【05-03】《長大な劇形式》作品巨大化の要因2013/01/05 00:54

聖史劇、そして道徳劇という巨大な演劇作品の上演は、都市にとって例外的な規模の大祝祭であり、稀にしか行われなかった。記録から欠落しているものはあるだろうが、1400年から1535年にあいだにドフィネ地方(フランス南東部)全体で上演された聖史劇と道徳劇の総数は三十ほどであり、平均すると十年に二作品が上演されたことになる。一人の人間が生涯の間に、大規模な演劇公演に立ち会うことのできる機会はそれほど多くはなかった。大押韻派の詩人、ジャン・ブシェ Jean Bouchet(1476-1550頃)は、ポワティエで1486年、1508年、そして1534年に受難劇の公演に立ち会った。三回目の公演のとき、彼は六十才だった。「私は生涯に三回の聖史劇の公演を観ることができた。自分の年齢を考えると、これは満足すべきことだ」とこの詩人は書き記している。

聖史劇はどのような機会に上演されたのだろうか? これは都市によってさまざまだった。フランス南東部の都市、ヴァランスでは25年毎にフェリクス、フォルトゥナ、アシレという三人の殉教聖人を題材にした作品を上演する習わしがあった。グルノーブルの南西、イゼール川沿いの都市、ロマンでの1509年の聖史劇上演は、ペストの災厄を逃れたことを神に感謝するために行われた。近隣の都市への競争意識が聖史劇上演のきっかけとなることもあった。例えば1500年ごろ、ドゥラン[アミアン北方の町]、アミアン[北フランス、ピカルディ地方の中心都市]、モンス[ベルギー南西部、エノー地方の町]で相次いで聖史劇の上演が行われた。また1534年から1536年のあいだには、ポワティエ[中仏、ポワトゥ地方の中心都市]、ソミュール[フランス西部、ロワール側沿いの町]、イスダン[中仏、ベリー地方の町]、さらにはブルージュ[ベリー地方の中心都市]で聖史劇の上演が行われた。

中世後期の都市生活における一大行事である聖史劇の上演は、観客である都市住民の啓発するための重要な機会でもあった。優れて教訓的ジャンルである聖史劇と道徳劇は、いずれも信仰に関わる問題を扱い、観客の魂を救済へと導くことがその重要な目的だ。それゆえ浄福と劫罰がこの二つのジャンルの大きな関心事となる。

しかし浄福と劫罰に関わる題材は実に幅広い領域にわたる。聖史劇の作者たちは、作品のなかであらゆる事象を語ることを目指した。ベルナール・フェーヴルは、当時の作者と観客たちにみられる完全な記述への志向に、聖史劇や道徳劇が徐々に長大化していった要因を見出そうとしている*。劇中で余すところなく事件を伝え、より詳しく説明するために、聖史劇の記述は次第に膨大なものになっていった。説教、拷問、奇跡のディテイルが、時代を下るにつれ書き加えられていく。劇中で展開する事件の筋書きをあらかじめ熟知している観客たちにとって、省略は欠落とみなされ、不評を招きかねなかったのである。

道徳劇では、徳を備えた魂が救済へと進み、罪深き魂が劫罰へと向かう道のりが、細々と描写された。聖史劇はキリストと守護聖人の生涯に関わる些末な事柄まで舞台にのせようとした。劇の結末は観客にとっては周知の事柄だった。作者はそれゆえ、これまでの作品で取り上げられることのなかった新しい主題の開拓ではなく、既によく知られている主題をより巧みに、すなわち先行する作品より詳細に、完全なかたちで表現することを目指した。グレバンの『受難劇』を、ジャン・ミシェルが書き換えたやり方にこうした発想を見て取ることができる。ジャン・ミシェルは改作にあたって、グレバンの書いた長台詞を保持したまま、さらにその上に長台詞を付加していった。こうした付加によってテクストはさらに完全なものに近づいていくのである。道徳劇では、寓意(アレゴリー)による擬人化をよりいっそう分析的に行うことによって、人間の魂の動きをより精緻に描写する作劇術を発展させていった。『罪深き人間 L'Homme pécheur』のなかで、痛悔の祈りの意義は「自分の罪を告白する恥ずかしさ」と「改悛を行うことへの恐れ」という二人の擬人化されたアレゴリーによって明らかにされる。このようにあらゆるディテイルが演劇化されていった。

十五、六世紀のフランスでは、歴史的・教訓的逸話が詰め込まれた巨大な百科事典的著作が流行したが、聖史劇と道徳劇は、演劇の領域のなかでキリスト教の浄福と劫罰に関わる事柄を総体として表現し、関係する知の集大成となることを目指したのである。聖史劇の舞台では、「天国─現世─地獄」の全てを包括する宇宙が具現化されている。その上演にかかる長さは、誕生から死までの、世界の創造から最後の審判まで長さの象徴となっている。善悪のあいだで永遠に繰り返される闘争がドラマの核となり、その闘争の描写は道徳劇では、ひとりの人間の内面で展開し、聖史劇ではときに世界全体のスケールにまで広がる。

Bernard Faivre, « La Piété et la Fête », dir. Jacqueline de Jomaron, Le Théâtre en France, Paris, Armand Colin, p. 86.

【05-04】《長大な劇形式》嗜虐的スペクタクルの聖性2013/01/09 18:54

聖史劇および道徳劇で提示される世界は、至高の君主である神と悪魔の長であるサタンが対立軸となる善悪二元論の世界である。サタンによって地上に送り出された悪魔や擬人化された様々な悪徳は、邪悪な助言をささやいて人間たちを罪に陥れようと誘惑する。

悪魔の登場場面、拷問、居酒屋での喧噪の様子の描写は、聖史劇のなかでかなり大きな比重を占め、長大な作品の息抜きとなる悪趣味な幕間寸劇とは言えない。グレバンの受難劇では、拷問の場面は7000行に達し、これは十七世紀の古典主義悲劇の約三本分の長さに相当する。拷問吏だけでなく、悪魔たち、地獄の亡者たちも舞台上で拷問を行った。こうした悪役は一流どころの役者たちによって演じられていた。暴力的な虐待、酩酊的狂騒ぶり、そして卑俗な冗談に興じるこれらの役柄には、バフチン的意味における民衆性、肉体性が具現されている。作品のなかでは「暴君」tyranと呼ばれることもある彼らは、人間の邪悪な側面を表象し、来世と対立する俗世を露悪的なかたちで象徴する存在なのである。

「暴君」たちが嬉々として行う惨たらしい拷問の場面は、当時の観客を大いに魅了したことは間違いない。この場面の表現には、せり機構を使って人間の役者と瞬時に入れ替わる血が噴き出す人形の趣向など、凝った演出上の仕掛けも用いられている。演劇において悪の場面は、常に優れて見世物的であり、観客を興奮させるものだ。聖史劇・道徳劇もまたその例外ではない。悪魔や死刑執行人といった人物は、残虐さと滑稽さを併せ持つ花形の道化役だった。道徳劇では、擬人化された悪徳が登場する場面は美徳の描写よりも生き生きとした精彩を帯びる。

こうした悪が活躍する場面は、聖史劇や道徳劇の教化劇としての役割と相反するものではない。キリスト教の道徳は、罪悪の魅力的な側面とその誘いの強さを否定することは決してなかった。観客は後ろめたさを感じつつも、悪趣味で残虐な場面を存分に楽しみ、そしてそのすぐ後で、不道徳な場面を見て喜びを感じたことに対し改悛の情を示すのである。このような感情の行き来を観客に生じさせることで、聖史劇は観客を教導していく。残虐な拷問を見世物として楽しむとき、観客は無慈悲で浅ましい拷問吏の共犯者となる。この拷問吏は道化師として観客を笑わせなくてはならない。それは観客が後で我に返ったとき、自分が笑ったことを後悔するように仕向ける必要があるからである。殉教の苦しみのなかで苦悶の表情を浮かべていた人間の肉体が、全能である神の奇跡によって聖者の身体へ変わり、輝きを放つとき、拷問の場面で加虐の背徳的な快感を「暴君」とともに享受していたのと同じ観客が、厳粛で敬虔な面持ちで、登場人物たちとともに神への賛歌《Te deum laudamus 神であるあなたを私たちは讃えます》を歌い始める。賛嘆、残酷さ、憐憫、喜び、苦悩、恐怖、卑俗さ、熱狂。観客の情動に激しい揺さぶりをかけることで、聖史劇・道徳劇のスペクタクルは、観客の理性ではなく、本能と感性に強烈に作用する。

聖史劇・道徳劇は作品の長大さのみならず、観客の数の面でも大規模の演劇であったことも忘れてはならない。フランス東部の町、オータンで1516年に上演された聖史劇は8万人の観客を集めたという。フランス南東部の町ロマンでは1509年の6公演が行われ、それぞれの公演で1800名の観客が集まった。総数では観客動員は1万人を超える。フランス北部の町、ヴァランシエンヌでは、1547年に25回の公演が行われ、それぞれに公演で5500人以上の観客が集まった。総数では13万人を越える観客動員があったことにある。21世紀の今、ロマンやヴァランシエンヌといった地方都市で、これほど大勢の観客を集めることのできる演劇は果たしてあるだろうか?