうした発想を見て取ることができる。ジャン・ミシェルは改作にあたって、グレバンの書いた長台詞を保持したまま、さらにその上に長台詞を付加していった。こうした付加によってテクストはさらに完全なものに近づいていくのである。道徳劇では、寓意(アレゴリー)による擬人化をよりいっそう分析的に行うことによって、人間の魂の動きをより精緻に描写する作劇術を発展させていった。『罪深き人間 L'Homme pécheur』のなかで、痛悔の祈りの意義は「自分の罪を告白する恥ずかしさ」と「改悛を行うことへの恐れ」という二人の擬人化されたアレゴリーによって明らかにされる。このようにあらゆるディテイルが演劇化されていった。
十五、六世紀のフランスでは、歴史的・教訓的逸話が詰め込まれた巨大な百科事典的著作が流行したが、聖史劇と道徳劇は、演劇の領域のなかでキリスト教の浄福と劫罰に関わる事柄を総体として表現し、関係する知の集大成となることを目指したのである。聖史劇の舞台では、「天国─現世─地獄」の全てを包括する宇宙が具現化されている。その上演にかかる長さは、誕生から死までの、世界の創造から最後の審判まで長さの象徴となっている。善悪のあいだで永遠に繰り返される闘争がドラマの核となり、その闘争の描写は道徳劇では、ひとりの人間の内面で展開し、聖史劇ではときに世界全体のスケールにまで広がる。
Bernard Faivre, « La Piété et la Fête », dir. Jacqueline de Jomaron, Le Théâtre en France, Paris, Armand Colin, p. 86.
聖史劇はどのような機会に上演されたのだろうか? これは都市によってさまざまだった。フランス南東部の都市、ヴァランスでは25年毎にフェリクス、フォルトゥナ、アシレという三人の殉教聖人を題材にした作品を上演する習わしがあった。グルノーブルの南西、イゼール川沿いの都市、ロマンでの1509年の聖史劇上演は、ペストの災厄を逃れたことを神に感謝するために行われた。近隣の都市への競争意識が聖史劇上演のきっかけとなることもあった。例えば1500年ごろ、ドゥラン[アミアン北方の町]、アミアン[北フランス、ピカルディ地方の中心都市]、モンス[ベルギー南西部、エノー地方の町]で相次いで聖史劇の上演が行われた。また1534年から1536年のあいだには、ポワティエ[中仏、ポワトゥ地方の中心都市]、ソミュール[フランス西部、ロワール側沿いの町]、イスダン[中仏、ベリー地方の町]、さらにはブルージュ[ベリー地方の中心都市]で聖史劇の上演が行われた。
中世後期の都市生活における一大行事である聖史劇の上演は、観客である都市住民の啓発するための重要な機会でもあった。優れて教訓的ジャンルである聖史劇と道徳劇は、いずれも信仰に関わる問題を扱い、観客の魂を救済へと導くことがその重要な目的だ。それゆえ浄福と劫罰がこの二つのジャンルの大きな関心事となる。
しかし浄福と劫罰に関わる題材は実に幅広い領域にわたる。聖史劇の作者たちは、作品のなかであらゆる事象を語ることを目指した。ベルナール・フェーヴルは、当時の作者と観客たちにみられる完全な記述への志向に、聖史劇や道徳劇が徐々に長大化していった要因を見出そうとしている*。劇中で余すところなく事件を伝え、より詳しく説明するために、聖史劇の記述は次第に膨大なものになっていった。説教、拷問、奇跡のディテイルが、時代を下るにつれ書き加えられていく。劇中で展開する事件の筋書きをあらかじめ熟知している観客たちにとって、省略は欠落とみなされ、不評を招きかねなかったのである。
道徳劇では、徳を備えた魂が救済へと進み、罪深き魂が劫罰へと向かう道のりが、細々と描写された。聖史劇はキリストと守護聖人の生涯に関わる些末な事柄まで舞台にのせようとした。劇の結末は観客にとっては周知の事柄だった。作者はそれゆえ、これまでの作品で取り上げられることのなかった新しい主題の開拓ではなく、既によく知られている主題をより巧みに、すなわち先行する作品より詳細に、完全なかたちで表現することを目指した。グレバンの『受難劇』を、ジャン・ミシェルが書き換えたやり方にこうした発想を見て取ることができる。ジャン・ミシェルは改作にあたって、グレバンの書いた長台詞を保持したまま、さらにその上に長台詞を付加していった。こうした付加によってテクストはさらに完全なものに近づいていくのである。道徳劇では、寓意(アレゴリー)による擬人化をよりいっそう分析的に行うことによって、人間の魂の動きをより精緻に描写する作劇術を発展させていった。『罪深き人間 L'Homme pécheur』のなかで、痛悔の祈りの意義は「自分の罪を告白する恥ずかしさ」と「改悛を行うことへの恐れ」という二人の擬人化されたアレゴリーによって明らかにされる。このようにあらゆるディテイルが演劇化されていった。
十五、六世紀のフランスでは、歴史的・教訓的逸話が詰め込まれた巨大な百科事典的著作が流行したが、聖史劇と道徳劇は、演劇の領域のなかでキリスト教の浄福と劫罰に関わる事柄を総体として表現し、関係する知の集大成となることを目指したのである。聖史劇の舞台では、「天国─現世─地獄」の全てを包括する宇宙が具現化されている。その上演にかかる長さは、誕生から死までの、世界の創造から最後の審判まで長さの象徴となっている。善悪のあいだで永遠に繰り返される闘争がドラマの核となり、その闘争の描写は道徳劇では、ひとりの人間の内面で展開し、聖史劇ではときに世界全体のスケールにまで広がる。
Bernard Faivre, « La Piété et la Fête », dir. Jacqueline de Jomaron, Le Théâtre en France, Paris, Armand Colin, p. 86.
【05-02】《長大な劇形式》膨張するテクスト ― 2012/12/30 12:05
1500行を超える長さの『パトラン先生』、『8人の登場人物によるソティ』は例外として、ファルスとソティは、8音節詩行でおおむね300行から600行ぐらいの長さである。これに対し聖史劇(ミステール)と寓意道徳劇(モラリテ)には1万行を超える長さの作品がある。聖史劇で最長の作品は、シモン・グレバン Simon Grébanの『使徒行伝の聖史劇 Mystère des Actes des apôtres』で6万2千行、寓意道徳劇ではシモン・ブルゴワン Simon Bourgoinの『正しい人と俗世の人 L’homme juste et l’homme mondain』が3万行の長さである。作品の長大さはこの二つのジャンルの特徴だが、初期の段階からこのように長大であったわけでなく、時代が下るにつれ徐々に長くなっていったのである。
この点で受難聖史劇 Mystère de la Passion(聖史劇のなかでもイエスの受難を題材とする作品)の発展はきわめて特徴的である。現存する最初の受難劇である『パラティヌス受難劇 Passion Palatinus』(14世紀前半)は2000行ほどの長さである。サント=ジュニヴィエーヴ写本に記録された14世紀中頃の受難劇の長さは、4500行ほどだった。1430年頃に書かれたユスタシュ・メルカデ Eustache Mercadé(マルカデとも呼ばれる)の『アラスの受難劇』が長大化の口火を切る。『アラスの受難劇 Passion d’Arras』は2万5千行で、4つの部分に分割される。近代劇では「幕(acte)」と呼ばれるこの分割を、聖史劇では「日(ジュルネ journée)」と呼ぶ。
『受難劇』の作者として名高いアルヌル・グレバン Arnoul Grébanは、1450年に3万4500行の長さの『受難劇 Passion』を書いた。1486年にはグレバンの『受難劇』の第2日と第3日あたる部分(イエスの洗礼から埋葬の場面)を1486年にジャン・ミシェル Jean Michelが改訂し、この箇所だけを3万行に拡大して上演した。そして十六世紀のはじめに、グレバンとミシェルのテクストを合成した6万5千行に達する巨大な集成版が作成された。その後、この修正版『受難聖史劇』を土台とした改作版がいくつか作られた。
こうした長大の規模の受難聖史劇の上演には、数日間、場合によっては数週間が必要とされた。1547年のヴァレンシエンヌでの受難聖史劇の上演には25日間が必要であったし、1536年のブルージュでは40日間にわたって上演が続いた。パリでは上演が日曜と祭日に限られていたため、1541年の上演期間は、6、7か月に及んだ。受難聖史劇ほどではないとはいえ、聖人の事績を題材とする聖史劇も長大な作品が多かった。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュAndré de La Vigneの『聖マルタンの聖史劇 Mystère de Saint Martin』は1万行の長さ、ジャン・モリネ Jean Molinetの『聖カンタンの聖史劇 Mystère de Saint Quentin』では2万4000行に達した。聖史劇のなかには、宗教的題材を扱っていない作品もあった。ジャック・ミレ Jacques Milletの『トロイヤの破壊の物語 Histoire de la destruction de Troie』は3万行の作品で、フランスの諸王の祖先と当時見なされていたトロイヤ人の栄誉が称えられている。この作品は大きな成功を収め、多数の手写本と刊本が存在する。
15世紀後半以降、演劇作品の刊本が数多く出版されるようになった。これはこの時代、演劇が読書の対象にもなったことを示している。読書は単独で行われることもあれば、集団で行われることもあった。1507年に上演された『宴会の断罪』La Condamnation de Banquetというタイトルの寓意道徳劇の作者であるニコラ・ド・ラ・シェネ Nicolas de La Chesnayeは、作品のプロローグで次のように述べている。
「我々が芝居(ジュ jeux)、 あるいは寓意道徳劇(モラリテ)と呼ぶ作品を、人々の前で上演することは必ずしも簡単ではない。そしてまた、作品の上演を見るだけでなく、この作品を所有して、作品が読まれるのを聞きたいと考える人は多い。私は拙作が、役者の動作と言葉によって舞台上で上演されることを望むと同時に、これとは別の手段によって、すなわち拙作が勉学、娯楽、あるいは研究のために、個人によって読まれることも望んだのだ」
もちろん活版印刷術が戯曲の出版が後押したのである。十五世紀末になると受難聖史劇の刊本は一気に増大したが、こうした刊本戯曲の多くは、上演用の台本ではなく、読書のためのテキストだった。しかし活版印刷術の時代になっても、稽古で使用する台本については、手稿本が引き続き用いられた。中世演劇研究者のギュスターヴ・コエンの校訂による『受難聖史劇の公演監督のための手引き*』は、モンの町がアミアンの町から譲り受けた上演のための手引き書であり、1501年の上演の際に使用された。この手稿本に記録されている台本には、全篇にわたって話者交代の際の目印となる各台詞の最初と最後の行しか書かれていない。しかしその一方でこの手稿本には、舞台上の役者の動きや演技についての指示、音楽の導入など、極めて詳細なト書きが記されている。重要な演出に関わる指示は、このように手書きの写本に詳しく記述され、上演される各都市で参照されていたのである。上演用の手稿本は、信心会組織や都市の財産であり、次の上演まで保管された。戯曲の刊行と公演の成功には相関関係があった。刊行された戯曲には、公演で成功した旨が記されている。例えばジャン・ミシェルの『受難劇』の最初の刊本には、「この聖史劇は1486年8月末にアンジェ[ブルターニュ地方の内陸の町]で上演され、大きな成功を収めた」と記載されている。最初の刊本の出版後にこの作品はパリでも上演された。するとパリ上演後の刊本は、パリでの上演について言及している。
受難聖史劇や寓意道徳劇の長大さは、われわれにとってはひどく冗漫に思えるのだが、これらの戯曲はすべて上演されるために書かれた作品であり、そして実際に上演されていた。活版印刷の時代になり、演劇作品が読まれるようになったといっても、こうしたテクストは町の広場の多数の聴衆を前に読まれることが多かったのである。
*Gustave Cohen, Le Livre de conduite du régisseur et le compte des dépenses pour le Mystère de la Passion joué à Mons en 1501, Strasbourg, Istra, 1925.
この点で受難聖史劇 Mystère de la Passion(聖史劇のなかでもイエスの受難を題材とする作品)の発展はきわめて特徴的である。現存する最初の受難劇である『パラティヌス受難劇 Passion Palatinus』(14世紀前半)は2000行ほどの長さである。サント=ジュニヴィエーヴ写本に記録された14世紀中頃の受難劇の長さは、4500行ほどだった。1430年頃に書かれたユスタシュ・メルカデ Eustache Mercadé(マルカデとも呼ばれる)の『アラスの受難劇』が長大化の口火を切る。『アラスの受難劇 Passion d’Arras』は2万5千行で、4つの部分に分割される。近代劇では「幕(acte)」と呼ばれるこの分割を、聖史劇では「日(ジュルネ journée)」と呼ぶ。
『受難劇』の作者として名高いアルヌル・グレバン Arnoul Grébanは、1450年に3万4500行の長さの『受難劇 Passion』を書いた。1486年にはグレバンの『受難劇』の第2日と第3日あたる部分(イエスの洗礼から埋葬の場面)を1486年にジャン・ミシェル Jean Michelが改訂し、この箇所だけを3万行に拡大して上演した。そして十六世紀のはじめに、グレバンとミシェルのテクストを合成した6万5千行に達する巨大な集成版が作成された。その後、この修正版『受難聖史劇』を土台とした改作版がいくつか作られた。
こうした長大の規模の受難聖史劇の上演には、数日間、場合によっては数週間が必要とされた。1547年のヴァレンシエンヌでの受難聖史劇の上演には25日間が必要であったし、1536年のブルージュでは40日間にわたって上演が続いた。パリでは上演が日曜と祭日に限られていたため、1541年の上演期間は、6、7か月に及んだ。受難聖史劇ほどではないとはいえ、聖人の事績を題材とする聖史劇も長大な作品が多かった。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュAndré de La Vigneの『聖マルタンの聖史劇 Mystère de Saint Martin』は1万行の長さ、ジャン・モリネ Jean Molinetの『聖カンタンの聖史劇 Mystère de Saint Quentin』では2万4000行に達した。聖史劇のなかには、宗教的題材を扱っていない作品もあった。ジャック・ミレ Jacques Milletの『トロイヤの破壊の物語 Histoire de la destruction de Troie』は3万行の作品で、フランスの諸王の祖先と当時見なされていたトロイヤ人の栄誉が称えられている。この作品は大きな成功を収め、多数の手写本と刊本が存在する。
15世紀後半以降、演劇作品の刊本が数多く出版されるようになった。これはこの時代、演劇が読書の対象にもなったことを示している。読書は単独で行われることもあれば、集団で行われることもあった。1507年に上演された『宴会の断罪』La Condamnation de Banquetというタイトルの寓意道徳劇の作者であるニコラ・ド・ラ・シェネ Nicolas de La Chesnayeは、作品のプロローグで次のように述べている。
「我々が芝居(ジュ jeux)、 あるいは寓意道徳劇(モラリテ)と呼ぶ作品を、人々の前で上演することは必ずしも簡単ではない。そしてまた、作品の上演を見るだけでなく、この作品を所有して、作品が読まれるのを聞きたいと考える人は多い。私は拙作が、役者の動作と言葉によって舞台上で上演されることを望むと同時に、これとは別の手段によって、すなわち拙作が勉学、娯楽、あるいは研究のために、個人によって読まれることも望んだのだ」
もちろん活版印刷術が戯曲の出版が後押したのである。十五世紀末になると受難聖史劇の刊本は一気に増大したが、こうした刊本戯曲の多くは、上演用の台本ではなく、読書のためのテキストだった。しかし活版印刷術の時代になっても、稽古で使用する台本については、手稿本が引き続き用いられた。中世演劇研究者のギュスターヴ・コエンの校訂による『受難聖史劇の公演監督のための手引き*』は、モンの町がアミアンの町から譲り受けた上演のための手引き書であり、1501年の上演の際に使用された。この手稿本に記録されている台本には、全篇にわたって話者交代の際の目印となる各台詞の最初と最後の行しか書かれていない。しかしその一方でこの手稿本には、舞台上の役者の動きや演技についての指示、音楽の導入など、極めて詳細なト書きが記されている。重要な演出に関わる指示は、このように手書きの写本に詳しく記述され、上演される各都市で参照されていたのである。上演用の手稿本は、信心会組織や都市の財産であり、次の上演まで保管された。戯曲の刊行と公演の成功には相関関係があった。刊行された戯曲には、公演で成功した旨が記されている。例えばジャン・ミシェルの『受難劇』の最初の刊本には、「この聖史劇は1486年8月末にアンジェ[ブルターニュ地方の内陸の町]で上演され、大きな成功を収めた」と記載されている。最初の刊本の出版後にこの作品はパリでも上演された。するとパリ上演後の刊本は、パリでの上演について言及している。
受難聖史劇や寓意道徳劇の長大さは、われわれにとってはひどく冗漫に思えるのだが、これらの戯曲はすべて上演されるために書かれた作品であり、そして実際に上演されていた。活版印刷の時代になり、演劇作品が読まれるようになったといっても、こうしたテクストは町の広場の多数の聴衆を前に読まれることが多かったのである。
*Gustave Cohen, Le Livre de conduite du régisseur et le compte des dépenses pour le Mystère de la Passion joué à Mons en 1501, Strasbourg, Istra, 1925.
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