【03-02十三世紀都市の演劇】社会の鏡としての演劇(『葉陰の劇』と『聖ニコラの劇』)2011/12/08 14:35

現存するアダン・ド・ラ・アルの二つの演劇作品のうちの一つである『葉陰の劇』には、アラスの大ブルジョワへの批判や風刺、皮肉がふんだんに盛り込まれているが、これを作者の社会的身分と関連づけ、この作品の反=都市貴族階級の側面を過大に見積もらないように注意しなくてはならない。『葉陰の劇』では幾人かの大ブルジョワたちの吝嗇ぶりが名指しで辛らつに批判されているが、作品で言及されていない別の大ブルジョワの一族が観客にいて、劇中のそうした場面で自分のライバルが批判されるのを満足げに眺めていた可能性もあるのだから。

もっとも『葉陰の劇』のなかに見られる現実社会の反映は、それまでの演劇には見られないものであることは確かである。作者はアラスの都市内部の対立に大胆に言及し、幾人かの人間を手厳しく批判する一方で、別の人間についてはその風刺にかなり手加減を加えている。『葉陰の劇』では、アダン・ド・ラ・アルの批判の矛先は都市の大ブルジョワたちにとどまらない。この頃、聖職者の免税特権の一部を廃止した教皇も批判の対象となっている。さらに大ブルジョワとして権勢をふるっていたクレスパン家とルシャール家の後ろ盾となっていたアラスの封建領主、アルトワ伯もまた、間接的にではあるが、批判されている。このような個人を名指しした直接的な風刺を行っている点で、『葉陰の劇』は十五世紀の阿呆劇(ソティ)の先駆けとなっている。

また阿呆劇と同じように、『葉陰の劇』の内容は、キリスト教よりはむしろ異教に由来する祝祭と強く結びついている。おそらくこの作品はペンテコステの祝日の前後に上演された。『葉陰の劇』には、年に一度、妖精たちが町の広場に到来する夜の出来事が記されている。この劇の中盤では、アラスの広場に到来した異教的な存在である妖精たちによる幻想的驚異が展開する。この妖精たちの口を借りて、通常ならまず許されないような辛辣な批判や自由な言説が繰り広げられる。『葉陰の劇』はおそらく、何回も再演されることを想定して作られた作品ではなく、一回きりの上演のために書かれた作品だった。再演が仮にあったとしても、再演の場では現実を写し取ったこのような作品の風刺の多くは効力を失い、理解されなくなってしまっていただろう。本来ならばこの種の作品は記録されることなく忘れ去られてしまったに違いない。『葉陰の劇』はアダン・ド・ラ・アルという、演劇のみならず多くのジャンルに作品を残した大詩人の作品であったがゆえに、写本に記録されるという幸運を得たのだろう。中世演劇作品で『葉陰の劇』ほど、具体性をもって同時代の現実を描き出した作品は他にはない。

ただし、もっと一般的なかたちで13世紀の世相を反映した内容を持つ演劇作品は他にもある。例えば、『聖ニコラの劇』の冒頭部では、十字軍に対する強い関心が表明されている。この作品は第四次十字軍(1200年頃)の頃に書かれた。『聖ニコラの劇』の作者、ジャン・ボデルは、聖人による奇跡という「聖者伝」で扱われてきた伝統的な素材を選択しつつ、従来の奇跡譚にはみられない独自のあり方でこの素材を提示している。まず劇の舞台となるのは十字軍の遠征先、サラセン軍の土地である。異教徒の王がキリスト教徒の侵入を知らされる場面で芝居は幕を開ける。『聖ニコラの劇』では、キリスト教徒は敵地でサラセン軍によってほぼ全滅の状態に追いやられてしまう。生き残ったキリスト教徒は一人だけで、彼はサラセン人に囚われの身となる。

『聖ニコラの劇』はおそらく、異教徒たちとの戦いの犠牲になったキリスト教戦士たちを讃える芝居でもあった。『聖ニコラの劇』の基調は悲劇的なものではないのだが、劇中で十字軍兵士たちが登場する唯一の場面にはパロディの笑いの雰囲気はない。サラセン人の大軍との決戦の直前の場面である。十字軍兵士たちは、数的に圧倒的に劣勢の状態にあり、決死の戦いとなることを承知している。取り乱すことなく、むしろ喜びをもって、この戦いへの覚悟を確認する彼らの姿には悲劇的な美しさがある。天使が彼らのそばに降り立つ。この戦闘による死は、戦士たちにとって驚異的な幸運なのである。というのも死によって彼らには殉教者の冠が与えられ、彼らの前に天国の門が開かれることになるからである。壮絶な戦いのあと、天使がキリスト教徒の遺体に言葉をかける。するとキリスト教の戦士たちは起き上がり、天使に導かれ天国へと向かう。当時の上演ではこうした場面が再現されたに違いない。しかし『聖ニコラの劇』で殉教は美しい行為として描かれてはいるが、その行為は異教徒には何ら影響をもたらすことはなかった。異教徒たちは聖ニコラの行う奇跡によって改宗へと導かれるのだが、その奇跡は聖戦の場では起きない。

サラセン王は宝物庫の鍵をわざとかけないままにして、そこに奇跡を起こすという聖ニコラの像を「番人」として置く。そして宝物庫の鍵がかかっていないことを国中に告知する。一晩その状態にしておいて、もし盗賊によって宝物庫の宝が盗まれていたら、サラセン王は捕虜のキリスト教徒を殺すことにしたのである。町の居酒屋でその話を聞いた盗賊は、宝を盗み出して、それを居酒屋に運び込んだ。すると聖ニコラが、その宝を取り戻すために居酒屋に姿を現した。そして聖ニコラの奇跡によって、宝は異教徒の王のもとに戻される。異教徒の王はこの奇跡によってキリスト教徒に改宗した。『聖ニコラの劇』で奇跡の場となるのは、多くのキリスト教徒が血を流した戦場ではなく、居酒屋なのである。

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