【03-01十三世紀都市の演劇】演劇都市アラス2011/12/08 14:23

市庁舎と町の有力者たちの館がその周囲に立ち並ぶ大広場は、都市共同体の権力にとって象徴的な空間だった。広場では市が立ち、祝祭が行われた。宗教行事などの行列から住民の暴動まで、都市生活におけるあらゆる重要な出来事がここで繰り広げられた。そしてたいていの場合、演劇の上演も都市の中央にある大広場で行われた。もちろん中世の演劇公演の場は広場に限られていたわけではない。草原、墓地、屋内の広間などでも芝居は上演されていた。しかし中世の俗語による演劇作品は、少なくとも換喩的な意味合いにおいては、都市の広場と常に強く結びついていた。中世演劇はブルジョワ(ブルジョワとは語源的に「bourg」(町)の住民を意味する)による、ブルジョワのための演劇だったのである。13世紀都市は「武勲詩から『聖ニコラの劇』を、ファブリオから『少年と盲人』を、聖書の譬話から『アラスのクルトワ』を、教訓的説教譚から『テオフィールの奇跡』を、そしてさらには「複数の人物による聖母奇跡劇集」を、暇乞いの歌から『葉陰の劇』を、田園牧歌詩から『ロバンとマリオンの劇』」を創造した、とジャン=シャルル・パイヤンは記す*。中世都市のブルジョワたちは、既存の多くの文芸ジャンルを、都市共同体の文芸によりふさわしい演劇という形式に書き換えていったのだった。

パイヤンが引き合いに出した上記のテクストのうち、『テオフィールの奇蹟』と「聖母奇蹟劇集」はパリの作品だが、他の作品はすべてピカルディ地方、とりわけその中心都市であったアラスに関わりのある作者によって書かれた作品である。アラス近辺で制作・上演された演劇作品を記載する写本がたまたま現在までが残ったゆえに、演劇作品の制作地がこのように偏ってしまった可能性はある。他の地方でも演劇作品は制作・上演されていたが、それを記した写本は失われてしまった、あるいはそもそも記録されなかったのかもしれない。十編ほど現存する13世紀のフランス語演劇作品のうち、『聖ニコラの劇』と『葉陰の劇』という二つの重要な作品は同一の写本(Paris BnF fr. 25666)に記録され、しかもこの両作品を現在まで伝えるのはこの写本だけなのである。もしこの写本が焼失していたら、中世フランス演劇史の記述は現在あるものとはまったく異なったものになっていただろう。しかし、たとえアラス以外の都市でも演劇の制作・上演が行われていたとしても、中世演劇における13世紀アラスの特権的地位は揺らぐことはない。

12世紀末にコミューン都市として自治権を獲得したアラスは、13世紀には繊維工業や国際貿易の要として、大いに繁栄していた。裕福なブルジョワが台頭し、その経済力によって市参事会の掌握し、都市の支配階級を形成した。旧来の封建的貴族階級に対抗しようとした大ブルジョワたちは、封建貴族が行っていたように、祝祭、騎馬槍試合、そしてある種の文芸コンクールでもあった《ピュイ》と呼ばれるアラス独自の祭典を主催した。当時の文芸の担い手であったジョングルールたちは、アラスでは保護された。大ブルジョワたちによる文芸の奨励によって、ジョングルールたちはこの町では定住して創作活動を行う手段を手に入れることができたのである。アラスでは、ジョングルールたちは放浪の旅芸人でなく、都市の構成員の一部となった。この町では《ジョングルールとブルジョワの信心会》が組織され、この信心会の物故者名簿が現在まで伝わっている。この町で手に入れた安定した文芸環境のなかで、ジョングルールたちのなかには、文芸のパフォーマーとしてだけではなく、自ら詩人・作曲家となって、新たな文学形式を試みたり、既存の文芸形式をさらに洗練させたりする者が現れた。

もっともアラスの職業的なジョングルールの生活は、必ずしもうらやむべきものであったというわけではない。都市構成員として認められたといても、ジョングルールは大ブルジョワの奉公人であり、都市の上層階級に属してはいなかったのである。例えば、アラス出身のジョングルール兼詩人、アダン・ド・ラ・アルは市参事会の吏員の息子であり、彼の一族は資産を持ってはいなかった。アダンは一介のclerc(クレール)に過ぎなかった。フランス語のclercは一般的には「聖職者」を意味するが、アダンは聖職者として教会や修道院で生活していたわけではない。彼は結婚していた。clercは、学校に通って読み書きができるようになった人間を幅広く指しており、公証人、書記、秘書官、法律家、それらの見習い、学生、詩人などはすべてclercと呼ばれていた。要するにアダンは都市の支配階級であった大ブルジョワに経済的に従属した小ブルジョワのインテリだったのである。

*PAYEN, (Jean-Charles), « Théâtre médiéval et culture urbaine », Revue d’histoire du théâtre, 1983, p. 233-250.

【03-02十三世紀都市の演劇】社会の鏡としての演劇(『葉陰の劇』と『聖ニコラの劇』)2011/12/08 14:35

現存するアダン・ド・ラ・アルの二つの演劇作品のうちの一つである『葉陰の劇』には、アラスの大ブルジョワへの批判や風刺、皮肉がふんだんに盛り込まれているが、これを作者の社会的身分と関連づけ、この作品の反=都市貴族階級の側面を過大に見積もらないように注意しなくてはならない。『葉陰の劇』では幾人かの大ブルジョワたちの吝嗇ぶりが名指しで辛らつに批判されているが、作品で言及されていない別の大ブルジョワの一族が観客にいて、劇中のそうした場面で自分のライバルが批判されるのを満足げに眺めていた可能性もあるのだから。

もっとも『葉陰の劇』のなかに見られる現実社会の反映は、それまでの演劇には見られないものであることは確かである。作者はアラスの都市内部の対立に大胆に言及し、幾人かの人間を手厳しく批判する一方で、別の人間についてはその風刺にかなり手加減を加えている。『葉陰の劇』では、アダン・ド・ラ・アルの批判の矛先は都市の大ブルジョワたちにとどまらない。この頃、聖職者の免税特権の一部を廃止した教皇も批判の対象となっている。さらに大ブルジョワとして権勢をふるっていたクレスパン家とルシャール家の後ろ盾となっていたアラスの封建領主、アルトワ伯もまた、間接的にではあるが、批判されている。このような個人を名指しした直接的な風刺を行っている点で、『葉陰の劇』は十五世紀の阿呆劇(ソティ)の先駆けとなっている。

また阿呆劇と同じように、『葉陰の劇』の内容は、キリスト教よりはむしろ異教に由来する祝祭と強く結びついている。おそらくこの作品はペンテコステの祝日の前後に上演された。『葉陰の劇』には、年に一度、妖精たちが町の広場に到来する夜の出来事が記されている。この劇の中盤では、アラスの広場に到来した異教的な存在である妖精たちによる幻想的驚異が展開する。この妖精たちの口を借りて、通常ならまず許されないような辛辣な批判や自由な言説が繰り広げられる。『葉陰の劇』はおそらく、何回も再演されることを想定して作られた作品ではなく、一回きりの上演のために書かれた作品だった。再演が仮にあったとしても、再演の場では現実を写し取ったこのような作品の風刺の多くは効力を失い、理解されなくなってしまっていただろう。本来ならばこの種の作品は記録されることなく忘れ去られてしまったに違いない。『葉陰の劇』はアダン・ド・ラ・アルという、演劇のみならず多くのジャンルに作品を残した大詩人の作品であったがゆえに、写本に記録されるという幸運を得たのだろう。中世演劇作品で『葉陰の劇』ほど、具体性をもって同時代の現実を描き出した作品は他にはない。

ただし、もっと一般的なかたちで13世紀の世相を反映した内容を持つ演劇作品は他にもある。例えば、『聖ニコラの劇』の冒頭部では、十字軍に対する強い関心が表明されている。この作品は第四次十字軍(1200年頃)の頃に書かれた。『聖ニコラの劇』の作者、ジャン・ボデルは、聖人による奇跡という「聖者伝」で扱われてきた伝統的な素材を選択しつつ、従来の奇跡譚にはみられない独自のあり方でこの素材を提示している。まず劇の舞台となるのは十字軍の遠征先、サラセン軍の土地である。異教徒の王がキリスト教徒の侵入を知らされる場面で芝居は幕を開ける。『聖ニコラの劇』では、キリスト教徒は敵地でサラセン軍によってほぼ全滅の状態に追いやられてしまう。生き残ったキリスト教徒は一人だけで、彼はサラセン人に囚われの身となる。

『聖ニコラの劇』はおそらく、異教徒たちとの戦いの犠牲になったキリスト教戦士たちを讃える芝居でもあった。『聖ニコラの劇』の基調は悲劇的なものではないのだが、劇中で十字軍兵士たちが登場する唯一の場面にはパロディの笑いの雰囲気はない。サラセン人の大軍との決戦の直前の場面である。十字軍兵士たちは、数的に圧倒的に劣勢の状態にあり、決死の戦いとなることを承知している。取り乱すことなく、むしろ喜びをもって、この戦いへの覚悟を確認する彼らの姿には悲劇的な美しさがある。天使が彼らのそばに降り立つ。この戦闘による死は、戦士たちにとって驚異的な幸運なのである。というのも死によって彼らには殉教者の冠が与えられ、彼らの前に天国の門が開かれることになるからである。壮絶な戦いのあと、天使がキリスト教徒の遺体に言葉をかける。するとキリスト教の戦士たちは起き上がり、天使に導かれ天国へと向かう。当時の上演ではこうした場面が再現されたに違いない。しかし『聖ニコラの劇』で殉教は美しい行為として描かれてはいるが、その行為は異教徒には何ら影響をもたらすことはなかった。異教徒たちは聖ニコラの行う奇跡によって改宗へと導かれるのだが、その奇跡は聖戦の場では起きない。

サラセン王は宝物庫の鍵をわざとかけないままにして、そこに奇跡を起こすという聖ニコラの像を「番人」として置く。そして宝物庫の鍵がかかっていないことを国中に告知する。一晩その状態にしておいて、もし盗賊によって宝物庫の宝が盗まれていたら、サラセン王は捕虜のキリスト教徒を殺すことにしたのである。町の居酒屋でその話を聞いた盗賊は、宝を盗み出して、それを居酒屋に運び込んだ。すると聖ニコラが、その宝を取り戻すために居酒屋に姿を現した。そして聖ニコラの奇跡によって、宝は異教徒の王のもとに戻される。異教徒の王はこの奇跡によってキリスト教徒に改宗した。『聖ニコラの劇』で奇跡の場となるのは、多くのキリスト教徒が血を流した戦場ではなく、居酒屋なのである。