【04-09後期中世の演劇】『パトラン先生』と〈短い劇形式〉ジャンルの演劇美学2012/09/24 18:37

作者不詳の『パトラン先生』は、その長さ(平均的ファルスの3倍の1599行)、しっかりした人物造形、筋立ての複雑さといった様々な点で他のあらゆるファルスを凌駕している。弁護士のパトランは、巧みな口舌を用いて羅紗屋から羅紗をだまし取る。羅紗屋が羅紗の代金を取りにパトランの家にやって来ると、女房のギユメットと共謀して、パトランは死ぬ間際の病人のふりをする。いくつもの方言と言語で錯乱したうわごとを叫ぶ断末魔のパトランを見て、羅紗屋は結局代金をあきらめて、店に戻る。憤懣やるかたない羅紗屋は、預けていた羊を殺して食べていた羊飼いチボーを訴える。パトランはこの羊飼いの弁護を引き受ける。パトランは羊飼いに裁判で判事に何を聞かれても、羊のようにひたすら「メー」と答えろと指示する。判事は羊飼いが言葉を理解できない知的障害者だと思い込み、羅紗屋の訴えを退ける。裁判が終わったあと、パトランは羊飼いに弁護報酬を請求するが、今度はパトランがはめられる番だった。羊飼いはパトランに対しても馬鹿のふりを続け、「メー」としか答えない。

このファルスの傑作は比較的初期の作品で、1470年以前に作られたと考えられている。この作品は大きな成功を収め、後の時代に数多くの版本が刊行された。ラブレーは、ほとんどこの作品を暗記していたほどである。しかし『パトラン先生』以後、この作品に匹敵するようなファルスの傑作は書かれることがなかった。この理由について、フェーヴルは『パトラン先生』の劇作術が、当時の演劇の標準的水準をはるかに越えたものだったからだと述べている。『パトラン先生』は筋立ての展開も巧みだが、とりわけ人物造形が卓越している。パトラン、羅紗屋、羊飼いという主要な役柄はもとより、脇役のギユメットや裁判官にも、役柄・性格にふさわしい、生き生きとした台詞が割り振られている。こうした優れた人物描写を舞台上で再現するには、戯曲をしっかりと読み取り、そのテクストに奉仕する才能を持つ演技者が必要とされる。しかし15、6世紀の〈短い劇形式〉の趨勢は、登場人物を丁寧な描写で書き分けていくよりもむしろ、登場人物の類型化を進展させる方向へ進んでいき、その結果、阿呆(ソ)やバダンといった演劇的類型がもてはやされるようになった。当時の観客は、ファルス、ソティといった〈短い劇形式〉に、役者個人の魅力とその名人芸に立脚した演劇を強く求めるようになったのである。

こうした流れのなかで、『パトラン先生』のようにしっかりと構築されバランスのある作品は書かれなくなったのだとフェーヴルは説明する。

『パトラン先生』のテクストもまた、この趨勢から逃れることはできず、後の時代の刊本では改変が加えられている。様々な方言や言語で断末魔のうわごとをわめき立てる錯乱の場は、『パトラン先生』の名場面に一つだが、この場は後の時代の刊本ではしばしば書き足され、拡大された。おそらくこの錯乱の場は、役者の技芸の見せ場となったはずだ。こうした書き足しによって作品全体のリズムは明らかに損なわれてしまっているのだが、当時の風潮は役者の名人芸の披露を作品のバランスより優先していたのである。

この個人芸への依存は、仮設舞台〈エシャフォ〉の演劇にとっては必然的なものだった。フェーヴルは、15、16世紀に民衆に支持されていたフランス中世劇が次の世紀の演劇にほとんど影響を残さなかったのは、この様式の演劇が演技者の才気にあまりに強く依存していたことがその原因の一つだと指摘している。ソティは16世紀以降、急速に創作力が衰え、忘れられていった。ファルスの影響は17世紀の喜劇に幾分かの痕跡を認めることはできるが、前世紀までの隆盛ぶりを思うとその影響はごく慎ましいものに過ぎない。

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