【04-02中世後期の演劇】都市とカーニヴァル2012/06/29 00:21

笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)の雰囲気は、カーニヴァルに代表される冬至から五月にかけて行われるいくつかの民衆的祝祭を想起させる。こうした民衆的祝祭では、冬と夏の二つの季節の闘争が象徴的に表現される。古の時代から、一年はいくつかの周期の交替によって構成され、周期の変わり目には祝祭が行われていた。この祝祭は、日常の秩序を逸脱した原初的な混沌が支配する「逆さまの世界」が立ち現れる時間となる。無礼講の大騒ぎのなかで、古きものと新しきものが象徴的な戦闘を行う。キリスト教以前から続いていたこうした民衆的祝祭の数々を、中世の権力は、否定するよりはむしろその中に取り込もうとした。教会は多かれ少なかれ阿呆祭を自らのものとしようとしたことは既に述べたとおりである。

カーニヴァルは都市的な枠組みのなかで拡大していった。都市共同体の権力はこの祝祭を後援し、その開催費用を援助することさえあった。固有の文化的伝統を持たなかった都市の支配階級は、自分たちの権力基盤を強化するための文化としてカーニヴァルを採用したのである。この祝祭は都市の活力と豊かさを誇示する手段であっただけでなく、既存の権威に対する異議申し立てでもあった。放埒が許容されるカーニヴァルとそれに続く禁欲を強いられる四旬節*の二つの周期の対立に、当時の人々は都市の世俗文化と教会の宗教文化の対立を重ねて見ようとしていた。

このカーニヴァルと四旬節の闘争は擬人化され、十三世紀後半に書かれたこの主題の詩作品が残っている(『四旬節と肉食の戦い』Bataille de Caresme et de Charnage)。この主題は十六世紀末まで流行し、十五世紀後半に書かれた二つの劇作品が現存している。『聖太鼓腹と四旬節の戦い』 La Bataille de saint Pansard à l'encontre de Caresmeと『肉食の遺言』 Le Testament de Carmentrantである**。この二作品では「肉食」の一派と「四旬節」一派の戦いが展開する。樽の上に陣取った太鼓腹の「カーニヴァル」は、ハムとソーセージを武器に、「四旬節」婦人を攻撃する。節制のためやせ細った「四旬節」婦人は、ニシンとカレイの武器で応戦する。

この二つの劇作品のうち、『聖太鼓腹と四旬節の戦い』はカーニヴァル側の勝利によって戦いが終わっている。カーニヴァルは敵方の四旬節に対し4週間の休戦を寛大にも認めた。一方、これより後に書かれた『肉食の遺言』では、勝利を収めるのは四旬節婦人の方であり、敗れたカーニヴァルは遺言状を書くことを強要される。中世から近代へ時代が下るにしたがって、カーニヴァルの勢力は徐々に衰えていき、この放埓な祝祭への批判、断罪の風潮が強くなっていく。近代になるとカーニヴァルは、節制を重んじる四旬節の支配下に置かれ、その放縦はバランスをとるためのかりそめの抑止力に過ぎなくなってしまった。

バフチンが、カーニヴァルに物質的・肉体的な下部、低俗さを称揚する民衆文化の象徴を見出したことはすでに述べた。カーニヴァルの笑いは必然的に、権威への異議申し立てという役割を担うことになる。この祝祭は、都市的な価値、エネルギーの肯定であるが、それと同時に都市の秩序の横溢と転覆の源でもあったのである。都市権力はこうしたカーニヴァル的祝祭の開催を後押しし、ときには自ら率先して組織することさえあったが、それと同時にこの祝祭を制御しようともした。

こうした都市の祝祭的環境の中で、中世後期の都市における演劇活動の核となった〈愉快な信心会〉と呼ばれる若者たちの集団の活動が活発化していった。こうした信心会の起源は、13世紀まで遡ることができる。この頃、〈若者たちの大修道院〉や〈若者たちの王国〉といった未婚の男性をメンバーとする団体が設立された。独身の彼らは、家族制度を基盤とする共同体の規範から自由な存在だった。彼らは日常の規範からの逸脱が認められていたカーニヴァル的な祝祭の中心的存在となった。彼らには結婚や恋愛など性的な問題についての裁判権が認められていた。この裁判権は共同体全体にかかわるものだった。例えばシャリヴァリは、こうした若者たちの集団の先導によって行われた。シャリヴァリとは、老齢の男性と若い娘の結婚など不釣り合いな結婚が行われたときに行われる集団的制裁行為である。仮面などで仮装した若者たちが楽器などを鳴らして大騒ぎしながら新婚の家庭を訪れ、夫をロバの上に乗せて町中でさらし者にしたりした。

〈愉快な信心会〉は各地で増大し、地域や職業、関わりを持つ祝祭などによって徐々に専門化していった。こうした若者たちの結社から、道化たちの結社が生まれ、次第に勢力を拡大していった。これらの道化たちの信心会のなかで、特に名高いものとしては、ルーアンの〈阿呆連〉、ディジョンの〈阿呆の母親連〉(あるいは〈ディジョンの歩兵隊〉)、マコンの〈不品行の子供たち〉などがある。これらの信心会のメンバーは厳格に序列化されており、各結社は独自の記章、印璽、さらには通貨さえ持っていた。

*毎年復活祭の40日前から始まる四旬節の期間中は、キリストの断食をしのんで肉食を絶つ習慣があった。
** Deux jeux de Carnaval de la fin du Moyen Âge, éd. Jean-Claude Aubailly, Genève, Droz, 1977.

コメント

_ Yoshi ― 2012/06/29 09:34

いつも同様、楽しく読ませていただきました。私もカーニヴァルとか阿呆祭についての本を幾つか読み大変興味を持った時期がありましたが、イングランドの文学・文化にはあまり応用が効かないんですね。お書きになって居るように、フランスではこうした活動が大変盛んだったのに、イギリスではBoy Bishopなどがある程度見受けられるだけで、それほど大きな足跡が認められず、演劇にもわずかしか影響が感じられません。同じプランタジネット家支配下にあり、仏語も広く使われていたにも関わらず、やはり民族性の違いでしょうか。ファブリオーも非常にわずかしかありませんし。

今後もこの連載の続きを期待しております。Yoshi

_ camin ― 2012/08/01 16:30

いつもコメントありがとうございます。15世紀以降の演劇活動については、13世紀都市演劇に関心を持つ私にとっては中世演劇といっても別物という感じが強く、更新のペースが落ちました。ぼちぼち続けていきますのでまたコメント御願いします。
カーニヴァルについては、バフチンのせいでその役割が過大評価され過ぎているような感じがします。

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