【04-08中世後期の演劇】〈短い劇形式〉ジャンルの役柄と役者について2012/09/20 22:36

ファルスに登場するいくつかの役柄は、演劇的類型へと発展していった。その一例が空威張り兵士〈マタモール〉matamoreである。作者不詳の『バニョレの自由射手*』(15世紀後半)は形式こそ独白劇ではあるが、そこで提示されているのはファルス的演劇世界の〈マタモール〉像に他ならない。「自由射手」は臆病なほら吹き兵士であり、滑稽なまでの大げさな重装備に身を固めている。彼は目の前に現れた敵兵に怯え、跪いて慈悲を請うのだが、それは実は案山子だった。しかしファルスに最も頻繁に登場する類型的人物は〈バダン〉badinである。〈バダン〉とはお人よしで愚か者の類型的役柄であり、ファルスでピエロの役割を担う。この役柄の演者は、特定のスタイルの衣裳を身につけ、独特の台詞回しと動きで演じた。〈バダン〉は顔にはおしろいを塗り、ビギン帽**をかぶっている。

〈阿呆(ソ)〉や〈バダン〉といった類型的役柄の形成と発達は、この二つの〈短い劇形式〉ジャンルの土台となっているのが、何よりもまず役者の演技であったことを示している。裸舞台といくつかの小道具だけの簡素な舞台も、役者の存在感を引き立てた。ソティやファルスの演劇的魅力は、結局のところ、阿呆(ソ)ないしファルス役者の芸に集約される。役者の芸の力が作品の成功に対し、決定的な影響力を持っていたのである。

ソティを読んでみると、このジャンルが役者に要求する言語的技巧が高度なものであることがわかる。台詞の多くが、言いよどんだり、あいまいな発声で読まれたりしては、その効果が失われてしまうような、名人芸の見せ所になっているのである。グランゴワールの『阿呆たちの王の劇』(1512)の口上はその最も名高いものの一つだ。

ファルスでは一般にソティほど凝った言語的技巧は要求されないが、その代わり身体の動きによる笑いが重視される。追跡劇、かくれんぼ、言い争い、変装、殴り合いといった身体を使ったギャグがファルスでは多用されている。ただし残念なことに現在まで伝わっている稿本、印刷本の大半にはこれらを指示するト書きが書き込まれていない。

ファルスでは歌もまた重要な役割を担っている。16世紀フランスは、フランス語特有の響きを生かした世俗的シャンソンが著しい発展をとげ、優れた作曲家が数多く出た時代だが、ファルスにはシャンソンの小曲が挿入されることが約束事のようになっていた。ファルスの役者は挿入されたシャンソンを歌いこなす技術も必要とされたのである。

ソティの阿呆は舞台上で歌う必要はなかったが、飛んだり跳ねたりするアクロバット技芸が要求された。ソティでは日常の秩序が逆転した「逆さまの世界」が提示されるが、その世界の住人である阿呆もまた尻と頭を逆にする逆立ちで演じる必要があったのである。

こうした技芸が上演に要求される〈短い劇形式〉ジャンルの役者たちは、職業的な役者だったのだろうか、それとも演劇公演を生活の糧としないアマチュアだったのだろうか。15世紀については、彼らはおおむねアマチュアの役者だったと言っていいだろう。ソティやファルスの上演の主体となったのは〈陽気な兄弟信心会〉などの団体のメンバー、裁判所書記見習いのバゾシュたち、そして学生である。町の祝祭などでの上演の際には、彼らに報酬や必要経費が支払われただろうが、彼らは演劇上演で生計を立てていたわけではなく、せいぜいセミプロといったところだろう。

しかし職業的演劇人がこの時代にいなかったわけではない。おそらく14世紀半ばのかなり早い時期から、ジョングルールの流れを組む旅芸人たちのなかには、演劇の上演を行うものもいた。ミシェル・ルスは、1389年に「ファルスの演者 joueur de farsses」、ジャン・ド・ベスル Jehan de Besceulがルーヴル宮のシャルル6世の前でいくつかの作品を上演した記録を確認している。またシャルル六世は1410年にも、ファトラス一座に演劇上演の報酬を支払っている。1427-1428年にはブルゴーニュ公のもとで、三夜にわたってファルスが上演され、演者に報酬が支払われた。

15世紀末になると、グランゴール、ソンジュ=クルことジャン・デュ・ポンタレなどプロの役者兼作者として名声を獲得する人物が登場しはじめる。彼らは演劇上演を取り仕切り、ソティ、ファルスなどの〈短い劇形式〉から大規模な聖史劇までの上演にかかわった。彼らは自分たちの一座を率いて、フランス王の宮廷からロレーヌ公の宮廷まで、各地の宮廷を渡り歩き、公演を行った。フェーヴルの演劇史で引用されているとある年代記作家が記すところによると、1524年、バール=ル=デュックにおけるロレーヌ公の洗礼式典で、「ソンジュクルーとその子供たち、マル=ム=セール(役立たず)、プ・ダケスト(もうけが少ない)、リアン・ヌ・ヴォ(無価値)が、昼と夜に、非常に滑稽で陽気なファルスの新作と旧作を上演した」という記録が残っている。

ただしこうした職業的芸人による演劇上演は、16世紀中頃までは必ずしも恒常的なものではなかったと考えられている。旅回り一座が町に対して上演許可を申請した記録の大半は、16世紀半後半以降のものである。観客から木戸銭をとるようになったのも16世紀後半以降だと考えられている。旅回りの大道芸人たちが芝居を上演した場合には、芸人は投げ銭を集めただろうし、結婚式などの余興で芝居を上演したときには招聘した個人が役者に報酬を支払っただろうが、一般的には観客は芝居の上演に対し、お金を払うことはなかった。役者たちに報酬を支払うのは王侯や町であり、演劇は通常、カーニヴァルなどの共同体の祝祭的状況のなかで上演されるものだったのである。

女性が舞台に立ったことを記した最も古い記録は、1333年のトゥーロンで上演された聖母の生誕劇で、聖母マリアを少女が演じたとある。しかし以後、女性が舞台に立ったことを示す記録はごくわずかしか残っていない。16世紀中頃まで女性が女性役を演じることは例外的であり、舞台に立つのはおおむね男性だったようだ。


*自由射手francs-archers:農民から徴募された免税の歩兵。シャルル7世(1403-61)が創設した歩兵隊。佐々木敏光氏が『バニョレの義勇射手兵』というタイトルでこの作品の翻訳をウェブに公開している。http://www4.ocn.ne.jp/~sas18091/vbagno.html
**ビギン帽:頭巾のようなデザインで、頭全体を覆い、顎の下で共布の帯紐を用いて留めるデザインの帽子。子供がかぶる。ベギン会修道女が被っていた頭巾に由来する。

コメント

_ (未記入) ― 2012/09/21 12:00

Facebookいつも拝見しています。
茅ヶ崎でモリエールを細々呼んでいる小俣優子と申します。

白塗りの顔? コメディ・フランセーズのモリエール作品のDVD(9本)でも
必ずといっていいほど白塗りの人がでてきます。
やはりおどけというか個性の強い人が塗っているようにも・・・

また、女性が出演していないとは、すぐに
日本の歌舞伎を連想しましたが・・・

いずれにしても、貴殿のブログでは
いつも熱い刺激を受けています。

ありがとうございます。

     茅ヶ崎  小俣 優子

_ KM ― 2012/09/22 01:14

小俣さん、コメントどうもありがとうございます。近代のピエロにつながる、おしろい道化はどうやらファルスのバダンにつながるようですね。イタリア起源のアルレッキーノが仮面をつけた道化だったのに対し、フランス起源の道化は白粉をつけていたようです。田之倉稔『ピエロの誕生』にそんなことが書かれていました。コメディ・フランセーズのモリエールは必ずしも歴史的真実性が重視されていないと思いますが、白粉役者の伝統は意識されているのかもしれません。
男優が女性を演じるというのは16世紀後半のシェイクスピアでもそうだったはずです。他の地域でもあるかもしれません。もしかすると案外普遍的なやり方だった可能性もあります。

_ Yoshi ― 2012/10/17 13:57

こんにちは。私も自分のブログで書きましたが (http://playsandbooks.blogspot.jp/2012/09/blog-post.html)、 イングランドでも女性が演劇に加わった記録は大変少ないです。しかし、一方で、プロテスタント期になってからと違い、中世では女性を組織的に排除したわけでもなく、他の職業と同様、女性が家庭内以外の仕事に就くことがほとんど無かったためと考えられます。しかし、イングランドの場合、細かく記録を拾っていけば、広い意味での芸能に参画している女性の例はかなり見いだせるようですから、フランスも同様ではないかと想像します。

ただ、シェイクスピア作品にうかがえるように、謂わば「女形」としての特殊性を意識した作劇とか演技がなされたのは16世紀になってからではないかと思います。

イングランドと違い、フランスには15世紀から中世の演劇人の固有名詞が残っている点は良いですね。上演記録を調べて研究できると面白そうです。

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