【02-03役者とジョングルール】初期受難劇のなかの語りの詩行の問題:一人の朗唱者と複数の演技者2011/11/20 15:47

ラテン語のテクストのみならず、フランス語のテクストにも、その演劇性についての評価が難しい作品がいくつかある。ジョングルールたちによって口演されていたことが明らかなテクストについては、その演劇性がどのようなものであったかは、おおむねはっきり述べることができる。現在のわれわれはこうしたテクストを別々のジャンルに分類することがあるかもしれないが、当時の人々にとっては、これらはすべて「ジョングルール芸」というカテゴリにくくられるものだった。ジョングルールが役者のようなやり方で語りのなかの人物を演じていたときには、こうしたテクストは演劇的なものとしてたちあらわれる。ジョングルールの技芸には、本質的に常に語り物としての性質と演劇性が混じり合っている。

ここで問題としてとりあげたいのは、単独のジョングルールによって口演さられていたことが明らかな作品ではなく、その作品がどのようなやり方で聴衆に届けられていたのか判断に迷うテクストである。すなわち、おおむね対話体形式で書かれているものの、語りの地の文を、多かれ少なかれ、含んでいるようなテクストである。こうした作品の語りの地の文では、登場人物が提示されたり、場所や劇行為の詳細が記されていたり、あるいは場の変化が告知されたりする。このような作品は12世紀末から14世紀にかけていくつか存在する。例えば、『救世主の復活』(12世紀末)、『アラスのクルトワ』(13世紀半ば)、そして『パラティヌス受難劇』、『オタン受難劇』、『プロヴァンサル受難劇』(三作品とも14世紀はじめに制作された。15、6世紀の長大な聖史劇、受難劇の先駆けとなる作品である)といった最初の受難劇である。

上記の作品に含まれる語りの詩行は、本質的に対話体で構成されている作品に語り物としての骨格を与えるには、あまりにも短く、そして不規則であるため、その役割と機能についてはこれまで数多くの仮説が提示されてきた。上に挙げた作品で、語りの地の文が本当に語りとして機能しているとみなすことができるのは『救世主の復活』だけである。『救世主の復活』では、序文のテクストが舞台上のいくつかの異なる場面の内容を伝えるほか、場面のつなぎの箇所に置かれた語りによる記述によって、台詞のない場面でどのような芝居が行われるのかが説明されている(例えば十字架から救世主の遺体を下ろす場面などの描写など)。『救世主の復活』は、12世紀から13世紀のあいだに、数度にわたる改変が加えられているが、このテクストの残された状況から、この作品は数人の役者によって演じられ、役者のうちの一人が語りの地の文を読んだとする説が有力である。

他の作品に含まれる語りの詩行の役割と機能については、いくつかの解釈は提示されているものの、はっきりとわかっていない。しかし、例えば『パラティヌス受難劇』のように、語りの詩行がごく数行しかないような場合であっても、語りの地の文の存在は、語りもの文芸としての性格を作品の中で主張している。モリス・アカリー Maurice Accarieは、『パラティヌス受難劇』の台詞は、登場人物たちは自分がこれから行おうとすることや、行っていることについて語ることが多く、地の文の存在のみならず、対話体で書かれた部分についても語りの文芸の痕跡が色濃いことを指摘している*。それゆえ、この作品は真正な演劇作品であるとは言えないし、同時に明確に語りものに属する作品とも言えない。われわれが手元にあるテクストは多くの場合、何度にもわたって、複数の人間の手によって何度にもわたって改変が加えられた結果であるという中世のテクスト特有の事情もまた、こうした曖昧さをさらに複雑なものにしている。

この不確実性のなかで、研究者の態度は大きく二つに分かれる。まずこれらのテクストは本来、真正な演劇作品であったと考え、語りの詩行は後から付加されたものにすぎないと考える立場である。語りの詩行は、作品を「語りもの」へと作りかえる目的で、作品が写本に作品が筆記・伝承される過程で付加されたものだと彼らは推定する。しかしこの仮説では、語りものへの翻案を目的とした改変が、なぜこれほど簡略で部分的なのか、中途半端なやり方で行われているのかをうまく説明できていない。これとは別の立場をとる研究者たちは、これらのテクストは状況によってあらゆる用途に用いられたのだと考える。単独のジョングルールによって朗唱された場合もあれば、複数の役者たちによって演じられたこともあった。そして集団で上演された場合、ナレーターを担当する演者がこの語りの部分を読み、他の演者たちは自分の役柄を演じた、と彼らは推定する。しかしこの仮説でも語りの地の文の不完全さは明確に説明されていない。

フェーヴルは、14世紀に書かれたイエスの受難を題材とした数編の劇作品に含まれる語りの詩行の役割について以下のような仮説を提示する。これらの演劇テクストは12世紀末から13世紀のあいだに成立した『ジョングルールたちによるイエスの受難』Passion des jongleursというタイトルの語りものの作品をおそらくその典拠としている。この点については研究者のあいだに異論はない。この『ジョングルールたちによるイエスの受難』では対話体がふんだんに用いられているが、ジョングルールの語り芸の特質は、相対的に少ない分量である語りの地の文にむしろ見出すことができるだろう。語りの詩行は、たとえそれがどんなに短いものであっても(例えば「彼は言った」dit-il、という台詞を示す挿入節など)、ジョングルールにとって聴衆たちとの直接的なコミュニケーションを支える役目を果たしている。直接話法のやりとりから離れ、語りの詩行を適宜挿入することで、語り手であるジョングルールは、場面の推移、登場人物の交代をはっきりと観客に示すことができるのである。一人語りの話芸であるジョングルール芸には、語りの地の文は不可欠な要素である。何秒間かの語りの地の文があれば、ジョングルールは異なる場と新しい登場人物を提示することで展開を進めることが可能になるからである。中世フランスのジョングルールに限らず、古今東西の話芸の多くで、語りの地の文は似たような機能を持っているはずである。

『ジョングルールたちによるイエスの受難』のテクストは、このように語りの地の文が効果的に取り入れられており、単独のジョングルールが聴衆に対して語るのに非常によく適合したスタイルで書かれている。しかし、これに対して、語りの地の文を含んではいるものの、『パラティヌス受難劇』あるいは『オタン受難劇』といった14世紀の初期受難劇を、単独のジョングルールの朗唱によって演じられていたとは考えにくい。というのも、『ジョングルールたちによる受難の物語』とは異なり、これらの作品における語りの地の文は、予測不可能の気まぐれな場所に、散発的なあり方で存在するからである。さらにこれらの受難劇はいくつかの場に分割されているのだが、その分割の仕方にも規則性が認められない。各場面の転換は唐突で、テクストの区切りは不連続で断続的である。場面の推移には飛躍があり、なめらかな展開がない。もしジョングルールがテクスト全体をひとりで朗唱していたのであれば、これらの場面展開が滑らかに行われるように、何らかの語りの詩行が挿入されていたはずである。こうした推移を、巧みな語りによってスムーズに洗練されたやり方で行うことにこそ、ジョングルールの技芸の特質があるからである。

ここで初期の受難劇が、プロの芸人であるジョングルールではなく、同業者組合のメンバーから構成される素人の役者たちによって上演されていたと想定してみよう。彼らは単独のジョングルールが朗唱することを想定して書かれたテクストを、多人数で演じる演劇作品に翻案しようとした。このように考えると、われわれはこれらの受難劇テクストの一貫性の欠如や未熟さについて、うまく説明することができるのではないだろうか? この素人芸人たちは、ジョングルールの技芸にある演劇性とは異なる演劇性を、新しい形式のなかに見出していた。彼らは、ジョングルールのように複数の人物を一人で演じ分けるのではなく、登場人物の各人を別々の人間が演じ分けた。ジョングルール技芸に必要なプロの技術を欠いていた彼らは、一つのテクストを複数の演者で分け合ったのである。そこで生まれた新しい形式は、その書法はまだ未熟なものであったかもしれないが、組合の成員を主体とする参加型のスペクタクルであり、都市の祝祭的行事のイベントによりふさわしい華やかさを持っていたのである。

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* Maurice Accarie, Le Théâtre sacré de la fin du Moyen Âge. Étude sur le sens moral de la Passion de Jean Michel, Genève, Droz, 1979.

【02-04役者とジョングルール】個人芸から集団による表現へ:複数の人物による芝居2011/11/26 03:25

ジョングルールの芸能は本質的にソロ・パフォーマンスであり、集団による芸能ではない。いかにジョングルールが役者のように演じたとしても、その芸は語りのシステムのなかに組み込まれたものである。役者とは違い、ジョングルールは、自分たちの芸が作りだした世界のなかに観客を引き込むことはない。ジョングルールは、自分が今、ここで語っているのは、どこか別の場所で起こった、過去の物語であると、明示的なかたちであれ、暗示的なかたちであれ、観客に対して常に伝えているのである。ジョングルールは、現実の世界と物語の世界の間を絶えず行き来する。これこそがジョングルールの芸の特質なのである。しかし集団によるパフォーマンスのなかで、ジョングルールがこの技芸を用いて、二つの世界を行き来する様子を思い浮かべることは難しい。ジョングルールがある人物から別の人物へ、ある場所から別の場所へと自在に移行することができるのは、その技芸が単独のパフォーマンスに基づくものであるからなのである。

語りもの文芸は、単独の朗唱者による芸能であり、集団的パフォーマンスにはなじまない。語りものの文化が演劇の文化と一致することはほとんどなかったことは、これまでしばしば指摘されてきた。アラブやブラック・アフリカでは、あたかもこの二つの文化が共存不可能であるかのように、語りものの文化が消滅するとそれと入れ替わりに演劇の文化が出現している。フランスでは、14世紀になるとジョングルールは徐々に衰退し、その技芸は失われていった。それはおそらく、ペストや戦乱などこの時代の社会全体に関わる危機的状況のなかで、放浪の旅芸人であったジョングルールの顧客となる層が徐々にその活力を失ったために違いない。時代が進むにつれ、旅回りをやめて定住化するジョングルールが増えてきた。ジョングルールのなかには、特定の貴族に仕え、宮廷お抱えの芸人、作家として活動する者が出てきた。あるいはメネストレルménestrel、さらに時代が進むとメネトリエménétrierと呼ばれる芸人となり、音楽家や道化として宴会、舞踏会を盛り上げることをもっぱらの職務とするようになった。

ジョングルールの消滅によって生じた芸能の空白は、徐々に同業者による信心会の成員たちによる素人芝居によって埋められていった。前述したように、初期の受難劇に含まれる語りの詩行のなかには、ジョングルールたちのレパートリーで使われていた素材が再利用された痕跡を見出すことができる。中世の教会建築に、古代ローマの神殿の円柱が再利用されているのと同じように、信心会の素人役者たちはジョングルールの遺産を利用したのである。芸能者としての訓練を経ていない彼らにとって、ジョングルールによる語りのテクストを複数の演じ手によって上演されるためのテクストに書き換える作業は、簡単なものでなかったに違いない。残されたテクストの不器用さが、この作業の大変さを示している。14、5世紀の演劇テクストのタイトルにはしばしば「複数の人物による」par personnagesという語が添えられていることは興味深い。あたかも作品が単独の人物ではなくて、複数の人物によって演じられる芝居であることを明確に示すために添えられているかのようである。

単独のジョングルールから複数の役者たちによる表現への移行は、受難劇以外でも、おそらく同じようなかたちで行われた。ファブリオ(韻文小話)とファルス(笑劇)については、かなり以前から多くの研究で、その着想、主題、内容の親近性について指摘されてきた。この二つの文学形式が年代的に交錯するのも14世紀である。語りものジャンルであるファブリオは、その担い手であったジョングルールの消滅とともに消えてしまった。そしてこれと入れ替わるようにファルスが出現した。ファルスは、ファブリオと同じ素材を用い、その素材を「複数の人物による芝居」へと再構成したのである。ファルス冒頭にしばしば置かれる長大なモノローグや、最後に置かれる観客への呼びかけといった技法はおそらく、このジャンルが継承したジョングルール芸の痕跡だろう。

しかし複数の役者によって演じられる作品が、14世紀以前になかったわけではない。教会の演劇の枠組みとはまったく関係のないところで、北フランスの大商業都市、アラスでは、われわれが演劇と呼びうる作品が13世紀には既に成立していた。この世紀、アラスは、ジャン・ボデル、アダン・ド・ラ・アルといったジョングルール出身の詩人たちによる数編の演劇作品を残している。ジャン・ボデルによって13世紀初頭に書かれた『聖ニコラの劇』は、14世紀はじめの『パラティヌス受難劇』や『オタン受難劇』などの初期受難劇よりもはるかに高度で成熟した演劇性を備えている。

それでは13世紀のアラスは、なぜ演劇都市としてこのような特権性、先進性を持つことができたのだろうか。なぜジョングルールたちは、この町で演劇の作者となり、都市住民のための「町の広場の演劇」を作り出すことができたのだろうか。