【03-07十三世紀都市の演劇】演劇的時空と現実の時空の統合:『葉陰の劇』の場合2012/02/18 16:52

十三世紀演劇作品の多くでは、『聖ニコラの劇』や『テオフィールの奇蹟』のように、複数の場所で同時進行的に複数のエピソードが展開するが、アダン・ド・ラ・アルの二つの劇作品、『ロバンとマリオンの劇』と『葉陰の劇』では時空間は異なった処理が施されている。この二つの作品では筋は単一の場所で展開し、劇中を流れる時間はほぼ現実の時間と重なっている。『ロバンとマリオンの劇』の舞台は、羊飼いたちが生活する田園に設定されている。羊飼いのマリオンが花冠を作っていると、そこに騎士が通りかかるという場面から劇は始まる。この発端から劇の最後まで、主人公のマリオンを含めすべての登場人物たち(騎士、ロバン、そして他の羊飼いたち)は、この唯一の場を入退場する。

『葉陰の劇』の舞台はアラスの町の一角である。この舞台上に設定された世界を出入りできるのは、妖精たちなどよその土地からアラスにやってきた登場人物だけである。アラスの住民たちは劇空間に囚われていて、この町から出ることはできない。『葉陰の劇』の17名の登場人物のうちの約半数は架空の人物ではなく、作者のアダンを始め、当時、実在したアラスの住民たちであり、こうした役柄はおそらく本人によって演じられていただろう。劇の内容から、自分自身を登場人物として演じる役者たちは、自分の出番になると客席から舞台に上がり、出番が終わるとまた客席に戻って、芝居を見物していた可能性が高いとフェーヴルは推定する。劇の冒頭で妖精を迎える東屋の準備をしていたアダンとリキエは、自分たちの出番が終わると、一旦客席に戻り、妖精たちの到来を他の観客たちと一緒に待つ。このとき、彼らとともに妖精の登場を待つ観客たちもまた、劇内世界と現実世界の重なり合う重層的な空間にいるのである。登場人物のひとりが客席の一角で立ち上がり、その場所で話しはじめる。あるいは《演技エリア》までやってきて、自分に割り当てられた役柄を演じ、その場面が終わると再び元の客席に戻って座る。『葉陰の劇』では、このように《演技エリア》である舞台と客席が一体となり、ひとつの演劇的空間が形成されていた。

このように劇空間と現実空間が統合されている一方で、『葉陰の劇』では劇内での場面の移行は明確なやり方で示されている。妖精たちの食卓の場面から、居酒屋の場面に移るときに、この場の転換を導くのは登場人物のひとりであるアーヌ・ル・メルシエ[小間物商のアーヌ]である。妖精たちがアラスの広場から立ち去ると、妖精たちが話しているあいだはずっと眠り込んでいた放浪の修道僧が目を覚ます。アーヌはよそ者であるこの放浪僧を、アラス住民の常連たちが集う居酒屋まで連れて行く(『葉陰の劇』875-902行)。この場面の移行のあいだに、妖精たちのために用意されて食卓は舞台上から片付けられ、それと入れ違いに場面が居酒屋であることを示すためのテーブルが《演技エリア》に設置されただろう。

フェーヴルはさらに劇内世界の場所が、現実の場所と重なっていたと想定する。つまり『葉陰の劇』の居酒屋の場面は、その当時、実際にアラスにあったラウル・ル・ウェディエが経営する居酒屋のなかで上演された可能性が高いと彼は考える。十三世紀のテクストを通して、当時の居酒屋の様子が再現されているというのは、実に魅力的な仮説である。戯曲に書き込まれた細部の描写がこの仮説の信憑性を高めている。例えば、居酒屋の客のリキエには次のような台詞がある。
「(居酒屋主人のラウルに向かって)おい、一杯お願いするよ。(仲間のギヨに向かって)さあ、こっちに座ろう。ほら、そこの窓の縁(li rebas)に葡萄酒の瓶は置いておけばいいよ(914-917行)」

「窓の縁(li rebas)」という特定の場所を示す記述は、この作品が上演される場所が前もって決まっていたからこそ出てくるように思える。『葉陰の劇』の居酒屋では、このように想像上の劇空間と現実の空間が重なりあっていた可能性が高いのである。

『葉陰の劇』では空間的な面だけでなく、時間的な面でも、劇世界と現実世界は重なり合っている。劇中でアラスの住民たちは妖精を迎えるために食卓を準備し、その食卓に妖精たちは降り立つが、この芝居を観ている観客たちはまさに妖精たちがこの町にやってくることになっている夜にこの芝居を観ていたのだとフェーヴルは考える。登場人物の一人であるリキエは言う。
「妖精たちが今晩やって来るのは昔から決まっている習慣なのだ(566-567行)」
『葉陰の劇』の観客は、この妖精たちの到来を迎える夜を、演劇的世界にいる登場人物たちとともに過ごすのである。劇内の時間の速度は、現実の速度よりも若干早く進む。劇は夕暮れに始まり、翌日の日の出の時間に終わる。しかし『テオフィールの奇蹟』や『聖ニコラの劇』に見られるような時間の跳躍は、『葉陰の劇』にはない。またアダン・ド・ラ・アルのもうひとつの演劇作品、『ロバンとマリオンの劇』でも、『葉陰の劇』同様に、劇内時間と実際の時間はほとんど重なっている。

こうした劇の時・空間と現実の時・空間の重層化は、十三世紀の演劇作品の中では、アダン・ド・ラ・アルの二つの演劇作品に特有のものだ。こうした時・空間の統合はこの時代の劇作術としては例外的なものだったかもしれない。ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』では、演劇的時・空間の扱いは、アダン・ド・ラ・アルの作品と異なり、複合的なシステムが導入されている。『聖ニコラの劇』の最初の部分では、ジャン・ボデルは複数の場所と時間を設定し、並行して筋を進行させる。しかし中間の夜の居酒屋の場面では、筋を単一の時間と場所のなかで展開させる。そして最後の部分では、居酒屋の場面とサラセン王の宮廷の場面が交互に現れる。これはひとつの形式に留まることに作者が躊躇した結果こうなってしまったのだろうか、あるいは作者は敢えて複数のリズムを作品のなかに取り入れようとしたのだろうか。