【00-01:はじめに】ブログの紹介2011/06/24 22:54

研究用の覚書として、フランス中世演劇史をまとめたブログを開設することにしました。ベルナール・フェーブルBernard Faivreの著述をこのブログでの記述の枠組みとして利用し、内容の面でもフェーブルに大きく依拠しています。

フェーブルの中世演劇史は13人の著者による総頁数1200頁を超えるフランス演劇史(文献案内の【01】)の一部で、原文の頁数は100頁ほどです。フェーブルは十五、六世紀の笑劇(ファルス)の研究者として知られており、パリ第十大学の演劇学部門で教えています。

この演劇史は専門家ではなく一般を対象にした本なので原文には注がありませんが、単なる作品名の羅列と作品解題ではなく、近年の研究成果を踏まえた上で、いくつかの切り口でフランス中世演劇の特徴をわかりやすく提示し、その展開がダイナミックに記述されています。フランス演劇史の本は数多いですが、フェーブルの記述は概説書とはいえ、私がこれまでに読んだフランス中世演劇史のなかでは最も面白いものの一つでした。

ブログの内容は基本的に、上記のフェーブルの中世演劇史の記述を土台に、次にあげるいくつかの演劇史にかかわる著述も参考にした上で、抜粋、要約し、補足を加えたものになります。

【00-02:はじめに】文献案内2011/06/25 10:11

ブログの記述にあたって参照した主な文献は以下の通りです。
 
  1. Bernard Faivre, « La Piété et la fête (des origines à 1548) », Le Théâtre en France du Moyen Âge à nos jour, dir. Jacqueline de Jomaron, Paris, Armand Colin, 1992, p. 17-101.
  2. Charles Mazouer, Le Théâtre français du Moyen Âge, Paris, SEDES, 1998.
  3. Armande Strubel, Le Théâtre au Moyen Âge : Naissance d'une littérature dramatique, Rosny, Bréal, 2003.
  4. Gustave Cohen, Le Théâtre en France au Moyen-Âge, Paris, PUF, 1948.
  5. Grace Frank, The Medieval French Drama, Oxford, Clarendon, 1954.
  6. Jean-Pierre Bordier, « Le Moyen Âge : la fête et la foi », Le Théâtre en France des origines à nos jours, dir. Alain Viala, Paris, PUF, 1997, p. 45-97.
  7. Madeleine Lazard, Le théâtre en France au XVIe siècle, Paris, PUF, 1980.
  8. 長谷川太郎「中世演劇─ その発生と展開」、渡辺守章他編『フランス文学講座4 演劇』(大修館書店、1977年)、 第1章、4-34頁。
  9. 長谷川太郎「演劇の誕生 (13世紀まで)─修道院から都市へ」、原野昇編 『フランス中世文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2007年)、 157-168頁。
  10. 鈴木覚「十四世紀以降の 演劇」、原野昇編『フランス中世文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2007年)、 169-179頁。
  11. 川那部和恵『ファルスの 世界:一五から一六世紀フランスにおける「陽気な組合」の世俗劇」(渓水社、2011年)。
  12. 重信常喜『フランス中世 喜劇入門』(紀伊國屋書店、1972年)。
  13. 戸張智雄「II ルネサンス」、渡辺守章他編『フランス文学講座4 演劇』(大修館書店、1977年)、第2章、35-50頁。
 

【00-03:はじめに】中世演劇の孤立(1)2011/06/26 03:25

西洋史では一般的に西ローマ帝国の滅亡(476年)から15世紀末までを中世として区分しているが、フランス演劇史での中世は教会の典礼の一部で演劇的なやりとりが行われるようになった9世紀から、聖史劇、寓意教訓劇といった中世に生まれた演劇ジャンルの衰退が決定的になった16世紀半ばのあいだの期間を指す。

中世演劇は古代演劇とも近代演劇とも断絶している。

まず古典古代の演劇伝統は中世ヨーロッパに受け継がれることはなかった。既に共和制末期にはローマ帝国でも剣闘士の戦いや戦車競技、言葉を使わない身振り芝居であるパントマイムが流行し、いわゆる演劇作品の上演は低調だった。帝政初期のセネカのラテン語悲劇も舞台で上演されたのではなく、知識人のサークルのなかで朗読されていたと考えられている。その後、ローマの国教となったキリスト教の初期教父たちが演劇に対して否定的な態度をとったこともあり、ゲルマン民族の大移動によって混乱に陥った5世紀のローマ社会では演劇上演の伝統は途絶え、劇場のようなものはもはや存在しなかったようだ。5世紀から9世紀に至る数百年のあいだ、ヨーロッパで演劇の上演が行われた形跡は、少なくとも文献上では確認することはできない。プラウトゥスとテレンティウスの作品は中世のあいだも引き続き修道院学校の教科書として読まれ続けた。しかし役者によって舞台で上演される機会は中世にはなかった。そもそもそういう作品であるとは思われていなかったのだ。

ヨーロッパ、そしてフランスの演劇の歴史は、古典古代の演劇伝統とは全く切り離されたところから始まった。その淵源となったのは、ローマ・カトリック教会の典礼である。12世紀後半になってようやく全編がフランス語で書かれた演劇作品が登場する。そしてフランス語による中世演劇が隆盛を迎えるのはようやく15世紀になってからだ。聖史劇、受難劇、寓意道徳劇、笑劇、阿呆劇、独白劇など中世演劇の代表的ジャンルがこの時代に揃い、次の世紀へと受け継がれる。しかしこれらの中世劇の諸ジャンルは十六世紀後半の宗教戦争の頃には急速に衰えてしまう。スペイン喜劇、イタリアのコメディア・デラルテ、プレイヤッド派による人文主義演劇が十七世紀のバロック演劇、古典主義演劇の成立に寄与するのに対し、フランス中世演劇の諸ジャンルの遺産は、笑劇を除いて、ほとんど次世代のフランス演劇に継承されることはなく、忘れ去られてしまったのだ。

【00-04:はじめに】中世演劇の孤立(2)2011/06/26 23:26

一般的なフランス文化観では、フランス文明はその栄光の起源を古典古代に求める。中世はその言葉の意味通り(フランス語ではMoyen Âge)、輝かしい古代と世界史においてヨーロッパが優位に立った近代の中間に位置する時代に過ぎない。平均的な教養を持つフランス人なら、フランスの散文文学といえば十六世紀のラブレー、モンテーニュ以降を、韻文ならやはり十六世紀のプレイヤッド派の詩人たち以降を思い浮かべるだろう。そして演劇といえばそれは十七世紀古典主義時代の偉大な劇作家であるコルネイユ、モリエール、ラシーヌ以降が彼らの教養の枠組みの中にある。そしてそれ以前の作家や作品の知識、関心は物好きな好事家の領域に属しており、文学研究者や演劇研究者であっても、古典古代の作品、作者に比べると、中世の文芸への関心は一般にはるかに低い。

「暗黒の時代」という中世に対する否定的なイメージを定着させたのは十八世紀の啓蒙主義者だと言われている。その後、中世はロマン主義の想像力のなかで幻想的な異世界となった。近代初期にもたらされたこの二つの「歪み」は今もなおわれわれの中世観を支配している。中世は近代のアンチテーゼである。近代は中世からの継続性を否定し、この時代を異世界とすることで己のアイデンティティを主張している。となれば、中世の文芸について考えることは、われわれの感性をいまなお縛る近代的文学観を検証する手段となりうる可能性を秘めているのではないだろうか。古代からも近代からも切り離された中世の演劇を考察することによって、われわれが今抱えている演劇の問題の輪郭を明らかにし、その可能性を押し開くことができるのではないだろうか、という希望を持って、私は中世フランス演劇の研究を続けている。

【01-01:教会の演劇】西欧最古の演劇(「聖墓訪問」その1)2011/06/27 01:26

【01-01教会の演劇】聖墓訪問

時代は十世紀、時間は夜明け前で、教会の外は闇に包まれている。復活祭の朝課の典礼が執り行われている。三人のマリアがキリストの墓にやってくるという福音書のエピソードが、典礼のなかで演劇的に取り上げられる。これがフランスにおける最初の演劇的パフォーマンスだった。


典礼の式次第の最後に三人の修道士が登場し、彼らが三人の聖女マリアを演じる。彼らは教会の身廊を進み、聖墓の場所までやって来る。そこにはシュロの葉を持っている四人目の修道士がいた。マリアを待ち受ける天使である。天使は三人にキリストの復活を伝え、キリストが埋葬された墓が空になっていることを確かめるように促す。三人のマリアは聖歌隊のほうに振り向き、その場に居合わせた人たち全員にキリストの復活を告げる。手にはその証拠となる白布があった。白布は墓に残されていた。イエスの遺体を包んでいた白布を三人は振ってみせる。その後、三人のマリアはこの白布を主祭壇に献げる。


ウィンチェスター司教、聖エテルウォルド saint Ethelwoldが965年から975年の間にイギリスのベネディクト派修道院の修道僧のために作成した「聖務規則集」Regularis concordiaは、この典礼の式次第を完全なかたちで記す最古の資料だ。しかし聖エテルウォルドは、この式次第はフランスのロワール河畔フルーリFleuryの聖ブノワ修道院 Abaye de saint-Benoîtで行われていた典礼式次第を模倣したものであることを明らかにしている。おそらくこの「聖墓への訪問(Visitatio sepulchri)」の場面は十世紀半ばには、復活祭の日に行われる典礼式次第の一部としてこのようなかたちで「上演」されていたようだ。


いやもう少し早い時期であった可能性もある。三人のマリアの聖墓訪問の場面が表象された九世紀の二つの象牙彫刻がある。カロル・エ Carol Heitzはこの彫刻の聖女の姿が奇妙なことに女性には見えないことを指摘した。この二つの彫像の職人の技術が拙劣であるがゆえに女性に見えないというわけではない。彫刻家が掘り出したのは三人のマリアではなく、三人のマリアの役を演じる三人の男性修道僧であった可能性が高い。となると、この象牙像は「典礼劇」drame liturgiqueと呼ばれている演劇の実践の場面を表象した最古の資料ということになる。


なお「典礼劇」drame liturgiqueという呼称は十九世紀の研究者によって与えられたものであり、中世人がこの教会内で上演された演劇をdrama liturgicaと呼んでいたわけではない。そもそも教会の典礼儀式に対してliturgie(その教会ラテン語形 liturgia)という名称が定着したのは十六世紀以降のことだ。ここで問題になっている演劇的パフォーマンスは確かに「典礼に付随する演劇」drame paraliturgiqueであるが、本演劇史が依拠しているフェーヴルの演劇史では敢えて「教会の演劇」というもっと曖昧な言い方を用いている。
しかしこの西欧世界最初のドラマが典礼と結びついており、典礼をより効果的で印象的にするという意図から生まれたものであることは明らかだ。中世人による呼称ではないにせよ、演劇の実態を考えるとこのドラマを典礼劇と呼ぶことに大きな問題はないと筆者は考えるし、また記述の都合上もこの名称を用いたほうがわかりやすい。
よってこのブログでこの「教会の演劇」に言及する際には、現在、定着した呼称であるdrame liturgique訳語、典礼劇を使用することとする。