【00-03:はじめに】中世演劇の孤立(1)2011/06/26 03:25

西洋史では一般的に西ローマ帝国の滅亡(476年)から15世紀末までを中世として区分しているが、フランス演劇史での中世は教会の典礼の一部で演劇的なやりとりが行われるようになった9世紀から、聖史劇、寓意教訓劇といった中世に生まれた演劇ジャンルの衰退が決定的になった16世紀半ばのあいだの期間を指す。

中世演劇は古代演劇とも近代演劇とも断絶している。

まず古典古代の演劇伝統は中世ヨーロッパに受け継がれることはなかった。既に共和制末期にはローマ帝国でも剣闘士の戦いや戦車競技、言葉を使わない身振り芝居であるパントマイムが流行し、いわゆる演劇作品の上演は低調だった。帝政初期のセネカのラテン語悲劇も舞台で上演されたのではなく、知識人のサークルのなかで朗読されていたと考えられている。その後、ローマの国教となったキリスト教の初期教父たちが演劇に対して否定的な態度をとったこともあり、ゲルマン民族の大移動によって混乱に陥った5世紀のローマ社会では演劇上演の伝統は途絶え、劇場のようなものはもはや存在しなかったようだ。5世紀から9世紀に至る数百年のあいだ、ヨーロッパで演劇の上演が行われた形跡は、少なくとも文献上では確認することはできない。プラウトゥスとテレンティウスの作品は中世のあいだも引き続き修道院学校の教科書として読まれ続けた。しかし役者によって舞台で上演される機会は中世にはなかった。そもそもそういう作品であるとは思われていなかったのだ。

ヨーロッパ、そしてフランスの演劇の歴史は、古典古代の演劇伝統とは全く切り離されたところから始まった。その淵源となったのは、ローマ・カトリック教会の典礼である。12世紀後半になってようやく全編がフランス語で書かれた演劇作品が登場する。そしてフランス語による中世演劇が隆盛を迎えるのはようやく15世紀になってからだ。聖史劇、受難劇、寓意道徳劇、笑劇、阿呆劇、独白劇など中世演劇の代表的ジャンルがこの時代に揃い、次の世紀へと受け継がれる。しかしこれらの中世劇の諸ジャンルは十六世紀後半の宗教戦争の頃には急速に衰えてしまう。スペイン喜劇、イタリアのコメディア・デラルテ、プレイヤッド派による人文主義演劇が十七世紀のバロック演劇、古典主義演劇の成立に寄与するのに対し、フランス中世演劇の諸ジャンルの遺産は、笑劇を除いて、ほとんど次世代のフランス演劇に継承されることはなく、忘れ去られてしまったのだ。

【00-04:はじめに】中世演劇の孤立(2)2011/06/26 23:26

一般的なフランス文化観では、フランス文明はその栄光の起源を古典古代に求める。中世はその言葉の意味通り(フランス語ではMoyen Âge)、輝かしい古代と世界史においてヨーロッパが優位に立った近代の中間に位置する時代に過ぎない。平均的な教養を持つフランス人なら、フランスの散文文学といえば十六世紀のラブレー、モンテーニュ以降を、韻文ならやはり十六世紀のプレイヤッド派の詩人たち以降を思い浮かべるだろう。そして演劇といえばそれは十七世紀古典主義時代の偉大な劇作家であるコルネイユ、モリエール、ラシーヌ以降が彼らの教養の枠組みの中にある。そしてそれ以前の作家や作品の知識、関心は物好きな好事家の領域に属しており、文学研究者や演劇研究者であっても、古典古代の作品、作者に比べると、中世の文芸への関心は一般にはるかに低い。

「暗黒の時代」という中世に対する否定的なイメージを定着させたのは十八世紀の啓蒙主義者だと言われている。その後、中世はロマン主義の想像力のなかで幻想的な異世界となった。近代初期にもたらされたこの二つの「歪み」は今もなおわれわれの中世観を支配している。中世は近代のアンチテーゼである。近代は中世からの継続性を否定し、この時代を異世界とすることで己のアイデンティティを主張している。となれば、中世の文芸について考えることは、われわれの感性をいまなお縛る近代的文学観を検証する手段となりうる可能性を秘めているのではないだろうか。古代からも近代からも切り離された中世の演劇を考察することによって、われわれが今抱えている演劇の問題の輪郭を明らかにし、その可能性を押し開くことができるのではないだろうか、という希望を持って、私は中世フランス演劇の研究を続けている。