【03-06十三世紀都市の演劇】奇跡の起きる場所、宗教劇の上演空間(2)2012/02/14 01:46

ここで、『聖ニコラの劇』と『テオフィールの奇蹟』の上演において、複数の《場》が線的に配置されていた場合を想定してみよう。作品のなかにある象徴的な要素を考慮すると、この両作品はまさにそうした舞台配置に適合しているとフェーヴルは考える。

この場合、『聖ニコラの劇』では、一番端に設置される《場》は「天国」となる。次いで、「十字軍軍隊」、「王国内の居酒屋」、そして「サラセン王宮廷」という三つの《場》が並び、最後に「異教徒の神殿」の《場》が設置されるという配置になるだろう。

『テオフィールの奇蹟』でも『聖ニコラの劇』と同様に、まず一番端に「天国」の《場》が設置され、それから「聖母マリア礼拝堂」(天国の近くにある場所)、「司教の座る椅子」(現世での権力)、「サラタン(テオフィールと悪魔の仲介役のユダヤ人)の家」という劇展開を支える三つの重要な《場》が並び、最後に「地獄」の《場》が位置することになるだろう。

『テオフィールの奇蹟』で、テオフィール以外の主要な登場人物は自分の《場》を持っているのに対し、主人公のテオフィールは自分の《場》を持っていないことは、着目に値する。自分の《場》を持たないテオフィールは、上演中、常に《演技エリア》に姿をさらし続けることになる。いやむしろ彼が移動することによって、その先々に《演技エリア》が生成されると述べるほうがわかりやすいかもしれない。テオフィールは舞台に設置された、「地獄」を除く、全ての《場》を訪問する。各《場》は彼の訪問によって、《演技エリア》として順次、活性化していくのである。

このように、登場人物の一人が導きの糸となり、観客が、その人物が《場》から《場》へと移動するのを追いかけていくような構造を持つ作品は、『テオフィールの奇蹟』だけではない。例えば、『アラスのクルトワ』では主人公のクルトワの移動先が演劇的な《場》を形成するし、『聖ニコラの劇』では、サラセン王の使者であるオベロンが王の諸侯を呼び集めるときにこういった状況が出現する。しかしこれがこの時代の演劇作品の一般的・原則的な劇構造であったというわけでもないようである。というのも、「聖母奇蹟劇集」に収録された作品や『聖ニコラの劇』には、《場》が劇の筋の展開に従って連鎖的につながるのではなく、ある《場》から別の《場》に唐突に移り変わってしまうようなはっきりした断絶も見られるからである。

いずれにせよ、複数の異なる《場》が観客の目の前で一斉に提示されていれば、ある《場》から別の《場》への筋の展開はスムーズに行われていただろう。役者たちは自分の出番になると自分の《場》から《演技エリア》に現われ、演技を行い、出番が終わると自分の《場》に戻る。それと入れ替わりに出番となる別の役者が自身の《場》から《演技エリア》に出てくる。このようにして上演空間は上演中に移行していったのだろう。

これらの《場》に設置された舞台美術は、ごく簡単なものだっただろうとフェーヴルは推定する。十三世紀演劇の舞台では、現実の写し絵を舞台上に再現することよりもむしろ、象徴的な装置を使って、上演中のその場所がどこであるかを観客に明示することが重要だったからである。例えば、一脚の玉座によって王宮を、鉄の柵によって牢獄、コップが何個か置かれたテーブルがあればそれは居酒屋を表す、などといったやり方で、舞台空間は表現されていたと考えられる。パリの金銀細工商の組合による「聖母奇蹟劇」のように、信徒団体の行事で同じ場所で定期的に上演された場合には、舞台装置の一部は何年にもわたって使い回されていた可能性が高い。とりわけ「天国」と「地獄」の《場》は、どの作品にも共通して必要となるので、この《場》で使う装置は恒常的なものだったに違いない。この他の《場》については、作品毎に内容に応じて作り替えていっただろう。フェーヴルが想定した十三世紀演劇上演の形態、すなわち簡素で象徴的な舞台装置を効果的に使うことによって、劇の筋の展開の場は《演技エリア》上で自在に、自由に変化していったというイメージは、われわれには能の舞台の様子を連想させる。

十三世紀演劇では、時間の流れもまた空間同様に、ドラマの展開の都合に合わせて随意に変化させることができた。教会の内部で上演された典礼劇でもよく使われていた方法だが、場面転換が、しばしば時間の流れを加速させるための効果的な手段として用いられた。例えば『聖ニコラの劇』では、サラセン人王の使者、オベロンはほんの数秒間の間に、王の宮廷とコワン国将軍の領地の間を往復するが、この二国間は片道で三十日ほどかかることが、別の場面の台詞で示されている。

時間の跳躍が一回の場所移動による時間短縮では説明できない場合もある。例えば、リュトブフの『テオフィールの奇蹟』の以下の場面である。

(1)悪魔と臣従の契約書を取り交わしたテオフィールは、かつて自分から役職を取り上げた司教と和解し、司教代理の役職を取り戻す。
(2)そしてこの後、二人の同僚に喧嘩を売りに行く。テオフィールは自分が獲得した新しい権力を振りかざして、二人を脅迫する。
(3)しかし二人目の同僚へのテオフィールの悪辣な威嚇の台詞のすぐ後の場面で、テオフィールは聖母礼拝堂にいて、そこで自分の行いを悔い改めているのである。

この威嚇から改悛に至る二つの場面に移行に際して、時間の流れを示す舞台上の動きの指定は存在しないが、この礼拝堂でのテオフィールの独白の中で、われわれは七年の月日が前の場面から過ぎていたことを知る。唐突に七年の時間を経て二つの場面はつながっているのだ。七年間という数字は、この奇蹟譚にとって重要な意味を持っているわけではない。テオフィールが悪魔との契約の恩恵を被った期間が、数日であろうと長い年月であろうと、彼の犯した罪の本質が変わるわけではない。注目すべきことは、テオフィールが涜神的振る舞いをやめ、改悛するまでの時間が、劇行為のなかでは全く空白になっているということである。テオフィールの改悛は聖母マリアの介入を導き、劇内の時間は、七年の空白の内容について言及することのないまま、再び動き始める。ちなみに『テオフィールの奇蹟』より後の時代の「聖母奇蹟劇集」の作品でも、このような唐突な場面の移動が数年の年月を示すことはしばしば見られる。そしてそこでもしばしばこの象徴的な時間の経過は七年間とされる。

いずれにせよ、『テオフィールの奇蹟』では空間のみならず、時間もまた、ドラマの要請に従い自由に伸縮させられているのである。『テオフィール』のような奇蹟劇の劇作術においては、作品の宗教的主題を明快に示し、教化のために効果的に物語を展開させることを何よりも優先させなくてはならない。この目的のためには、世界の半分にあたる空間を一気に移動したり、一瞬の間に一年の時間を経過させたりすることは、全く問題ではなかったのだ。神の偉大な力を思えば、時間的・空間的な拘束など取るに足らぬものなのだから。

コメント

_ Yoshi ― 2012/02/14 23:12

caminさま、毎回刺激的な文章、感謝します。

ヨーク市のギルドの記録でも、聖体祭劇の山車、つまりセットは、分解して保存していて毎年使ったようです。日本のお祭りの山車と同じですね。

物語を狭い場所と限られた時間で語る演劇においては、時間と場所が自由に伸縮したり移動したりするのは当然と言えば当然ですから、日本の伝統演劇でもそうなるのでしょう。おそらく、世界の他の地域の伝統演劇もそうなんじゃないでしょうか。私は、無理矢理時間と場所を一定のわくの中に閉じ込めたギリシャ・ローマ劇こそ、極めて特殊にして不自然に思えます。しかし、西欧文化にとって古典古代があまりに影響が強かったために、ルネサンス以降の欧米人にはそちらのほうが規範で、中世劇が特殊であるかのように思えてしまったのではないかと思います。

1つの理由としては、caminさんもサジェストされているように、全知の神の視線の中では、空間も時間もフラットになるということでしょうね。そして、聖史劇の場合には、あちこちにキリストのfiguraとなる人物や、受難の前兆とされる事件が散りばめられ、劇全体がシンボリックな意図で結ばれていることも、時間・空間の移動の自由さと関連しているのでしょうか。

テオフィールは天国やら地獄を旅するダンテみたいですね。あるいは聖体祭劇で、祭司の宮殿やらピラトの宮殿やらゴルゴダの丘やらと連れ回されるキリストの動きみたいな。

中世写本の絵画やステンドグラスって、例えば漫画のコマ割りの枠を取り払ったかのような、一枚の絵に色々なシーンを並べて書いているものが多いですが、中世の舞台の作り方もそれに似たものがあると思えます。色々な場(絵)を1つのステージ・エリア(キャンパス)に並べておいて、中心となる人物をその中であちこち動かして芝居を見せるというやり方ですね。

_ KM ― 2012/02/15 00:32

Yoshiさま
能の記述は蛇足だったような気もしています。古典劇な様式を規範とする考え方は西洋の演劇史学者のなかではいまだ根強いように感じます。確かに世界演劇の次元で考えると古典劇的なスタイルこそ例外的なのかもしれませんね。

『テオフィール』は実際には650行ほどの短い作品で、スケール的にはダンテの『神曲』を連想させるようなものではありません。ただし悪魔と契約を結ぶという主題の芝居としては最古のものだと思います。リュトブフは十三世紀フランスを代表する詩人で、『テオフィール』以外にも優れた作品をたくさん残しています。

上記の『テオフィール』の記述はフェーヴルの見解に基づくものですが、舞台空間についての仮説は、『聖二コラの劇』同様、実際の上演資料のない状態からの想像なので、魅力的ではありますが、正直なところ、ここまで踏み込んだ舞台の状況は私には半信半疑のところもあります。レ=フロないしフェーヴルの願望のようなものが多分に入りすぎていないだろうか、という気もするのです。

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