【05-05】《長大な劇形式》聖史劇上演のコスト2013/03/08 17:16

ジャン・フーケ(『聖女アポリナの殉教図』
 聖史劇(あるいは大規模な道徳劇)の上演は、都市の成員全体に関わる集団的な活動ではあったが、あらゆる社会階層の人間が同じ演劇的、宗教的熱狂のなかで共感し合うような民衆演劇のイメージは、中世演劇に付与された神話的幻想に過ぎない。聖史劇にも当時の都市の社会的身分のヒエラルキーが反映されていた。
 現存する役者と制作者のリストの調査からは以下のような事実が明らかになっている。聖史劇の制作・上演の核となり、王や皇帝といった高貴で見栄えのする主要な役柄を担当したのは、財力と権力を持つブルジョワの一族といった都市の有力者だった。舞台で使う衣装は役者が自前で用意しなくてはならず、その費用を負担できるだけの経済力が必要とされたのだ。舞台衣裳は、資産家にとって自分の裕福さを誇示する機会であり、互いに贅沢さを競い合った。上演の前日には「お披露目」が行われ、舞台衣装を身につけた役者たちが街中を行進した。このお練りはある種のファッションショーであり、その豪華さで道ゆく人たちを圧倒した。1536年のブールジュBourges(フランス中部の都市)の町で行われたお練りの記録には、何ページにもわたってサテン、金の縁飾り、高価な宝石、ダマスク織の生地、ビロードなどで作った衣装が列挙されており、物乞い役の役者でさえ絹の衣装を身につけていたとある。ブールジュは例外的に豪華だったわけではない。フランス北部の都市、ヴァランシエンヌの歴史家、ルイ・ウィカールLouis Wicart は1547年に行われた聖史劇上演の興行主の一人だった。彼は舞台衣装について次のような証言を残している。「役者たちは絹やビロード、さらには金糸の織物で作られた服装を身につけていた。それまでこの町では誰も作ったことも、見たことのないような非常に豪華で金のかかった着物だった」。
 同業者組合でもあった信心会組織が主催する聖史劇の上演もあった。都市の有力者が主催する大規模な聖史劇はキリストの受難を扱った受難劇Passionが多かったが、こうした信心会組織による聖史劇は、それぞれの組織の守護者の聖人を題材とする比較的小規模な作品が多く、出演者の社会的階層も高くなかった。1402年に国王シャルル六世から首都での聖史劇の独占的上演権を獲得したパリ受難劇協会のメンバーは、中層あるいは下層の町人だった。パリ高等法院の検察官は、この上演組織のメンバーは「指物師、下級役人、絨毯織師、魚売りといった卑しい身分の者たち」からなっていたと記している(1541年)。
しかし、こうした比較的小規模な聖史劇の上演においても都市の社会的秩序は尊重された。ジャン・フーケのあの有名な細密画(『聖女アポリナの殉教図』)を今一度注意深く見てみよう。ここで上演されている聖史劇は大規模で豪奢なものではない。上層のボックス席は、町の名士やブルジョワといった金のある観客のための座席だ。一般民衆の観客は、平土間で立ったまま、あるいは地ベタに座って芝居を観ている。どの聖史劇でも観客席はこのような二つのカテゴリーに分かれていた。比較的安い値段の平土間席では、上演の回毎に入場料を支払う必要があった。一方、高価なボックス席は、上演期間のあいだ、ずっと貸し切りとなった。
 演劇公演で入場料を観客から取るようになったのは、この時代からである。当時の物価を考慮すると、入場料の設定はずしも高額であったとは言えない。ロマンでの聖史劇上演では、平土間席の値段は当時の土木工や石工の日当の15から20パーセントほどだった。仮に日当を1万円と考えると、1500円から2000円ということになる。それほど無理をしなくても支出可能な金額であるように思える。おそらく裕福ではない庶民は、通常上演期間が数日間におよぶ聖史劇を通しで全てみたわけではなく、見せ場となる場面だけを見たのだろう。会計簿の記録からは、受難劇上演ではイエスの磔の場面が上演される日が、最も多くの観客を集めていたことがわかる。裕福なブルジョワの観客はボックス席を借り切って、上演期間は毎日芝居を見に通ったのだろう。ボックス席は通常三人から六人の定員で、一人あたりの料金は平土間席の2、3倍高額だった。付近の都市の住民たちが大量に見物にやってきて入場料が高騰することもあった。