【03-03十三世紀都市の演劇】演劇的な場としての居酒屋2011/12/23 01:22

居酒屋は十三世紀の演劇にとって特権的な場所である。この時代にアラスで書かれた三つの重要な演劇作品に居酒屋が舞台として登場する。聖書の「放蕩息子」のたとえ(ルカ第11章11-32)の翻案である『アラスのクルトワ』の半分の場面は、居酒屋で展開する。ジャン・ボデルの『聖ニコラの劇』でも、居酒屋は劇を構成する重要な場のひとつとなっている。アダン・ド・ラ・アルの『葉陰の劇』は、大きく三つの部分から構成されるが、その最後の部分は居酒屋が舞台になっている。

居酒屋は猥雑と混沌が支配する場所である。居酒屋で客は放縦と安楽を満喫する。彼らは存分に飲み食いし、喧嘩し、サイコロ賭博に興じ、いかがわしい女たちとの会話を楽しむ。しかしこうした愉みと引き替えに、居酒屋は人々から多額の金銭を奪い取る。『アラスのクルトワ』では、主人公のクルトワは、プレットとマンシュヴェールという二人の売春婦にカモにされ、父親した相続した財産を奪い取られたうえ、着ていた服まで居酒屋に置いていくはめになった。

『聖ニコラの劇』に登場する三人の悪党、クリケ、パンセデ、ラゾワールは、サラセン王の宝物庫から財宝を盗み出し、それを元手にして大酒を飲み、王侯貴族さながらの派手な掛け金でサイコロ賭博を居酒屋で楽しんでいた。しかし彼らの前に現れた聖ニコラの怒りに怯え、盗んだ財宝をサラセン王の宝物庫に戻さなくてはならなくなる。財宝をあてに散々飲み食いしていたため、居酒屋主人に飲み代を支払うことができず、着ていた外套を代金代わりに居酒屋に置いて出るという惨めな状態に最終的に彼らは陥ってしまう。

『葉陰の劇』では、聖遺物を見せることでお布施を集める放浪僧は、居酒屋にいた連中の悪質ないたずらの餌食となり、大金を請求される。放浪僧は質草として、大事な商売道具の聖アケールの聖遺物を居酒屋の主人に預けなくてはならなくなる(最終的には放浪僧は何とか金を工面して、聖遺物を取り戻す)。このように居酒屋で人が、金銭的な面だけでなく、精神的な意味でも、破綻していく様子がこれらの作品では描かれている。

『葉陰の劇』に登場する妖精、マグロールは、妖精たちを迎える東屋に、自分にだけ食器が用意されていなかったことに機嫌を損ねる。彼女は、この東屋の準備をしたアダンのパリへの旅立ちが遅れ(アダンは劇の冒頭でこれから勉学のためパリに向けて旅立つことを宣言している)、アラスの町から結局抜け出すことができないだろうという意地悪い予言をする。この予言はすぐに実現してしまったように思える。妖精たちの登場する場面の後には、居酒屋での場面が続く。居酒屋ではアラスの住民たちが集まって酒を飲んでいる。そのなかに、パリに向けとっくに出発しているはずのアダンの姿があるのだ。彼はアラスの仲間たちとここで朝まで過ごすのである。この居酒屋の場では、アダンには台詞が割りあてられていない。もう既にかなり酩酊状態にあるのか、彼は仲間たちの悪ふざけを黙って聞いている。夜が明け、アラスの聖ニコラ教会の鐘の音が聞こえ始めると、非日常の狂騒的な時間は終わる。常連たちは居酒屋を出て、自分たちの家へ戻って行く。

『聖ニコラの劇』の悪党たちもまた朝の光が照り始めると居酒屋を後にする。『アラスのクルトワ』では、一文無しとなったクルトワは、居酒屋の主人に外に放り出される。精神的および金銭的な苦境に陥ったクルトワは、たまたま出会った紳士に与えられた豚飼いという仕事を、天からの恩寵であるかのように受け入れる。居酒屋で、人は自らを見失い、ときに破滅にまで追いやられることもある。そこで冷静さを保つことができるのは居酒屋の主人だけである。十三世紀アラスの演劇作品では、居酒屋の主人はいつも悪巧みの主犯であり、仲間とグルになってカモとなる客から何とかして金をだまし取ろうとする役柄である。『アラスのクルトワ』では、父からの遺産をすべて奪われ無一文となったクルトワは身ぐるみ剥がされ、『聖ニコラの劇』ではクリケは着ていたマントを奪い取られ、『葉陰の劇』では放浪僧は、一時的ではあったが、商売道具の聖遺物を借金の型として置かなければならなかった。

こうした居酒屋のエピソードには、悪所通いの道徳的・金銭的危険性を告発するという教訓的意図が込められているのかもしれない。しかし、こうした場合、演劇による再現が、悪徳の告発という教訓を伝える手段として、有効かどうかは何とも言えないところがある。舞台でそうした場面が演じられることが、かえって有害な影響を観客に与える可能性もないわけではないからである。悪所での遊興の描写が正確であればあるほど、その様子は観客にとって魅惑的なものとなり、劇中で居酒屋の客が味わうことになる不幸な結末の苦さを相殺してしまいかねない。こうした描写を教訓とするには、登場人物と彼らの失敗に、観客が自らの姿を重ねる必要があるだろう。ところが、例えば『アラスのクルトワ』の主人公に対して、この芝居の観客が、そういう見方をしていたかどうかは大いに疑問なのである。世間知らずで田舎者のクルトワは、アラスの町に足を踏み入れた途端に騙されてしまうが、彼は町の人間にとってはよそ者である。また『聖ニコラの劇』で居酒屋に集まるならず者もまた、町の住民とは相容れない存在だ。

結局のところ、この放蕩の場で犠牲者となるのは、もとより破滅してしかるべき者、すなわち田舎者とならず者なのだ。田舎者は、最終的には、都市を離れ自分の農場へ戻っていく。ならず者はもとより社会の周縁に生きる存在である。いずれも芝居の観客である都市住民とは異なる社会グループに属している人間であり、観客たちは優越感をもって、他人事として彼らの失敗を見物していたに違いない。クルトワたちを嗤う観客もまた居酒屋に通う客であるかもしれない。しかし彼らは芝居の登場人物たちとは違って、自分たちは悪所での遊興、放蕩の危険性を知っていて、劇の登場人物のような愚かな失敗を回避できると思い込んでいる。こうした都市住民の考えは、『聖ニコラの劇』に登場する異教徒の王の伝令、オベロンの扱いに読み取ることができる。オベロンも居酒屋にやって来る。しかし彼はサイコロ賭博で悪党のクリケに勝ち、支払いをクリケに押しつけて、ただ酒を飲むことに成功するのである。ならず者と違い、王の家来であれば、居酒屋に入って酒を飲んでも損をすることなくそこから出ることができるのである。

『聖ニコラの劇』(1200年頃)のおよそ75年後に上演された『葉陰の劇』(1276年頃)の居酒屋の様子は、『聖ニコラの劇』とまったく同一の次元にあるわけではない。『葉陰の劇』の世界でも居酒屋には相変わらず雑多な人間がやってくるが、そこにいる客はいかにも現実の居酒屋にいそうな人間である。『葉陰の劇』の観客がどのような社会階層に属する人間であったのかははっきりわかっていないが、劇の登場人物でもあるアダンやリキエと同じようなアラスの下層市民が観客に含まれていたことはほぼ間違いないと思われる。


この芝居の最後の三分の一は居酒屋の中で展開するが、居酒屋は作品のなかの舞台であるだけなく、実際に作品が上演された場所であったという可能性もある、とフェーヴルは示唆する。『葉陰の劇』の校訂者の一人、ジャン・デュフルネは、作品の解説のなかで、作品のタイトルとして用いられている「葉陰」feuilléeとは(実際にはテクストの末尾のexplicitから『葉陰の劇』というタイトルが取られている)、年に一度、アラスの町に降り立つ妖精たちを迎える葉のついた木の枝で作られた東屋を指していただけでなく、居酒屋の看板もそう呼ばれていた可能性があると記している。もしかすると居酒屋のなかには、劇の上演にあわせ、緑の葉のついた枝で作られた東屋も設置されていたかもしれない。『葉陰の劇』のなかで、居酒屋の常連たちは出される葡萄酒を遠慮なくけなし、食べ物を不作法に食べ散らすが、登場人物のこうした言動は、居酒屋でこの作品が上演されたというフェーヴルの想像の妨げとはならない。なぜならそうした無遠慮なふるまいは、その都度、居酒屋主人によって注意されているからである。この居酒屋主人もまた、『アラスのクルトワ』と同じように、町の住民である常連たちをけしかけて、旅の僧から金をだまし取る。僧が酔っ払って寝ている間に、客たちは僧のつけで勝手にサイコロ賭博をはじめ、その支払いを僧に押しつけるのだ。この僧は怪しげな聖遺物でお布施を集める旅回りの人間であり、彼らにとってはよそ者だ。この居酒屋で金銭的損害を被るのはこの僧だけである。

居酒屋の常連たちはまた、学僧となる強い願いを持ちパリに出発しようとしたアダンを引き留め、居酒屋に引きずり込んで堕落させた。居酒屋は13世紀の演劇作品のなかでアラスの町全体の換喩として機能している。そこでは官能的な欲望のやりとりが露骨に行われ、莫大な金が浪費される。その現世的欲望の魔力に取り憑かれた人々は、その中に取り込まれ、身動きできなくなってしまうのである。

コメント

_ Yoshi ― 2011/12/25 10:50

こんにちは。ここ2回のエントリーを読んで、アラスという町の演劇的な先進性に驚かされました。社会史的にも、これらの劇は資料として大変興味深いですね:酒場、賭博、売春(?)、聖遺物、犯罪者、田舎者、等々、もっと詳しく知りたいモチーフが色々とありますね。『聖ニコラスの劇』など、一部院生の頃に英訳を読んだ記憶があるのですが、すっかり忘れてしまいました。そのうちまた読んで見たい作品群です。

酒場というと、イングランドでは、16世紀中葉のロンドンで、常設の商業劇場が出来る少し前、酒場兼宿屋の中庭に仮設舞台を設置して劇を上演することが行われたのは有名です。しかし、それ以前の中世では酒場と演劇の繋がりは、私は寡聞にして知りません。色々な資料を見ると出てくるかも知れませんね。私の記憶では、熊虐め(bear-baiting)などは酒場の客集めとして地方でも行われていたようです。客集めのイベントとして何らかの芸能をやるというのは、自然な流れですね。ミンストレルの活躍の場もあったのではないかと想像します。

常設の酒場自体、かなりの都市化が進まないと成立しません。12,13世紀のイングランドでは、酒場と言うより、酒(エール)を醸造した人が、出来た時に酒を自宅で飲ませる、という状況だったようです。しかし、14世紀には広く酒場(あるいは酒場兼宿屋)はあったと思います。『カンタベリー物語』の巡礼達の出発点であるロンドン郊外の宿屋、Tabard、もその典型です。ちなみにこの宿屋の主人も、結構計算高い奴です。

田舎者を笑い飛ばす、という都市住民のモチーフ、そして田舎者をカモにする犯罪者の手練手管、これらもイングランドの16世紀の文学で良く見られるモチーフです。都市化が進み、田舎と都市というコントラストがはっきり出て来てこそ生まれるモチーフでしょうが、この点でもアラスは先進的ですね。

作者は一体どういう意図で書いているのでしょうか。それ程教訓的、あるいは宗教的な劇とも思えませんね。一種のエンターティンメントでしょうか。北仏では12世紀後半から13世紀頃に爆発的に多数のファブリオーが創作されたわけですから、その流れと関連するような気がしますが・・・。確か、ジャン・ボデルはファブリオーを書いていましたね。劇としては孤立していても、ファブリーオーと一緒に見ると、色々なモチーフが共通する作品がありそうな気がします。とりとめのないコメントで恐縮です。 Yoshi

_ KM ― 2011/12/25 12:27

Yoshiさん、コメントありがとうございます。
十三世紀アラスの活発な演劇活動は、フランス演劇史のなかでも例外的といえるもので、十四世紀から十五世紀半ばまでフランスでの演劇活動は停滞期に入ってしまいます。アラスの演劇・文芸伝統はその後大陸よりもむしろイングランドに継承されていったのでは、というような印象を私は何となく持っています。当時のアラスの演劇とファブリオとの関連は強いと思います。そのあたりのことを自分の研究ではしっかり考察したいと考えています。

_ Yoshi ― 2011/12/26 08:50

caminさま、

>アラスの演劇・文芸伝統はその後大陸よりもむしろイングランドに継承されていったのでは・・・

「何となく」とは書かれていますが、これはどのような理由でおっしゃっているのでしょうか。アラスの演劇活動は残されている英語の劇よりもずっと早く、直接の影響があるとは、私には思えません。でも、そのような継承があるとすると、大変おもしろいですが・・・。

_ camin ― 2011/12/28 17:31

「何となく」の印象にすぎないので、理由と言われてもあいまいなことしかかけないのですが。

アダン・ド・ラ・アルの牧歌劇『ロバンとマリオン』の羊飼いのカップルが、ロビンフッドとその恋人マリアン、あるいは五月のメイ・ポールの風習とのつながりを感じさせたり、同じアダン・ド・ラ・アルの『葉陰の劇』の妖精譚の場面や作品構造は、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』をどこか連想させるところがある、といったところが思い浮かびます。またアラスを含むピカルディ地方はイングランドと近く、アダン・ド・ラ・アルと目される人物が十四世紀初頭にイングランド王の宴会に列席したという記録もあります(アラスのアダンとは別人とする研究者が多いようですが)。

ただこれをもって、十三世紀アラス演劇とルネサンス期のイングランド演劇の影響関係を主張したいと言うわけではありません。いわんや直接的な影響があると考えてるわけではなく、漠然とした印象論、あるいは願望のようなものです。その後のフランス演劇史のなかに、十三世紀アラス演劇的なものがなかなか見出せないので、このような想像をしたくなったのでした。
いずれにせよ不用意なコメントでした。すいません。

_ Yoshi ― 2011/12/28 18:01

caminさま、

ご親切にお答えくださりありがとうございました。こちらこそ、細かい事を突っついてしまい、失礼致しました。地理的には確かに近いですし、イングランドとこの地方は羊毛の貿易で密接に繋がっていたと思いますので、文学的な交流があっても不思議じゃないですね。 もし今後のご研究でアラスの演劇文化とイングランドの間に何らかの関連が見つかれば、またブログ等でご教示下さい。Yoshi

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