【05-02】《長大な劇形式》膨張するテクスト ― 2012/12/30 12:05
1500行を超える長さの『パトラン先生』、『8人の登場人物によるソティ』は例外として、ファルスとソティは、8音節詩行でおおむね300行から600行ぐらいの長さである。これに対し聖史劇(ミステール)と寓意道徳劇(モラリテ)には1万行を超える長さの作品がある。聖史劇で最長の作品は、シモン・グレバン Simon Grébanの『使徒行伝の聖史劇 Mystère des Actes des apôtres』で6万2千行、寓意道徳劇ではシモン・ブルゴワン Simon Bourgoinの『正しい人と俗世の人 L’homme juste et l’homme mondain』が3万行の長さである。作品の長大さはこの二つのジャンルの特徴だが、初期の段階からこのように長大であったわけでなく、時代が下るにつれ徐々に長くなっていったのである。
この点で受難聖史劇 Mystère de la Passion(聖史劇のなかでもイエスの受難を題材とする作品)の発展はきわめて特徴的である。現存する最初の受難劇である『パラティヌス受難劇 Passion Palatinus』(14世紀前半)は2000行ほどの長さである。サント=ジュニヴィエーヴ写本に記録された14世紀中頃の受難劇の長さは、4500行ほどだった。1430年頃に書かれたユスタシュ・メルカデ Eustache Mercadé(マルカデとも呼ばれる)の『アラスの受難劇』が長大化の口火を切る。『アラスの受難劇 Passion d’Arras』は2万5千行で、4つの部分に分割される。近代劇では「幕(acte)」と呼ばれるこの分割を、聖史劇では「日(ジュルネ journée)」と呼ぶ。
『受難劇』の作者として名高いアルヌル・グレバン Arnoul Grébanは、1450年に3万4500行の長さの『受難劇 Passion』を書いた。1486年にはグレバンの『受難劇』の第2日と第3日あたる部分(イエスの洗礼から埋葬の場面)を1486年にジャン・ミシェル Jean Michelが改訂し、この箇所だけを3万行に拡大して上演した。そして十六世紀のはじめに、グレバンとミシェルのテクストを合成した6万5千行に達する巨大な集成版が作成された。その後、この修正版『受難聖史劇』を土台とした改作版がいくつか作られた。
こうした長大の規模の受難聖史劇の上演には、数日間、場合によっては数週間が必要とされた。1547年のヴァレンシエンヌでの受難聖史劇の上演には25日間が必要であったし、1536年のブルージュでは40日間にわたって上演が続いた。パリでは上演が日曜と祭日に限られていたため、1541年の上演期間は、6、7か月に及んだ。受難聖史劇ほどではないとはいえ、聖人の事績を題材とする聖史劇も長大な作品が多かった。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュAndré de La Vigneの『聖マルタンの聖史劇 Mystère de Saint Martin』は1万行の長さ、ジャン・モリネ Jean Molinetの『聖カンタンの聖史劇 Mystère de Saint Quentin』では2万4000行に達した。聖史劇のなかには、宗教的題材を扱っていない作品もあった。ジャック・ミレ Jacques Milletの『トロイヤの破壊の物語 Histoire de la destruction de Troie』は3万行の作品で、フランスの諸王の祖先と当時見なされていたトロイヤ人の栄誉が称えられている。この作品は大きな成功を収め、多数の手写本と刊本が存在する。
15世紀後半以降、演劇作品の刊本が数多く出版されるようになった。これはこの時代、演劇が読書の対象にもなったことを示している。読書は単独で行われることもあれば、集団で行われることもあった。1507年に上演された『宴会の断罪』La Condamnation de Banquetというタイトルの寓意道徳劇の作者であるニコラ・ド・ラ・シェネ Nicolas de La Chesnayeは、作品のプロローグで次のように述べている。
「我々が芝居(ジュ jeux)、 あるいは寓意道徳劇(モラリテ)と呼ぶ作品を、人々の前で上演することは必ずしも簡単ではない。そしてまた、作品の上演を見るだけでなく、この作品を所有して、作品が読まれるのを聞きたいと考える人は多い。私は拙作が、役者の動作と言葉によって舞台上で上演されることを望むと同時に、これとは別の手段によって、すなわち拙作が勉学、娯楽、あるいは研究のために、個人によって読まれることも望んだのだ」
もちろん活版印刷術が戯曲の出版が後押したのである。十五世紀末になると受難聖史劇の刊本は一気に増大したが、こうした刊本戯曲の多くは、上演用の台本ではなく、読書のためのテキストだった。しかし活版印刷術の時代になっても、稽古で使用する台本については、手稿本が引き続き用いられた。中世演劇研究者のギュスターヴ・コエンの校訂による『受難聖史劇の公演監督のための手引き*』は、モンの町がアミアンの町から譲り受けた上演のための手引き書であり、1501年の上演の際に使用された。この手稿本に記録されている台本には、全篇にわたって話者交代の際の目印となる各台詞の最初と最後の行しか書かれていない。しかしその一方でこの手稿本には、舞台上の役者の動きや演技についての指示、音楽の導入など、極めて詳細なト書きが記されている。重要な演出に関わる指示は、このように手書きの写本に詳しく記述され、上演される各都市で参照されていたのである。上演用の手稿本は、信心会組織や都市の財産であり、次の上演まで保管された。戯曲の刊行と公演の成功には相関関係があった。刊行された戯曲には、公演で成功した旨が記されている。例えばジャン・ミシェルの『受難劇』の最初の刊本には、「この聖史劇は1486年8月末にアンジェ[ブルターニュ地方の内陸の町]で上演され、大きな成功を収めた」と記載されている。最初の刊本の出版後にこの作品はパリでも上演された。するとパリ上演後の刊本は、パリでの上演について言及している。
受難聖史劇や寓意道徳劇の長大さは、われわれにとってはひどく冗漫に思えるのだが、これらの戯曲はすべて上演されるために書かれた作品であり、そして実際に上演されていた。活版印刷の時代になり、演劇作品が読まれるようになったといっても、こうしたテクストは町の広場の多数の聴衆を前に読まれることが多かったのである。
*Gustave Cohen, Le Livre de conduite du régisseur et le compte des dépenses pour le Mystère de la Passion joué à Mons en 1501, Strasbourg, Istra, 1925.
この点で受難聖史劇 Mystère de la Passion(聖史劇のなかでもイエスの受難を題材とする作品)の発展はきわめて特徴的である。現存する最初の受難劇である『パラティヌス受難劇 Passion Palatinus』(14世紀前半)は2000行ほどの長さである。サント=ジュニヴィエーヴ写本に記録された14世紀中頃の受難劇の長さは、4500行ほどだった。1430年頃に書かれたユスタシュ・メルカデ Eustache Mercadé(マルカデとも呼ばれる)の『アラスの受難劇』が長大化の口火を切る。『アラスの受難劇 Passion d’Arras』は2万5千行で、4つの部分に分割される。近代劇では「幕(acte)」と呼ばれるこの分割を、聖史劇では「日(ジュルネ journée)」と呼ぶ。
『受難劇』の作者として名高いアルヌル・グレバン Arnoul Grébanは、1450年に3万4500行の長さの『受難劇 Passion』を書いた。1486年にはグレバンの『受難劇』の第2日と第3日あたる部分(イエスの洗礼から埋葬の場面)を1486年にジャン・ミシェル Jean Michelが改訂し、この箇所だけを3万行に拡大して上演した。そして十六世紀のはじめに、グレバンとミシェルのテクストを合成した6万5千行に達する巨大な集成版が作成された。その後、この修正版『受難聖史劇』を土台とした改作版がいくつか作られた。
こうした長大の規模の受難聖史劇の上演には、数日間、場合によっては数週間が必要とされた。1547年のヴァレンシエンヌでの受難聖史劇の上演には25日間が必要であったし、1536年のブルージュでは40日間にわたって上演が続いた。パリでは上演が日曜と祭日に限られていたため、1541年の上演期間は、6、7か月に及んだ。受難聖史劇ほどではないとはいえ、聖人の事績を題材とする聖史劇も長大な作品が多かった。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュAndré de La Vigneの『聖マルタンの聖史劇 Mystère de Saint Martin』は1万行の長さ、ジャン・モリネ Jean Molinetの『聖カンタンの聖史劇 Mystère de Saint Quentin』では2万4000行に達した。聖史劇のなかには、宗教的題材を扱っていない作品もあった。ジャック・ミレ Jacques Milletの『トロイヤの破壊の物語 Histoire de la destruction de Troie』は3万行の作品で、フランスの諸王の祖先と当時見なされていたトロイヤ人の栄誉が称えられている。この作品は大きな成功を収め、多数の手写本と刊本が存在する。
15世紀後半以降、演劇作品の刊本が数多く出版されるようになった。これはこの時代、演劇が読書の対象にもなったことを示している。読書は単独で行われることもあれば、集団で行われることもあった。1507年に上演された『宴会の断罪』La Condamnation de Banquetというタイトルの寓意道徳劇の作者であるニコラ・ド・ラ・シェネ Nicolas de La Chesnayeは、作品のプロローグで次のように述べている。
「我々が芝居(ジュ jeux)、 あるいは寓意道徳劇(モラリテ)と呼ぶ作品を、人々の前で上演することは必ずしも簡単ではない。そしてまた、作品の上演を見るだけでなく、この作品を所有して、作品が読まれるのを聞きたいと考える人は多い。私は拙作が、役者の動作と言葉によって舞台上で上演されることを望むと同時に、これとは別の手段によって、すなわち拙作が勉学、娯楽、あるいは研究のために、個人によって読まれることも望んだのだ」
もちろん活版印刷術が戯曲の出版が後押したのである。十五世紀末になると受難聖史劇の刊本は一気に増大したが、こうした刊本戯曲の多くは、上演用の台本ではなく、読書のためのテキストだった。しかし活版印刷術の時代になっても、稽古で使用する台本については、手稿本が引き続き用いられた。中世演劇研究者のギュスターヴ・コエンの校訂による『受難聖史劇の公演監督のための手引き*』は、モンの町がアミアンの町から譲り受けた上演のための手引き書であり、1501年の上演の際に使用された。この手稿本に記録されている台本には、全篇にわたって話者交代の際の目印となる各台詞の最初と最後の行しか書かれていない。しかしその一方でこの手稿本には、舞台上の役者の動きや演技についての指示、音楽の導入など、極めて詳細なト書きが記されている。重要な演出に関わる指示は、このように手書きの写本に詳しく記述され、上演される各都市で参照されていたのである。上演用の手稿本は、信心会組織や都市の財産であり、次の上演まで保管された。戯曲の刊行と公演の成功には相関関係があった。刊行された戯曲には、公演で成功した旨が記されている。例えばジャン・ミシェルの『受難劇』の最初の刊本には、「この聖史劇は1486年8月末にアンジェ[ブルターニュ地方の内陸の町]で上演され、大きな成功を収めた」と記載されている。最初の刊本の出版後にこの作品はパリでも上演された。するとパリ上演後の刊本は、パリでの上演について言及している。
受難聖史劇や寓意道徳劇の長大さは、われわれにとってはひどく冗漫に思えるのだが、これらの戯曲はすべて上演されるために書かれた作品であり、そして実際に上演されていた。活版印刷の時代になり、演劇作品が読まれるようになったといっても、こうしたテクストは町の広場の多数の聴衆を前に読まれることが多かったのである。
*Gustave Cohen, Le Livre de conduite du régisseur et le compte des dépenses pour le Mystère de la Passion joué à Mons en 1501, Strasbourg, Istra, 1925.
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