【04-01後期中世の演劇】概観2012/05/28 15:56

都市が発展し、封建体制が成熟期を迎えた13世紀は中世フランス文化の最盛期であり、中世文芸の傑作の多くはこの時代に作られた。しかし演劇ジャンルに関して言えば、14世紀以前にはアラス、パリなどの限定された地域で何編かの傑作が残されたものの、数としてはごくわずかの作品しか現存していない。残された作品数の面から言うと、フランス中世演劇の黄金時代は、15世紀から16世紀半ばとなる。これはホイジンガが《中世の秋》と呼んだ後期中世からルネサンスにかけての時代にあたる。後期中世には中世劇の代表的なジャンルが出そろった。長大な劇形式のジャンルとしては、聖史劇(ミステール)、受難劇(パッション)、寓意道徳劇(モラリテ)があり、短い劇形式としては笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)などがある。

14世紀は多くの点で中世の転換期となった時代である。フランスにとっては、数々の厳しい災害が襲いかかった過酷な試練の世紀となった。まず当時の総人口の三分の二を奪ったと言われるペストの大流行があった。また百年戦争が英仏の国土を荒廃させた。こうした厳しい状況は演劇活動にも当然影響し、この世紀は演劇ジャンルの発展も停滞した。前世紀まで演劇を含む文芸活動の担い手の中心だった職業芸人、ジョングルールの活動が衰退した。放浪の旅芸人であった彼らは、この時代、徐々に特定の貴族に仕える宮廷詩人、メネストレルとなっていった。ジョングルールの消滅とともに演劇のあり方も大きく変化した。ナポリ王、ルネ一世(1409-1480)のような例外はあるものの、複数の役者によって演じられる演劇作品は、貴族たちにとってはあまりにもブルジョワ的(都市住民的)なジャンルに感じられたがゆえに、宮廷では中世の終わり頃まで演劇の上演はあまり行われなかった。宮廷人が好んだ娯楽は、まず騎馬槍試合であり、その開催時には音楽と舞踊を伴う宴会も盛大に行われた。宮廷人が都市の広場に出かけ、そこで上演されていた演劇を見る機会は時にはあっただろうが、彼らは自分の宮廷のお抱え詩人に演劇作品を作るように命じることはなかった。演劇は職業的な芸人の手から離れ、その制作は徐々に都市の信徒団体などのアマチュアの手にゆだねられるようになっていった。

14世紀の演劇作品といえば、パリの金銀細工商の組合で上演された「複数の登場人物による聖母奇蹟劇集」がまず思い浮かぶ。この作品群の書法には13世紀の劇作技術の痕跡を数多く確認することができるが、その内容と形式は、前世紀の同じ主題の劇作品と比較すると明らかに後退している。「聖母奇蹟劇集」の作者である「凡庸な韻文職人」たちは、一編の劇作品をまとめあげる技術には長けていたものの、彼らの作品には、リュトブフの『テオフィールの奇蹟』にあるような緊張感のある文体や溌剌とした心理的描写を見出すことはできないと、ギュターヴ・コエンは評価している*。

14世紀は最初の受難劇そして笑劇(ファルス)が、同業者信徒団体に属するアマチュアたちの環境の中で作られ、上演され始めた時代でもあった。これらのアマチュアたちは、ジョングルールたちによって演じられていた語り物の形式の文芸を、複数の役者による演劇作品へと書き換えていった。しかしこの時期に書かれた作品の劇作術はまだ未熟で、15世紀以前には劇作家の称号に値するような作者は現れなかった。後期中世の演劇ジャンルが充実期を迎えるのは15世紀半ば以降となる。

後期中世の演劇ジャンルの進展をこの後の章では包括的に取り上げる。記述にあたっては、まず大きく《短い劇形式》(主に笑劇(ファルス)と阿呆劇(ソティ)がこれに属する)と《長い劇形式》(長編の寓意道徳劇及び聖史劇)の二つの劇形式に分けて中世後期の演劇のありかたを捉えていきたい。一般的には、中世劇といえば、長大で真面目な主題を扱う聖史劇がまず思い浮かぶだろう。しかし笑劇(ファルス)のような《短い劇形式》の作品は、後期中世において、長大な聖史劇や寓意道徳劇に付随する副次的形式ではなかった。ベルナール・フェーヴルは、後期中世演劇の特質は笑劇と阿呆劇といった《短い劇形式》にこそ強く現れており、その作品群は、現代人の視点からみても、もっとも精彩を放っていると主張している。

* COHEN (Gustave), Le Théâtre en France au Moyen Âge, Paris, Rieder, 1928 et 1931.