【04-07中世後期の演劇】ソティとファルス:上演舞台と衣裳2012/09/12 18:38

ファルスとソティといった《短い劇形式》の上演には、大がかりな舞台装置も豪華な衣裳も必要ない。簡素な仮設舞台さえあれば、これらの演劇は上演可能だ。中世の演劇用語では、この仮設舞台は「エシャフォ」échafaudと呼ばれた。16世紀のオランダの画家、ピーテル・バルテン Pieter Balten(1527-1584)の絵画のなかには、当時の村芝居の上演の状況が描かれている作品がいくつかあり、そこには仮設舞台も描かれている。バルテンが描いたのはフランドル地方の村の情景だが、フランスでもファルス、ソティといった《短い劇形式》の作品の多くは、バルテンが描いたような状況のなかで上演されていただろう。現代フランス語では「エシャフォ」は「死刑台」を意味することが多いが(この意味でのこの語の使用は14世紀半ばから確認することができる)、もともと建築などのために組まれる足場を意味していた。12世紀後半に「説教者の演台」、13世紀の終わりには「見世物の観客のための階段状の座席」を指すようになり、14世紀はじめから樽の上などに渡した板でできた幅5メートルほどの簡素な仮設舞台もこの語で呼ばれるようになった。

バルテンの絵からもこの「エシャフォ」の様子をうかがうことができる。舞台奥にはカーテンが引かれ、カーテンの後側が舞台裏になっている。演技者の入退場はこのカーテンの端から行われた。観客は正面から、あるいは三方から取り囲むかたちで、立ったまま舞台を見た。舞台の高さはかなり高い。大人の背丈ほどの高さがある。これは舞台がよく見えるようにするための工夫であったのと同時に、観客が舞台に押し寄せ、舞台のなかに入り込むことを防ぐ目的もあったかもしれないとフェーヴルは指摘している。

ファルスもソティは並演されることも多く、どちらも同じような簡素な仮設舞台で上演されていた。ただソティには登場人物が多い作品もあり、その場合はもっと広い舞台が必要だっただろう。またソティは野外だけでなく、裁判所や大学の建物のなかでも上演されることもあった。その場合は素舞台ではなく、劇の内容に合わせた何らかの舞台美術が使用されたこともあったはずだ。

しかしいずれせよ、舞台美術は何台かの家具が置かれる程度のごく簡素なものだった。テーブル、椅子、スツール、物置台、洗濯桶、ベッドくらいがあれば、現存する《短い劇形式》の作品の上演に不都合は生じない。舞台上に二つの場所が設定されている作品もあるが、この場合も二つの異なる場所は、家具の置くことで象徴的に示されただろう。例えば平均的なファルスの3倍の長さ(約1600行)の『パトラン先生*』(15世紀後半)の場合、パトランの家、布屋、法廷の三つの場が必要となるが、布屋は商品棚一台、パトランの家はベッド一台で示すことができる。法廷には判事が座る肘掛け椅子を一台置いておけば十分だろう。

舞台美術と同様に役者が着る衣裳も簡素なものだった。宮廷の道化師は黄と緑の二色に二等分された衣裳を伝統として身につけていたが、この衣裳は演劇の阿呆(ソ)には採用されなかった。阿呆は、ロバの耳がついたフード付きの灰色の地味な寛衣が決まった服装だった。〈放埒な阿呆〉であるとか〈過ぎゆく時間〉といった阿呆のヴァリエーションは、この阿呆という属性を示すロバの耳のフードのついた灰色の寛衣の上に、何らかの特徴的な服飾品を付け加えることで示された。ファルスでは、僧侶や医者といった役柄の場合は、登場人物の職業を特徴づけるような服装を役者は着用したが、それ以外は特に舞台衣裳というものはなく、普段着ている服を身につけてそのまま演じていた。

*渡辺一夫訳『ピエール・パトラン先生』岩波文庫、1963年。中世のファルスを代表するこの作品の内容については後述。

【04-08中世後期の演劇】〈短い劇形式〉ジャンルの役柄と役者について2012/09/20 22:36

ファルスに登場するいくつかの役柄は、演劇的類型へと発展していった。その一例が空威張り兵士〈マタモール〉matamoreである。作者不詳の『バニョレの自由射手*』(15世紀後半)は形式こそ独白劇ではあるが、そこで提示されているのはファルス的演劇世界の〈マタモール〉像に他ならない。「自由射手」は臆病なほら吹き兵士であり、滑稽なまでの大げさな重装備に身を固めている。彼は目の前に現れた敵兵に怯え、跪いて慈悲を請うのだが、それは実は案山子だった。しかしファルスに最も頻繁に登場する類型的人物は〈バダン〉badinである。〈バダン〉とはお人よしで愚か者の類型的役柄であり、ファルスでピエロの役割を担う。この役柄の演者は、特定のスタイルの衣裳を身につけ、独特の台詞回しと動きで演じた。〈バダン〉は顔にはおしろいを塗り、ビギン帽**をかぶっている。

〈阿呆(ソ)〉や〈バダン〉といった類型的役柄の形成と発達は、この二つの〈短い劇形式〉ジャンルの土台となっているのが、何よりもまず役者の演技であったことを示している。裸舞台といくつかの小道具だけの簡素な舞台も、役者の存在感を引き立てた。ソティやファルスの演劇的魅力は、結局のところ、阿呆(ソ)ないしファルス役者の芸に集約される。役者の芸の力が作品の成功に対し、決定的な影響力を持っていたのである。

ソティを読んでみると、このジャンルが役者に要求する言語的技巧が高度なものであることがわかる。台詞の多くが、言いよどんだり、あいまいな発声で読まれたりしては、その効果が失われてしまうような、名人芸の見せ所になっているのである。グランゴワールの『阿呆たちの王の劇』(1512)の口上はその最も名高いものの一つだ。

ファルスでは一般にソティほど凝った言語的技巧は要求されないが、その代わり身体の動きによる笑いが重視される。追跡劇、かくれんぼ、言い争い、変装、殴り合いといった身体を使ったギャグがファルスでは多用されている。ただし残念なことに現在まで伝わっている稿本、印刷本の大半にはこれらを指示するト書きが書き込まれていない。

ファルスでは歌もまた重要な役割を担っている。16世紀フランスは、フランス語特有の響きを生かした世俗的シャンソンが著しい発展をとげ、優れた作曲家が数多く出た時代だが、ファルスにはシャンソンの小曲が挿入されることが約束事のようになっていた。ファルスの役者は挿入されたシャンソンを歌いこなす技術も必要とされたのである。

ソティの阿呆は舞台上で歌う必要はなかったが、飛んだり跳ねたりするアクロバット技芸が要求された。ソティでは日常の秩序が逆転した「逆さまの世界」が提示されるが、その世界の住人である阿呆もまた尻と頭を逆にする逆立ちで演じる必要があったのである。

こうした技芸が上演に要求される〈短い劇形式〉ジャンルの役者たちは、職業的な役者だったのだろうか、それとも演劇公演を生活の糧としないアマチュアだったのだろうか。15世紀については、彼らはおおむねアマチュアの役者だったと言っていいだろう。ソティやファルスの上演の主体となったのは〈陽気な兄弟信心会〉などの団体のメンバー、裁判所書記見習いのバゾシュたち、そして学生である。町の祝祭などでの上演の際には、彼らに報酬や必要経費が支払われただろうが、彼らは演劇上演で生計を立てていたわけではなく、せいぜいセミプロといったところだろう。

しかし職業的演劇人がこの時代にいなかったわけではない。おそらく14世紀半ばのかなり早い時期から、ジョングルールの流れを組む旅芸人たちのなかには、演劇の上演を行うものもいた。ミシェル・ルスは、1389年に「ファルスの演者 joueur de farsses」、ジャン・ド・ベスル Jehan de Besceulがルーヴル宮のシャルル6世の前でいくつかの作品を上演した記録を確認している。またシャルル六世は1410年にも、ファトラス一座に演劇上演の報酬を支払っている。1427-1428年にはブルゴーニュ公のもとで、三夜にわたってファルスが上演され、演者に報酬が支払われた。

15世紀末になると、グランゴール、ソンジュ=クルことジャン・デュ・ポンタレなどプロの役者兼作者として名声を獲得する人物が登場しはじめる。彼らは演劇上演を取り仕切り、ソティ、ファルスなどの〈短い劇形式〉から大規模な聖史劇までの上演にかかわった。彼らは自分たちの一座を率いて、フランス王の宮廷からロレーヌ公の宮廷まで、各地の宮廷を渡り歩き、公演を行った。フェーヴルの演劇史で引用されているとある年代記作家が記すところによると、1524年、バール=ル=デュックにおけるロレーヌ公の洗礼式典で、「ソンジュクルーとその子供たち、マル=ム=セール(役立たず)、プ・ダケスト(もうけが少ない)、リアン・ヌ・ヴォ(無価値)が、昼と夜に、非常に滑稽で陽気なファルスの新作と旧作を上演した」という記録が残っている。

ただしこうした職業的芸人による演劇上演は、16世紀中頃までは必ずしも恒常的なものではなかったと考えられている。旅回り一座が町に対して上演許可を申請した記録の大半は、16世紀半後半以降のものである。観客から木戸銭をとるようになったのも16世紀後半以降だと考えられている。旅回りの大道芸人たちが芝居を上演した場合には、芸人は投げ銭を集めただろうし、結婚式などの余興で芝居を上演したときには招聘した個人が役者に報酬を支払っただろうが、一般的には観客は芝居の上演に対し、お金を払うことはなかった。役者たちに報酬を支払うのは王侯や町であり、演劇は通常、カーニヴァルなどの共同体の祝祭的状況のなかで上演されるものだったのである。

女性が舞台に立ったことを記した最も古い記録は、1333年のトゥーロンで上演された聖母の生誕劇で、聖母マリアを少女が演じたとある。しかし以後、女性が舞台に立ったことを示す記録はごくわずかしか残っていない。16世紀中頃まで女性が女性役を演じることは例外的であり、舞台に立つのはおおむね男性だったようだ。


*自由射手francs-archers:農民から徴募された免税の歩兵。シャルル7世(1403-61)が創設した歩兵隊。佐々木敏光氏が『バニョレの義勇射手兵』というタイトルでこの作品の翻訳をウェブに公開している。http://www4.ocn.ne.jp/~sas18091/vbagno.html
**ビギン帽:頭巾のようなデザインで、頭全体を覆い、顎の下で共布の帯紐を用いて留めるデザインの帽子。子供がかぶる。ベギン会修道女が被っていた頭巾に由来する。

【04-09後期中世の演劇】『パトラン先生』と〈短い劇形式〉ジャンルの演劇美学2012/09/24 18:37

作者不詳の『パトラン先生』は、その長さ(平均的ファルスの3倍の1599行)、しっかりした人物造形、筋立ての複雑さといった様々な点で他のあらゆるファルスを凌駕している。弁護士のパトランは、巧みな口舌を用いて羅紗屋から羅紗をだまし取る。羅紗屋が羅紗の代金を取りにパトランの家にやって来ると、女房のギユメットと共謀して、パトランは死ぬ間際の病人のふりをする。いくつもの方言と言語で錯乱したうわごとを叫ぶ断末魔のパトランを見て、羅紗屋は結局代金をあきらめて、店に戻る。憤懣やるかたない羅紗屋は、預けていた羊を殺して食べていた羊飼いチボーを訴える。パトランはこの羊飼いの弁護を引き受ける。パトランは羊飼いに裁判で判事に何を聞かれても、羊のようにひたすら「メー」と答えろと指示する。判事は羊飼いが言葉を理解できない知的障害者だと思い込み、羅紗屋の訴えを退ける。裁判が終わったあと、パトランは羊飼いに弁護報酬を請求するが、今度はパトランがはめられる番だった。羊飼いはパトランに対しても馬鹿のふりを続け、「メー」としか答えない。

このファルスの傑作は比較的初期の作品で、1470年以前に作られたと考えられている。この作品は大きな成功を収め、後の時代に数多くの版本が刊行された。ラブレーは、ほとんどこの作品を暗記していたほどである。しかし『パトラン先生』以後、この作品に匹敵するようなファルスの傑作は書かれることがなかった。この理由について、フェーヴルは『パトラン先生』の劇作術が、当時の演劇の標準的水準をはるかに越えたものだったからだと述べている。『パトラン先生』は筋立ての展開も巧みだが、とりわけ人物造形が卓越している。パトラン、羅紗屋、羊飼いという主要な役柄はもとより、脇役のギユメットや裁判官にも、役柄・性格にふさわしい、生き生きとした台詞が割り振られている。こうした優れた人物描写を舞台上で再現するには、戯曲をしっかりと読み取り、そのテクストに奉仕する才能を持つ演技者が必要とされる。しかし15、6世紀の〈短い劇形式〉の趨勢は、登場人物を丁寧な描写で書き分けていくよりもむしろ、登場人物の類型化を進展させる方向へ進んでいき、その結果、阿呆(ソ)やバダンといった演劇的類型がもてはやされるようになった。当時の観客は、ファルス、ソティといった〈短い劇形式〉に、役者個人の魅力とその名人芸に立脚した演劇を強く求めるようになったのである。

こうした流れのなかで、『パトラン先生』のようにしっかりと構築されバランスのある作品は書かれなくなったのだとフェーヴルは説明する。

『パトラン先生』のテクストもまた、この趨勢から逃れることはできず、後の時代の刊本では改変が加えられている。様々な方言や言語で断末魔のうわごとをわめき立てる錯乱の場は、『パトラン先生』の名場面に一つだが、この場は後の時代の刊本ではしばしば書き足され、拡大された。おそらくこの錯乱の場は、役者の技芸の見せ場となったはずだ。こうした書き足しによって作品全体のリズムは明らかに損なわれてしまっているのだが、当時の風潮は役者の名人芸の披露を作品のバランスより優先していたのである。

この個人芸への依存は、仮設舞台〈エシャフォ〉の演劇にとっては必然的なものだった。フェーヴルは、15、16世紀に民衆に支持されていたフランス中世劇が次の世紀の演劇にほとんど影響を残さなかったのは、この様式の演劇が演技者の才気にあまりに強く依存していたことがその原因の一つだと指摘している。ソティは16世紀以降、急速に創作力が衰え、忘れられていった。ファルスの影響は17世紀の喜劇に幾分かの痕跡を認めることはできるが、前世紀までの隆盛ぶりを思うとその影響はごく慎ましいものに過ぎない。