【05-01】《長大な劇形式》聖史劇と道徳劇:ジャンルの名称について2012/10/28 02:13

ここからは後期中世の演劇ジャンルのうち、《長大な劇形式》、すなわち聖史劇〈ミステール mystère〉と道徳劇〈モラリテ moralité〉について述べる。この二つの劇ジャンルは、長大化の傾向、教訓的意図、見世物的で豪華な上演形式という共通点を持っている。

道徳劇は、〈人間〉〈力〉〈悪意〉〈偽善〉〈愛〉〈嫉妬〉など,人間の善と悪に関わる道徳的・倫理的抽象観念を擬人化した寓意(アレゴリー)を登場人物とする演劇ジャンルであり、この種の演劇はフランスだけでなく、イギリスやドイツでもこの時代、流行した。英語の作品としては、15世紀末に作られた『エヴリマン』Everymanがよく知られている。寓意的人物が登場する文学作品の伝統は古代末期、4世紀のキリスト教ラテン詩人、プルデンティウスPrudentiusの『霊魂をめぐる戦い』Psychomachiaまで遡ることができる。フランス語では、13世紀にギヨーム・ド・ロリスGuillaume de Lorrisとジャン・ド・マン Jean de Meungによる教訓物語詩『ばら物語』Roman de la roseの大きな成功によって、擬人化された抽象概念による寓意教訓文学の伝統が確立し、その流れのなかから道徳劇が生まれた。

《長大な劇形式》のなかに道徳劇を含めることについては、異論があるかもしれない。フランス語の道徳劇のなかには数百行の長さしかない作品もあるからである。15、6世紀に作られたフランス語の道徳劇は80編ほどが現存しているが、他の劇ジャンルとの境界は必ずしも明確ではない。道徳劇〈モラリテ〉と記されているものの、実際にはあきらかにソティ(阿呆劇)に近い短い作品がいくつかある。また特定のジャンルに分類しがたい作品が、その内容とは無関係に〈モラリテ〉と称されている例もある。アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュAndré de la Vigneの『盲人と足の不自由な人のモラリテ』Moralité de l’aveugle et du boiteuxは、標題に〈モラリテ〉とあるものの、その内容はファルスに近く、長さも8音節平韻詩行で260行ほどしかない。この作品は同じ作者による『聖マルタンの聖史劇』Mystère de saint Martinに続いて上演された。

二人の不具者がいた。盲人と足の不自由な人である。彼らは自分の障害を見世物にして人々の同情をひき、物乞いをして生計を営んでいた。ところがある日、埋葬するために人々が運んでいた聖マルタンの遺骸とすれ違ってしまったため、聖マルタンの奇跡によって二人は健常者になってしまった。盲人は目が見えることになったことを喜び、神に感謝したが、足の不自由な人は、健常者になってしまうと物乞いがうまくいかなくなってしまうため、聖人を恨んだ。そしてその後も不具のふりを続けた。この作品がその内容にも関わらず「道徳劇」と題されているのは、おそらく聖人の奇跡が介入する作品を「ファルス」と題するのに作者が抵抗を感じたからだろう。

また当時の刊本や文献では聖史劇(ミステール )と記されているけれど、内容は寓意的人物が登場する道徳劇であり、現在の研究者が〈モラリテ〉に分類している劇作品も少なくない。聖史劇(ミステール mystère。中世ではmistèreと綴られることが多かった)は、かつては「神秘劇」と訳されることもあったが、語源的にはこの劇ジャンルの名称は「神秘」を意味するラテン語 mysterium(ミステリウム)ではなく、「職業、職務」を意味するラテン語 ministerium(ミニステリウム)に由来する。フランス語の「ミステール」は、15世紀には宗教的な内容を含む大規模な見世物の類を指し示す総称となった。その代表が聖書などに取材した宗教的主題の長大な規模の演劇作品だが、ある程度以上の長さのある作品は、その内容にかかわらずmistèreと呼ばれることが当時は多かったのである。いわゆる演劇作品に限らず、王の都市入城の際に活人画、「パ・ダルム」Pas d'armesと呼ばれる軍事隊列行進、騎士階級の娯楽である見世物的騎馬槍試合、あるいは王の戴冠式なども「ミステール」と呼ばれた。

【04-09後期中世の演劇】『パトラン先生』と〈短い劇形式〉ジャンルの演劇美学2012/09/24 18:37

作者不詳の『パトラン先生』は、その長さ(平均的ファルスの3倍の1599行)、しっかりした人物造形、筋立ての複雑さといった様々な点で他のあらゆるファルスを凌駕している。弁護士のパトランは、巧みな口舌を用いて羅紗屋から羅紗をだまし取る。羅紗屋が羅紗の代金を取りにパトランの家にやって来ると、女房のギユメットと共謀して、パトランは死ぬ間際の病人のふりをする。いくつもの方言と言語で錯乱したうわごとを叫ぶ断末魔のパトランを見て、羅紗屋は結局代金をあきらめて、店に戻る。憤懣やるかたない羅紗屋は、預けていた羊を殺して食べていた羊飼いチボーを訴える。パトランはこの羊飼いの弁護を引き受ける。パトランは羊飼いに裁判で判事に何を聞かれても、羊のようにひたすら「メー」と答えろと指示する。判事は羊飼いが言葉を理解できない知的障害者だと思い込み、羅紗屋の訴えを退ける。裁判が終わったあと、パトランは羊飼いに弁護報酬を請求するが、今度はパトランがはめられる番だった。羊飼いはパトランに対しても馬鹿のふりを続け、「メー」としか答えない。

このファルスの傑作は比較的初期の作品で、1470年以前に作られたと考えられている。この作品は大きな成功を収め、後の時代に数多くの版本が刊行された。ラブレーは、ほとんどこの作品を暗記していたほどである。しかし『パトラン先生』以後、この作品に匹敵するようなファルスの傑作は書かれることがなかった。この理由について、フェーヴルは『パトラン先生』の劇作術が、当時の演劇の標準的水準をはるかに越えたものだったからだと述べている。『パトラン先生』は筋立ての展開も巧みだが、とりわけ人物造形が卓越している。パトラン、羅紗屋、羊飼いという主要な役柄はもとより、脇役のギユメットや裁判官にも、役柄・性格にふさわしい、生き生きとした台詞が割り振られている。こうした優れた人物描写を舞台上で再現するには、戯曲をしっかりと読み取り、そのテクストに奉仕する才能を持つ演技者が必要とされる。しかし15、6世紀の〈短い劇形式〉の趨勢は、登場人物を丁寧な描写で書き分けていくよりもむしろ、登場人物の類型化を進展させる方向へ進んでいき、その結果、阿呆(ソ)やバダンといった演劇的類型がもてはやされるようになった。当時の観客は、ファルス、ソティといった〈短い劇形式〉に、役者個人の魅力とその名人芸に立脚した演劇を強く求めるようになったのである。

こうした流れのなかで、『パトラン先生』のようにしっかりと構築されバランスのある作品は書かれなくなったのだとフェーヴルは説明する。

『パトラン先生』のテクストもまた、この趨勢から逃れることはできず、後の時代の刊本では改変が加えられている。様々な方言や言語で断末魔のうわごとをわめき立てる錯乱の場は、『パトラン先生』の名場面に一つだが、この場は後の時代の刊本ではしばしば書き足され、拡大された。おそらくこの錯乱の場は、役者の技芸の見せ場となったはずだ。こうした書き足しによって作品全体のリズムは明らかに損なわれてしまっているのだが、当時の風潮は役者の名人芸の披露を作品のバランスより優先していたのである。

この個人芸への依存は、仮設舞台〈エシャフォ〉の演劇にとっては必然的なものだった。フェーヴルは、15、16世紀に民衆に支持されていたフランス中世劇が次の世紀の演劇にほとんど影響を残さなかったのは、この様式の演劇が演技者の才気にあまりに強く依存していたことがその原因の一つだと指摘している。ソティは16世紀以降、急速に創作力が衰え、忘れられていった。ファルスの影響は17世紀の喜劇に幾分かの痕跡を認めることはできるが、前世紀までの隆盛ぶりを思うとその影響はごく慎ましいものに過ぎない。

【04-08中世後期の演劇】〈短い劇形式〉ジャンルの役柄と役者について2012/09/20 22:36

ファルスに登場するいくつかの役柄は、演劇的類型へと発展していった。その一例が空威張り兵士〈マタモール〉matamoreである。作者不詳の『バニョレの自由射手*』(15世紀後半)は形式こそ独白劇ではあるが、そこで提示されているのはファルス的演劇世界の〈マタモール〉像に他ならない。「自由射手」は臆病なほら吹き兵士であり、滑稽なまでの大げさな重装備に身を固めている。彼は目の前に現れた敵兵に怯え、跪いて慈悲を請うのだが、それは実は案山子だった。しかしファルスに最も頻繁に登場する類型的人物は〈バダン〉badinである。〈バダン〉とはお人よしで愚か者の類型的役柄であり、ファルスでピエロの役割を担う。この役柄の演者は、特定のスタイルの衣裳を身につけ、独特の台詞回しと動きで演じた。〈バダン〉は顔にはおしろいを塗り、ビギン帽**をかぶっている。

〈阿呆(ソ)〉や〈バダン〉といった類型的役柄の形成と発達は、この二つの〈短い劇形式〉ジャンルの土台となっているのが、何よりもまず役者の演技であったことを示している。裸舞台といくつかの小道具だけの簡素な舞台も、役者の存在感を引き立てた。ソティやファルスの演劇的魅力は、結局のところ、阿呆(ソ)ないしファルス役者の芸に集約される。役者の芸の力が作品の成功に対し、決定的な影響力を持っていたのである。

ソティを読んでみると、このジャンルが役者に要求する言語的技巧が高度なものであることがわかる。台詞の多くが、言いよどんだり、あいまいな発声で読まれたりしては、その効果が失われてしまうような、名人芸の見せ所になっているのである。グランゴワールの『阿呆たちの王の劇』(1512)の口上はその最も名高いものの一つだ。

ファルスでは一般にソティほど凝った言語的技巧は要求されないが、その代わり身体の動きによる笑いが重視される。追跡劇、かくれんぼ、言い争い、変装、殴り合いといった身体を使ったギャグがファルスでは多用されている。ただし残念なことに現在まで伝わっている稿本、印刷本の大半にはこれらを指示するト書きが書き込まれていない。

ファルスでは歌もまた重要な役割を担っている。16世紀フランスは、フランス語特有の響きを生かした世俗的シャンソンが著しい発展をとげ、優れた作曲家が数多く出た時代だが、ファルスにはシャンソンの小曲が挿入されることが約束事のようになっていた。ファルスの役者は挿入されたシャンソンを歌いこなす技術も必要とされたのである。

ソティの阿呆は舞台上で歌う必要はなかったが、飛んだり跳ねたりするアクロバット技芸が要求された。ソティでは日常の秩序が逆転した「逆さまの世界」が提示されるが、その世界の住人である阿呆もまた尻と頭を逆にする逆立ちで演じる必要があったのである。

こうした技芸が上演に要求される〈短い劇形式〉ジャンルの役者たちは、職業的な役者だったのだろうか、それとも演劇公演を生活の糧としないアマチュアだったのだろうか。15世紀については、彼らはおおむねアマチュアの役者だったと言っていいだろう。ソティやファルスの上演の主体となったのは〈陽気な兄弟信心会〉などの団体のメンバー、裁判所書記見習いのバゾシュたち、そして学生である。町の祝祭などでの上演の際には、彼らに報酬や必要経費が支払われただろうが、彼らは演劇上演で生計を立てていたわけではなく、せいぜいセミプロといったところだろう。

しかし職業的演劇人がこの時代にいなかったわけではない。おそらく14世紀半ばのかなり早い時期から、ジョングルールの流れを組む旅芸人たちのなかには、演劇の上演を行うものもいた。ミシェル・ルスは、1389年に「ファルスの演者 joueur de farsses」、ジャン・ド・ベスル Jehan de Besceulがルーヴル宮のシャルル6世の前でいくつかの作品を上演した記録を確認している。またシャルル六世は1410年にも、ファトラス一座に演劇上演の報酬を支払っている。1427-1428年にはブルゴーニュ公のもとで、三夜にわたってファルスが上演され、演者に報酬が支払われた。

15世紀末になると、グランゴール、ソンジュ=クルことジャン・デュ・ポンタレなどプロの役者兼作者として名声を獲得する人物が登場しはじめる。彼らは演劇上演を取り仕切り、ソティ、ファルスなどの〈短い劇形式〉から大規模な聖史劇までの上演にかかわった。彼らは自分たちの一座を率いて、フランス王の宮廷からロレーヌ公の宮廷まで、各地の宮廷を渡り歩き、公演を行った。フェーヴルの演劇史で引用されているとある年代記作家が記すところによると、1524年、バール=ル=デュックにおけるロレーヌ公の洗礼式典で、「ソンジュクルーとその子供たち、マル=ム=セール(役立たず)、プ・ダケスト(もうけが少ない)、リアン・ヌ・ヴォ(無価値)が、昼と夜に、非常に滑稽で陽気なファルスの新作と旧作を上演した」という記録が残っている。

ただしこうした職業的芸人による演劇上演は、16世紀中頃までは必ずしも恒常的なものではなかったと考えられている。旅回り一座が町に対して上演許可を申請した記録の大半は、16世紀半後半以降のものである。観客から木戸銭をとるようになったのも16世紀後半以降だと考えられている。旅回りの大道芸人たちが芝居を上演した場合には、芸人は投げ銭を集めただろうし、結婚式などの余興で芝居を上演したときには招聘した個人が役者に報酬を支払っただろうが、一般的には観客は芝居の上演に対し、お金を払うことはなかった。役者たちに報酬を支払うのは王侯や町であり、演劇は通常、カーニヴァルなどの共同体の祝祭的状況のなかで上演されるものだったのである。

女性が舞台に立ったことを記した最も古い記録は、1333年のトゥーロンで上演された聖母の生誕劇で、聖母マリアを少女が演じたとある。しかし以後、女性が舞台に立ったことを示す記録はごくわずかしか残っていない。16世紀中頃まで女性が女性役を演じることは例外的であり、舞台に立つのはおおむね男性だったようだ。


*自由射手francs-archers:農民から徴募された免税の歩兵。シャルル7世(1403-61)が創設した歩兵隊。佐々木敏光氏が『バニョレの義勇射手兵』というタイトルでこの作品の翻訳をウェブに公開している。http://www4.ocn.ne.jp/~sas18091/vbagno.html
**ビギン帽:頭巾のようなデザインで、頭全体を覆い、顎の下で共布の帯紐を用いて留めるデザインの帽子。子供がかぶる。ベギン会修道女が被っていた頭巾に由来する。

【04-07中世後期の演劇】ソティとファルス:上演舞台と衣裳2012/09/12 18:38

ファルスとソティといった《短い劇形式》の上演には、大がかりな舞台装置も豪華な衣裳も必要ない。簡素な仮設舞台さえあれば、これらの演劇は上演可能だ。中世の演劇用語では、この仮設舞台は「エシャフォ」échafaudと呼ばれた。16世紀のオランダの画家、ピーテル・バルテン Pieter Balten(1527-1584)の絵画のなかには、当時の村芝居の上演の状況が描かれている作品がいくつかあり、そこには仮設舞台も描かれている。バルテンが描いたのはフランドル地方の村の情景だが、フランスでもファルス、ソティといった《短い劇形式》の作品の多くは、バルテンが描いたような状況のなかで上演されていただろう。現代フランス語では「エシャフォ」は「死刑台」を意味することが多いが(この意味でのこの語の使用は14世紀半ばから確認することができる)、もともと建築などのために組まれる足場を意味していた。12世紀後半に「説教者の演台」、13世紀の終わりには「見世物の観客のための階段状の座席」を指すようになり、14世紀はじめから樽の上などに渡した板でできた幅5メートルほどの簡素な仮設舞台もこの語で呼ばれるようになった。

バルテンの絵からもこの「エシャフォ」の様子をうかがうことができる。舞台奥にはカーテンが引かれ、カーテンの後側が舞台裏になっている。演技者の入退場はこのカーテンの端から行われた。観客は正面から、あるいは三方から取り囲むかたちで、立ったまま舞台を見た。舞台の高さはかなり高い。大人の背丈ほどの高さがある。これは舞台がよく見えるようにするための工夫であったのと同時に、観客が舞台に押し寄せ、舞台のなかに入り込むことを防ぐ目的もあったかもしれないとフェーヴルは指摘している。

ファルスもソティは並演されることも多く、どちらも同じような簡素な仮設舞台で上演されていた。ただソティには登場人物が多い作品もあり、その場合はもっと広い舞台が必要だっただろう。またソティは野外だけでなく、裁判所や大学の建物のなかでも上演されることもあった。その場合は素舞台ではなく、劇の内容に合わせた何らかの舞台美術が使用されたこともあったはずだ。

しかしいずれせよ、舞台美術は何台かの家具が置かれる程度のごく簡素なものだった。テーブル、椅子、スツール、物置台、洗濯桶、ベッドくらいがあれば、現存する《短い劇形式》の作品の上演に不都合は生じない。舞台上に二つの場所が設定されている作品もあるが、この場合も二つの異なる場所は、家具の置くことで象徴的に示されただろう。例えば平均的なファルスの3倍の長さ(約1600行)の『パトラン先生*』(15世紀後半)の場合、パトランの家、布屋、法廷の三つの場が必要となるが、布屋は商品棚一台、パトランの家はベッド一台で示すことができる。法廷には判事が座る肘掛け椅子を一台置いておけば十分だろう。

舞台美術と同様に役者が着る衣裳も簡素なものだった。宮廷の道化師は黄と緑の二色に二等分された衣裳を伝統として身につけていたが、この衣裳は演劇の阿呆(ソ)には採用されなかった。阿呆は、ロバの耳がついたフード付きの灰色の地味な寛衣が決まった服装だった。〈放埒な阿呆〉であるとか〈過ぎゆく時間〉といった阿呆のヴァリエーションは、この阿呆という属性を示すロバの耳のフードのついた灰色の寛衣の上に、何らかの特徴的な服飾品を付け加えることで示された。ファルスでは、僧侶や医者といった役柄の場合は、登場人物の職業を特徴づけるような服装を役者は着用したが、それ以外は特に舞台衣裳というものはなく、普段着ている服を身につけてそのまま演じていた。

*渡辺一夫訳『ピエール・パトラン先生』岩波文庫、1963年。中世のファルスを代表するこの作品の内容については後述。

【04-06中世後期の演劇】ソティとファルス─権力との関係2012/08/28 02:38

ソティは本質的に、この世の現状を批判し、その担い手と見なされる人々への異議申し立てを行う劇ジャンルである。このためソティと権力層との関係はきわめてデリケートなものとなる。既に指摘したように、ソティで阿呆(ソ)たちの演じ手の中心は、何よりもまず〈バゾシュ〉と呼ばれる司法職見習いの学生たちであり、彼らは中流ブルジョワ階級に属していた。この階級に属する若者たちは、自分たちが政治において何らかの役割を担うことを熱望していた。そして自ら進んで君主の相談役でありたいと考えていたようなのである。国王権力は、ソティの世相批判の対象外だった。世の腐敗の原因は、国王ではなく、常に国王のとりまきの大臣たちや評定官のせいとされた。

しかしながらソティの世相批判のせいで、作者や役者が権力から弾圧を被ることも時にはあった。〈大押韻派*〉の詩人としても知られているアンリ・ボド(Henri Baude, 1415頃-1590以降)は、1486年に上演した阿呆劇の内容が問題にされ、4人の〈バゾシュ〉とともに数ヶ月間、監獄で過ごすはめになった。ボドは、若き国王、シャルル8世(位1483-98)を泉にたとえ、国王の側近たちを、泉を覆う草、根、瓦礫にたとえることで、宮廷を風刺したのである。フランソワ一世(位1515-47)が統治を開始した翌年、1516年にも、三人の役者が宮廷批判のかどで投獄された。彼らが上演した劇にあった「阿呆の母(mère-sot)が宮廷を牛耳っている。この阿呆母のせいでどれほどあらゆるものが、台無しなり、略奪され、かすめ取られたことだろうか!」というセリフが権力層を刺激したのだ。

フランソワ一世の前の王、ルイ12世(位1498-1515)の時代だったなら、このような批判は黙認されたかもしれない。高名な詩人であるシャルル・ド・オルレアンを父とするルイ12世は、寛大でリベラルな王だった。〈大押韻派〉の宮廷詩人、ジャン・ブシェは、次のようなルイ12世の言葉を記している。「私は人々が自由に芝居を演じて欲しいと思うし、[その芝居を通じて]私の宮廷で行われている不正を若者たちが糾弾することを望んでいる。というのも聴罪司祭たちと賢人たちは不正が行われていてもそれを口にしようとはしないからだ」。

おそらくルイ12世の寛大さの裏側には、演劇を自分に引き込むことで政治的に利用するという狡猾な計算があったはずだ。ソティの風刺は当時、かなり大きな影響力を持っていたのである。グランゴール(1475?-?1538)の『阿呆の王たちの劇』は、ソティが国王権力の政治的プロパガンダとして用いられた一例である。この作品は1512年のカーニヴァルの際にパリのレ・アルで上演された。『阿呆たちの王の劇』では、〈裁判形式のソティ〉の枠組みを使って、カーニヴァルと四旬節の戦いの主題が取り上げられている。この劇ではカーニヴァルの阿呆たち(sots-Carnaval)の王はルイ12世を表し、その敵である四旬節の〈阿呆の母〉は教皇ユリウス2世の化身である。カーニヴァルは最後には四旬節を打ち負かし、〈阿呆の母〉が着ていた法衣を脱がしてしまう。教皇の権威を象徴する法衣をはぎ取られた〈阿呆の母〉は単なる阿呆に過ぎない。このように、ソティによってルイ12世の国外政策やローマ教皇、ユリウス2世(位1503-1513)との闘争は正当化されたのである。しかし実際には、ソティを己の政治的プロパガンダの手段として活用しようとしたルイ12世は例外的な存在である。この後に続くフランソワ一世の治世では、ソティの内容は厳しく監督され、このジャンルは風刺の力強さを失った。そして高等法院が戯曲の事前の検閲なしに上演を行うことを禁じたことによって、ソティは決定的に衰弱してしまう。

一方ファルスは、16世紀になってもソティのようにその活力を失うことはなかった。ファルスの上演内容が政治権力に問題視されることは極めて稀だった。というのもファルスはその笑いの性質上、作品のなかに政治的メッセージや特定の個人への攻撃が入り込む余地がなかったからである。騙し騙される世界が展開し、劇中での激しい暴力の場面などが含まれるファルスは、キリスト教が公認する道徳とはかけ離れている。しかしファルスの笑いは反道徳的ではあったけれども、反体制的なものではない。ソティとは異なり、ファルスには真面目な政治的メッセージは含まれておらず、それゆえファルスは危険なものであるとみなされなかったのである。

ファルスの笑いは要するに観客の日常的な抑圧の解消の手段である。観客はファルスの上演を見ているあいだ、粗野で乱暴な登場人物たちに、観客自身が持っている悪魔的な衝動を投影したが、そこに道徳的教訓を見ることはなかったのである。ファルスの登場人物は市井の庶民階級の人間が主だったので、ブルジョワや貴族の観客たちにとっては、最終的には、ファルスの笑いは下層階級への軽蔑の色合いを帯びる。劇中で表現される低俗な衝動は低俗な下層階級の人間のものであるとして、距離を取ることが可能だった。庶民の観客にとっては、ファルスの棒打ちのドタバタギャグは、格好の鬱憤晴らしとなったであろうし、騙し騙される展開は、より強き者への敬意と従順、そして生き延びるために手段を選ばない処世のあり方を示すものとなっただろう。キリスト教的な道徳には反しているが、持てる者たちが支配する世の中は、ファルスの批判の対象ではない。それゆえファルスは、国家権力が周期的に起こる大衆の抑圧解消の衝動を問題視するようになる17世紀の絶対王政の時代まで、問題視されることはなかったのである。

ソティは政治的な鬱憤晴らしであり、ファルスは道徳的な鬱憤晴らしである。中世後期を代表するこの二つの短い劇形式に見られる表現上のリアリズムを過大に評価すべきではない。ソティとファルスは現実を模倣することよりもむしろ、現実世界を笑いによってひっくり返すことのほうが重要だった。〈逆さまの世界〉を舞台上で提示することによって、上演の間、観客をこの裏返しの共犯者にしたてることこそ、この両ジャンルの目的だったのである。

*〈大押韻派〉les grands rhétoriqueurs 15世紀後半から16世紀前半にかけて、極めて技巧的で高度な修辞を用いた詩を書いた宮廷詩人たちを指す。

【04-05中世後期の演劇】ソティ(阿呆劇)の社会風刺2012/08/19 17:10

ファルスでは暴力が支配するドタバタの笑いが優位にあり、その登場人物は現実社会と結びついた具体的な身体を持っている。これに対して、ソティ(阿呆劇)の登場人物は、もっとあいまいで抽象的な存在である。

阿呆sot(ソ)は伝統のなかで形成された類型的役柄である。ソティの阿呆は、狂人と道化の二つの意味を持つfou(フ)とつながりを持つ。狂人および道化は一般社会からは追放された、時に煩わしく、時に滑稽な存在であるが、神の刻印を授けられた聖なる神秘的存在であるとも見なされていた。「狂人、道化」を意味するfouは、ソティのなかで阿呆sot(ソ)という演劇的類型となった(ソティの阿呆sotは作品によってはfouと呼ばれることもある)。演劇的道化である阿呆は、それゆえあらゆる社会的所属から切り離されており、あらゆるタブーから解放されている。

ソティには複数の阿呆が登場することがあるが、個々の阿呆には個別的性格は付与されていない。劇中で阿呆は固有名を持っていない。第1の阿呆、第2の阿呆と番号で呼ばれたり、あるいは「穴あき頭」、「抜け目のない顔」、「消息を知らせる者」と呼ばれたりする。阿呆は言語的存在である。阿呆の演劇的実体は自分の話す台詞によって、そしてその台詞に割り当てられた批判的な機能によってのみ、その存在が保証される。阿呆は、ちまたで人が口を敢えて閉ざしている事柄、小声でささやかれている事柄を大声で叫ぶ。尊敬しなくてはならない人々を愚弄し、表立った批判が躊躇されるような大物を告発する。しかし阿呆が存在を許されるのは舞台の上でのみなのだ。阿呆のことばが意味を持ち得るのは舞台上だけ、すなわち空想上の場だけなのである。ことばによって現実の世界を改革しようなどという大それた目論見を阿呆たちは持っていない。

ソティには大きく二つの型がある。ジャン=クロド・オバイは、この二つの型をそれぞれ〈裁判形式のソティ sottie-jugement〉と〈筋立てのあるソティ sottie-action〉と呼んでいる*。いずれも擬人化によって演劇的身体を与えられたアレゴリックな人物が登場する。〈裁判形式のソティ〉の場合、〈阿呆の母〉もしくは〈阿呆たちの王〉と呼ばれるリーダーの指示に従って、阿呆たちの集団は自分たちの法廷に〈世界〉を呼び出し、次第に悪化していく〈世界〉を糾弾し、尋問を行う。〈世界〉は、作品によっては〈人々〉、〈数人の人〉、〈各々〉と呼ばれることもある。裁判での尋問を通して、この世の退廃の責任がどこにあるのかが追及される。現実の政治や社会の問題があからさまに風刺と批判の対象になることもあるが、最終的には責任の所在は用心深くぼかされ、〈時間〉と〈狂気〉という擬人化された抽象概念がこの世の災いの原因とされる。〈裁判形式のソティ〉では、阿呆の集団はこのように現実世界の外側に身を置き、外側から社会の不幸を批評し、裁くのである。

一方、〈筋立てのあるソティ〉では、阿呆はそれぞれ何らかの社会的集団を具現している。劇の題材となったあらゆる社会集団は阿呆であると風刺されていることになる。アンドレ ・ド・ラ・ヴィーニュ André de La Vigne(1457頃-1527頃)の『8人の登場人物によるソティ』はこのタイプのソティの典型的な作品だ。
〈世界〉を眠らせた後、〈濫用〉は自分が育てた樹木から落ちてきた6個の果実、〈放埓な阿呆〉(教会を表象する)、〈自惚れた阿呆〉(貴族)、〈腐敗した阿呆〉(法律家)、〈嘘つきの阿呆〉(商人)、〈無知の阿呆〉(民衆)、〈愚かな阿呆女〉(女性)とともに、今ある世界を壊し、新しい世界を作り出すことを決意する。新しい世界は、〈混乱〉を土台とし、6人の阿呆を柱にして、舞台上に組み上げられる。しかし最後に〈愚かな阿呆女〉を巡る争いで、新しい世界を表す建造物は崩壊し、古い世界の秩序が回復する。この作品の主題は世界を作り変えることであるが、今の世界を破壊した後で阿呆たちが作りあげたのは、現状の世界よりもさらに劣悪な世界なのだ。

〈筋立てのあるソティ〉では、阿呆たちは世界外存在として、言葉によって社会を外側から批判するのではなく、劇的世界のなかの存在として世間から批判されるべき非道徳的な振る舞いを自ら舞台上で再現することで、社会を風刺する。このため〈筋立てのあるソティ〉は〈裁判形式のソティ〉に比べると現実社会に対する批判はさらに間接的なものとなり、その攻撃性は弱まっている。〈筋立てのあるソティ〉で提示される風刺は、権力層にある人間にとってより受け入れやすいものになっているのである。

* AUBAILLY (Jean-Claude), Le Théâtre médiéval profane et comique, Paris, Larousse, 1975.

【04-04中世後期の演劇】ファルス(笑劇)の劇世界2012/08/19 02:57

中世後期(15、16世紀)に作られた《短い劇形式》の作品、すなわちファルス(笑劇)とソティ(阿呆劇)は約250編が現存しているが、これは当時、実際に上演された作品のごく一部に過ぎない。B. C. ボーエンによると、この二つのジャンルの違いは、作品内容の現実へのかかわり方にある*。ファルスの登場人物は、家庭を持ち、職業、身分など現実社会の人間の属性を備え、しばしば固有名を持っている。これに対してソティでは、具体性が乏しい象徴的で曖昧な場で劇が展開する。登場人物の数はたいてい多くて、「第1の阿呆(ソ)」、「第2の阿呆」といった具合に番号によって示されることがある。

フェーヴルによるファルスの目録によると、現存するファルスは176編を数える。そこに登場する主な人物は、職人、小商人、ゆすりたかりを行う無頼の徒など、15、16世紀の庶民である。町の中に足を踏み入れた途端、騙されてしまう田舎者もファルスの重要な登場人物だ。田舎者の扱いに、ファルスが本質的に都市住民の観客を対象とした演劇であることが表れている。ファルスの主な舞台は町であり、その展開の核となるのは町の住民たちの間に起こるいざこざである。

貴族が主要な登場人物となっているファルスもあるが、こうしたファルスでは作品の舞台が田舎になっている。貴族はファルスでは笑いものにされる側である。例えば『貴族とノデ**』は、貴族に妻を寝取られたノデという名前の下僕が、仕返しに貴族の妻を寝取る話である。劇の最後でノデは自分の主人である貴族に、「ノデの真似をもうしてはいけませんよ。私もご主人様の真似はもうしませんから」と助言する。
『鶏小屋***』は次のような内容である。コガネムシ氏(Monseiur de la Hannetonnière)とチョウチョ氏(Monsieur de la Papillonnière)の二人の貴族は、粉屋の妻を口説く目的で、夫の留守中に粉屋の家にやって来る。最初にチョウチョ氏がやって来るが、間もなくコガネムシ氏がやって来たのでチョウチョ氏は鶏小屋の中に身を隠した。コガネムシ氏が粉屋の女房を口説こうとしたところで、粉屋の夫が帰宅したため、コガネムシ氏も鶏小屋に隠れた。粉屋は二人の貴族の妻を家に連れて来た。貴族の妻と粉屋、そして粉屋の妻も加わって、四人は大宴会を始める。二人の貴族は、鶏小屋で臆病に身を隠したまま、そのらんちき騒ぎを見守るはめになった。最後に粉屋の夫は鶏小屋に隠れていた貴族たちを見つけ、鶏小屋から引きずり出す。そして人の女房に手を出そうとしたことを謝罪させ、粉屋が抱えていた借金を帳消しにさせる。
ファルスではこのように、田舎貴族もまた都市の観客たちの笑いの対象になっている。もっとも貴族が登場するファルスの数は多くない。ファルスによく登場するのは、靴直し職人、臓物料理屋、金物屋、居酒屋店主、そして僧侶といった人物である。韻文笑話のファブリオと同様に、ファルスに登場する僧侶や司祭は常に好色で貪欲で、聖務日課書を開くよりも他人の妻をものにすることに熱心であるような人物ばかりである。

ファルスの登場人物たちの関心は、即物的な欲望と直結している。食べること、セックスすること、そして金を手に入れること。これらの欲望を満たすためのあらゆる策略は正当化される。また騙されたことに対する復讐もファルスの世界では奨励される。復讐にはしばしば手に棒を持って相手を叩きのめすドタバタ喜劇的な手段が用いられる。
『パテとタルト****』では、腹を空かせた二人のならず者は、ケーキ屋の女房を騙して売り物のウナギのパテを手に入れる。一度成功して味を占めた二人は、今度はタルトを同じように手に入れようとするが失敗し、ケーキ屋の夫に棒で散々打ちのめされる。ファルスの世界では、棒で人を殴りつける側にいることが好ましいこととされる。弱い者、騙される側であるよりは、たとえ愚かであっても強い者の側にあることが、ファルスではよしとされるのである。

夫婦の対立はファルスの主要な主題だが、そこでもファルス特有の強者の論理が展開の鍵となることが多い。『洗濯桶*****』の主人公ジャキノは、妻の言いなりになってあらゆる家事を押し付けられる気弱な夫であるが、妻が洗濯桶の中から出ることができない状態になると、その立場が逆転する。最終的には力強き性である男性原理で話は締め括られるのである。

ファルスの演劇性の本質は、他人を騙し、笑いものにすることである。ベルナデット・レ=フロはファルスfarceの二つの語源について次のように説明する******。ファルスの語源の一つは« fars »でありこれは「詰物」(食べ物にも、衣類にも用いる)を意味する。もう一つの語源は« fart »であり、これは「化粧、変装」を意味する。この二つの語源はどちらもその意味の根底に「ごまかし」というニュアンスが含まれている。詰物も化粧も偽りの見かけを与えることで真実の姿をごまかすものだからである。ファルスにはまさにそういった人物たちが登場する。本来は従順であるはずの妻たちは、ファルスの世界では怒りっぽく、亭主をがみがみ怒鳴りつける。宗教者は猥褻で、貴族たちは品位に乏しい。判事は無能で、勇ましげな兵士は実は臆病者である。しかしこうした愚かで間抜けな人間たちが、意外な機転を発揮することがある。ファルスの世界では、間抜けな人間が状況をしばしばひっくり返し、騙そうとする人々を逆に騙したりする。他人を騙し、笑いものにすること、それは社会によって当然だと考えられている秩序に対する異議申し立てである。

ファルスではこの世間の秩序と力関係は、単純な肉体的な力に基づく関係にたいてい置き換えられる。夫たちは妻の平手打ちを恐れて妻の言いなりになる。『鶏小屋』の粉屋の主人は腕力でもって貴族たちを押さえつける。中世ファルスの傑作、『ピエール・パトラン先生*******』では、いかさまの達人であるパトランは羅紗屋と判事たちを狡猾な手段で丸め込んだものの、愚鈍な羊飼いがパトランの呼びかけに「ベー」と羊の鳴き真似をひたすら繰り返すのには、どうにも対処しようがなく、礼金を手にすることができなかった。

ファルスの世界では暴力と策略が賛美される。そこで重要なのは、食べ物、セックス、あるいは金といった即物的な欲望に身を委ね、他人持ち物を奪い取り、享受することである。しかしその力関係はたやすく逆転する。先ほど騙された人間が今度は棍棒を手に復讐にやって来て、今度はこちらを打ちのめすかもしれないのだから。

* BOWEN (Barbara), Les Caractéristiques essentielles de la farce française et leur survivance dans les années 1550-1620, Urbana, University of Illinois Press, 1964.
** FAIVRE (Bernard), Répertoire des fraces françaises des origines à Tabarin, [s.l.], Imprimerie nationale, 1993. N°70. Le Gentilhomme,Lison, Naudet, La damoiselle (autre titre : Le Gentilhomme et Naudet).
*** Ibid. N°138. Le Poulailler à six personnages (autres titres : Le Poulier à six personnages; Les Deux gentilhommes et le meunier).
**** Ibid. N°125. Le Pâté et la tarte.
***** Ibid. N°43. Le Cuvier.
****** REY-FLAUD (Bernadette), La Farce ou la machine à rire, Genève, Droz, 1984.
******* FAIVRE,op.cit. N°95. Le Maître Pierre Pathelin (autre titre : Pathelin).渡辺一夫訳『ピエール・パトラン先生』東京:岩波書店、《岩波文庫》、1963年。

【04-03中世後期の演劇】都市祝祭から生まれた演劇ジャンル2012/08/02 00:05

こうした集団が次々と結成され都市の祝祭を中心となって運営するようになるにつれて、祝祭の意味も変わっていった。民衆の大部分は祭の担い手から、祭での出し物を受動的に楽しむ客になった。15、16世紀になると、カーニヴァルなどの祝祭は、都市の権力層である大ブルジョワが住民全体に向けて提供する巨大なスペクタクルへと徐々に変質していった。主催者として祭に関わるのは住民の一部となり、祝祭の広場では民衆を楽しませるために演劇上演が行われるようになった。演劇では、当然のことながら、演じ手である役者と観客の間にははっきりとした区分が設けられる。笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)といったジャンルの芝居が、こうした都市の祝祭の余興として上演されるようになった。芝居の上演には当時のブルジョワたちの活動の最も活発で革新的な面が現れている。ジャン=クロード・オバイによると、演劇活動はまず15世紀中頃にロワール川、セーヌ川、ソーヌ川の三河川の流域にある都市で活性化した*。これは政商ジャック・クール**によって商業的および産業的に急激に発展した地域と重なる。これに加え、古くからのブルジョワによる都市統治の伝統を持つ北方のいくつかの大都市でも演劇活動が活発に行われるようになった。

この時代の平均的中層ブルジョワ階級が演劇へ示していた強い関心は、〈バゾシュ〉と呼ばれるパリ高等法院の代訴人見習いのコミュニティによる演劇活動にまず見て取ることができるだろう。バゾシュのメンバーの多くはブルジョワ出身で、当時急激に拡大していた司法職見習いの学生だった。彼らは〈阿呆たちの王〉、〈阿呆の母〉、〈ガキ将軍〉といった名前の祝祭のための組織を形成した。またこうした組織はバゾシュたちの間の係争をとりまとめる裁判も行った。この裁判は正式の訴訟ではなく、人々を笑わせることを目的とした見世物としての裁判だった。この司法見習い生による模擬裁判の発展したかたちが、〈脂っこい訴訟〉causes grassesと呼ばれる演劇的な滑稽訴訟であり、カーニヴァルの最後にたびたび上演された。この時代の代表的な喜劇ジャンルである笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)も、法廷でのやりとりを連想させる劇構造を持つ作品が多く、バゾシュとの関わりが深いと考えられている。司法見習い生の組織であるバゾシュは15世紀から16世紀初頭のパリと地方の演劇の発展の中で主要な役割を担うことになる。彼らは、カーニヴァルなどの祝祭で許されていた自由のなかで、演劇という表現手段を通じて、社会批判や自分たちの政治的メッセージを発信したのである。バゾッシュの演劇はしばしば、国王の評議官の腐敗したありさまを辛辣に風刺した。

祝祭の無礼講は住民の不満のガス抜きという機能がある。都市の支配層は、祝祭を準備し、統制すると同時に、その祝祭のなかでの若いエネルギーの横溢を許容した。教会による祝祭への糾弾はこの時代にますます激しさを増し、頻繁に行われるようになった。これは教会の糾弾にもかかわらず、祝祭の勢いが衰えることのなかったことを逆説的に示している。それに教会の祝祭に対する態度も一貫したものではなかった。例えば中世以来、年末年始にかけて下級の聖職者たちによって行われていた愚者祭は多くの教会で黙認されていた。司教に対する教会参事会会員の批判が、愚者祭で上演される演劇のかたちで表明されることもあった。フェーヴルが引用している1445年のトロワの教会の記録には以下のように記されている。

割礼の祝日(1/1)に、聖ペテロ教会と聖エティエンヌ教会、および聖ウルバン教会の参事会は、ラッパを鳴らして、町の人々を中心にある広場に呼び集めた。そこに組み上げられた高さのある仮設舞台で演劇作品の上演が行われた。その内容は司教と大聖堂の高位聖職者たちの行状をあてこすって、辛辣に批判するものだった。主要な登場人物は三人で、彼らはそれぞれ「偽善」「見せかけ」「偽装」と呼ばれる。観客たちはこの三人の登場人物に司教と祝祭の開催を阻止しようとしていた二人の参事会員を重ね合わせた。これらの人たちは祝祭の開催を阻止しようとしていたのである。彼らのふるまいに、賢き人々は不満を抱き、憤慨していたのだ。

祝祭的状況での演劇上演は盛んになっていった。不満分子たちは、演劇表現によって、権威と社会を風刺し、批判した。この初期的段階でよく上演されたジャンルは、〈陽気な説教〉sermons joyeuxと呼ばれるパロディ的モノローグ劇だった。焼網の上で殉教した聖ニシン様の栄誉を称えるために、聖ロラン、聖アンドゥイユ[臓物のソーセージ。陰茎の意味もあり]、聖ビユアールは次のような姿勢で祈りを捧げるよう命令する。

背中を上に、腹を下に、腹ばいになって祈るのだ。
破廉恥なことをしてはならないぞ。真面目に祈れ。
女たちは男たちの上に乗っかって祈るのだ。

〈陽気な説教〉は形式的には命令書や遺言書のパロディであることが多く、食欲や性欲に関わる笑いが中心となるテーマとなっている。また狼が羊に追いかけられ、偉大な人物が小人であるような《逆さまの世界》が描写された道化(阿呆)たちのナンセンスな戯れ言(ファトラジー)のような説教もある。

阿呆劇の研究者であるオバイは、こうした独白体の劇を母胎に対話体の劇の形式が生み出されたと推定している。独白劇のなかには、複数の異なる人物の独白から構成された作品がある。こうした作品は、単独の語りからなる独白劇から複数の人物の対話によって構成される阿呆劇(ソティ)や笑劇(ファルス)の中間形態であり、独白劇から対話劇への移行を示しているとオバイは主張している。ただしオバイのこの仮説は理論的なものであり、現存する中世演劇作品の制作年代を見る限り、独白劇が対話劇に先行して現れたジャンルであるとは言えない。

阿呆劇(ソティ)や笑劇(ファルス)は、独白劇と共通した土壌から生み出された演劇ジャンルであることは明らかである。この三つのジャンルの劇世界はいずれも、あらゆる秩序が転覆され、猥褻で下品な冗談に満ちたカーニヴァル的な記号のなかで展開する。これらの演劇作品から、糞尿やセックスに関わる表現や場面の長大なリストを簡単に作ることができるだろう。笑劇(ファルス)のなかには、性行為の単純な隠喩に過ぎないような内容のものがいくつかある。例えば小間使い女が 灌水器(聖水撒布の際に使う短い棒)で司祭につつかれるという内容の笑劇(ファルス)、『五時のミサに出かける小間使い女』はその一例だ。

これらの演劇作品で描かれる「逆さまの世界」で許容されているのは、性的なタブーの逸脱だけにはとどまらない。さらに根本的な規範への逸脱もこの劇内世界では許されている。笑劇(ファルス)では、倫理的な逸脱が描かれる。笑劇(ファルス)の世界では、他人を騙すことで己が利益を得ることができるのであれば、いかなる策略も許容される。阿呆劇(ソティ)はイデオロギー的あるいは政治的な主張を、阿呆の口を通して行うことが許されている。ここでは無知の代表である阿呆こそが世界の主役なのだ。「逆さまの世界」なのはむしろ現実の社会であり、劇世界の中で、尻と頭を逆さにして世界を描き出すことこそが、然るべき場所にある世界を示すことなのだという逆説が阿呆劇(ソティ)では述べられているのである。

* Jean-Claude Aubailly, Le Théâtre médiéval profane et comique, Paris, Larousse, 1975.
**Jacques Cœur (1395-1456)フランス中世の大商人。ブールジュに生まれる。毛皮商を父にもち、シャルル七世の時代、対イギリス戦の戦費を調達し、国王と経済、政治上の広範囲にわたって結託し、勢力を拡張した。(略)東方貿易を通して富の蓄積を進め、フランスの主要都市に彼の代理人を置き、銀行、為替、鉱山、羊毛、貴金属といったあらゆる企業を営み、「雄々しいクール(心臓を意味する)に不可能なことは何もない」といわれた。(略)〈志垣嘉夫〉『日本大百科全書』(小学館)より。

【04-02中世後期の演劇】都市とカーニヴァル2012/06/29 00:21

笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)の雰囲気は、カーニヴァルに代表される冬至から五月にかけて行われるいくつかの民衆的祝祭を想起させる。こうした民衆的祝祭では、冬と夏の二つの季節の闘争が象徴的に表現される。古の時代から、一年はいくつかの周期の交替によって構成され、周期の変わり目には祝祭が行われていた。この祝祭は、日常の秩序を逸脱した原初的な混沌が支配する「逆さまの世界」が立ち現れる時間となる。無礼講の大騒ぎのなかで、古きものと新しきものが象徴的な戦闘を行う。キリスト教以前から続いていたこうした民衆的祝祭の数々を、中世の権力は、否定するよりはむしろその中に取り込もうとした。教会は多かれ少なかれ阿呆祭を自らのものとしようとしたことは既に述べたとおりである。

カーニヴァルは都市的な枠組みのなかで拡大していった。都市共同体の権力はこの祝祭を後援し、その開催費用を援助することさえあった。固有の文化的伝統を持たなかった都市の支配階級は、自分たちの権力基盤を強化するための文化としてカーニヴァルを採用したのである。この祝祭は都市の活力と豊かさを誇示する手段であっただけでなく、既存の権威に対する異議申し立てでもあった。放埒が許容されるカーニヴァルとそれに続く禁欲を強いられる四旬節*の二つの周期の対立に、当時の人々は都市の世俗文化と教会の宗教文化の対立を重ねて見ようとしていた。

このカーニヴァルと四旬節の闘争は擬人化され、十三世紀後半に書かれたこの主題の詩作品が残っている(『四旬節と肉食の戦い』Bataille de Caresme et de Charnage)。この主題は十六世紀末まで流行し、十五世紀後半に書かれた二つの劇作品が現存している。『聖太鼓腹と四旬節の戦い』 La Bataille de saint Pansard à l'encontre de Caresmeと『肉食の遺言』 Le Testament de Carmentrantである**。この二作品では「肉食」の一派と「四旬節」一派の戦いが展開する。樽の上に陣取った太鼓腹の「カーニヴァル」は、ハムとソーセージを武器に、「四旬節」婦人を攻撃する。節制のためやせ細った「四旬節」婦人は、ニシンとカレイの武器で応戦する。

この二つの劇作品のうち、『聖太鼓腹と四旬節の戦い』はカーニヴァル側の勝利によって戦いが終わっている。カーニヴァルは敵方の四旬節に対し4週間の休戦を寛大にも認めた。一方、これより後に書かれた『肉食の遺言』では、勝利を収めるのは四旬節婦人の方であり、敗れたカーニヴァルは遺言状を書くことを強要される。中世から近代へ時代が下るにしたがって、カーニヴァルの勢力は徐々に衰えていき、この放埓な祝祭への批判、断罪の風潮が強くなっていく。近代になるとカーニヴァルは、節制を重んじる四旬節の支配下に置かれ、その放縦はバランスをとるためのかりそめの抑止力に過ぎなくなってしまった。

バフチンが、カーニヴァルに物質的・肉体的な下部、低俗さを称揚する民衆文化の象徴を見出したことはすでに述べた。カーニヴァルの笑いは必然的に、権威への異議申し立てという役割を担うことになる。この祝祭は、都市的な価値、エネルギーの肯定であるが、それと同時に都市の秩序の横溢と転覆の源でもあったのである。都市権力はこうしたカーニヴァル的祝祭の開催を後押しし、ときには自ら率先して組織することさえあったが、それと同時にこの祝祭を制御しようともした。

こうした都市の祝祭的環境の中で、中世後期の都市における演劇活動の核となった〈愉快な信心会〉と呼ばれる若者たちの集団の活動が活発化していった。こうした信心会の起源は、13世紀まで遡ることができる。この頃、〈若者たちの大修道院〉や〈若者たちの王国〉といった未婚の男性をメンバーとする団体が設立された。独身の彼らは、家族制度を基盤とする共同体の規範から自由な存在だった。彼らは日常の規範からの逸脱が認められていたカーニヴァル的な祝祭の中心的存在となった。彼らには結婚や恋愛など性的な問題についての裁判権が認められていた。この裁判権は共同体全体にかかわるものだった。例えばシャリヴァリは、こうした若者たちの集団の先導によって行われた。シャリヴァリとは、老齢の男性と若い娘の結婚など不釣り合いな結婚が行われたときに行われる集団的制裁行為である。仮面などで仮装した若者たちが楽器などを鳴らして大騒ぎしながら新婚の家庭を訪れ、夫をロバの上に乗せて町中でさらし者にしたりした。

〈愉快な信心会〉は各地で増大し、地域や職業、関わりを持つ祝祭などによって徐々に専門化していった。こうした若者たちの結社から、道化たちの結社が生まれ、次第に勢力を拡大していった。これらの道化たちの信心会のなかで、特に名高いものとしては、ルーアンの〈阿呆連〉、ディジョンの〈阿呆の母親連〉(あるいは〈ディジョンの歩兵隊〉)、マコンの〈不品行の子供たち〉などがある。これらの信心会のメンバーは厳格に序列化されており、各結社は独自の記章、印璽、さらには通貨さえ持っていた。

*毎年復活祭の40日前から始まる四旬節の期間中は、キリストの断食をしのんで肉食を絶つ習慣があった。
** Deux jeux de Carnaval de la fin du Moyen Âge, éd. Jean-Claude Aubailly, Genève, Droz, 1977.

【04-01後期中世の演劇】概観2012/05/28 15:56

都市が発展し、封建体制が成熟期を迎えた13世紀は中世フランス文化の最盛期であり、中世文芸の傑作の多くはこの時代に作られた。しかし演劇ジャンルに関して言えば、14世紀以前にはアラス、パリなどの限定された地域で何編かの傑作が残されたものの、数としてはごくわずかの作品しか現存していない。残された作品数の面から言うと、フランス中世演劇の黄金時代は、15世紀から16世紀半ばとなる。これはホイジンガが《中世の秋》と呼んだ後期中世からルネサンスにかけての時代にあたる。後期中世には中世劇の代表的なジャンルが出そろった。長大な劇形式のジャンルとしては、聖史劇(ミステール)、受難劇(パッション)、寓意道徳劇(モラリテ)があり、短い劇形式としては笑劇(ファルス)や阿呆劇(ソティ)などがある。

14世紀は多くの点で中世の転換期となった時代である。フランスにとっては、数々の厳しい災害が襲いかかった過酷な試練の世紀となった。まず当時の総人口の三分の二を奪ったと言われるペストの大流行があった。また百年戦争が英仏の国土を荒廃させた。こうした厳しい状況は演劇活動にも当然影響し、この世紀は演劇ジャンルの発展も停滞した。前世紀まで演劇を含む文芸活動の担い手の中心だった職業芸人、ジョングルールの活動が衰退した。放浪の旅芸人であった彼らは、この時代、徐々に特定の貴族に仕える宮廷詩人、メネストレルとなっていった。ジョングルールの消滅とともに演劇のあり方も大きく変化した。ナポリ王、ルネ一世(1409-1480)のような例外はあるものの、複数の役者によって演じられる演劇作品は、貴族たちにとってはあまりにもブルジョワ的(都市住民的)なジャンルに感じられたがゆえに、宮廷では中世の終わり頃まで演劇の上演はあまり行われなかった。宮廷人が好んだ娯楽は、まず騎馬槍試合であり、その開催時には音楽と舞踊を伴う宴会も盛大に行われた。宮廷人が都市の広場に出かけ、そこで上演されていた演劇を見る機会は時にはあっただろうが、彼らは自分の宮廷のお抱え詩人に演劇作品を作るように命じることはなかった。演劇は職業的な芸人の手から離れ、その制作は徐々に都市の信徒団体などのアマチュアの手にゆだねられるようになっていった。

14世紀の演劇作品といえば、パリの金銀細工商の組合で上演された「複数の登場人物による聖母奇蹟劇集」がまず思い浮かぶ。この作品群の書法には13世紀の劇作技術の痕跡を数多く確認することができるが、その内容と形式は、前世紀の同じ主題の劇作品と比較すると明らかに後退している。「聖母奇蹟劇集」の作者である「凡庸な韻文職人」たちは、一編の劇作品をまとめあげる技術には長けていたものの、彼らの作品には、リュトブフの『テオフィールの奇蹟』にあるような緊張感のある文体や溌剌とした心理的描写を見出すことはできないと、ギュターヴ・コエンは評価している*。

14世紀は最初の受難劇そして笑劇(ファルス)が、同業者信徒団体に属するアマチュアたちの環境の中で作られ、上演され始めた時代でもあった。これらのアマチュアたちは、ジョングルールたちによって演じられていた語り物の形式の文芸を、複数の役者による演劇作品へと書き換えていった。しかしこの時期に書かれた作品の劇作術はまだ未熟で、15世紀以前には劇作家の称号に値するような作者は現れなかった。後期中世の演劇ジャンルが充実期を迎えるのは15世紀半ば以降となる。

後期中世の演劇ジャンルの進展をこの後の章では包括的に取り上げる。記述にあたっては、まず大きく《短い劇形式》(主に笑劇(ファルス)と阿呆劇(ソティ)がこれに属する)と《長い劇形式》(長編の寓意道徳劇及び聖史劇)の二つの劇形式に分けて中世後期の演劇のありかたを捉えていきたい。一般的には、中世劇といえば、長大で真面目な主題を扱う聖史劇がまず思い浮かぶだろう。しかし笑劇(ファルス)のような《短い劇形式》の作品は、後期中世において、長大な聖史劇や寓意道徳劇に付随する副次的形式ではなかった。ベルナール・フェーヴルは、後期中世演劇の特質は笑劇と阿呆劇といった《短い劇形式》にこそ強く現れており、その作品群は、現代人の視点からみても、もっとも精彩を放っていると主張している。

* COHEN (Gustave), Le Théâtre en France au Moyen Âge, Paris, Rieder, 1928 et 1931.