【01-04教会の演劇】典礼とその演劇化(「聖墓訪問」その4)2011/07/10 03:40

「聖墓への訪問」の演劇化は十分なものではなかったが、九世紀から十世紀にかけての典礼儀式の発達が演劇的表現の「扉を開いた」ことは間違いない。

典礼の演劇化に関わる重要な事柄を二つ指摘しておこう。まず一つ目は、カロリング・ルネサンスの時代に進展したラテン語と口語の完全な分離である。813年にトゥール公会議は聖職者に対して説教をラテン語ではなく、現地で話されている日常語によって行うことを命じた。これはこの時代にはラテン語がもはや聖職者、それも学識を備えた聖職者にしか理解されなくなっていることを示している。典礼で使われるラテン語はそれゆえ信徒の大多数にとって聞いても理解することのできない外国語であった。このことが典礼儀式の内容をより具体的に、より表現豊かなものにする方向に進めた。すなわち典礼の演劇化を推し進めることになった。

二つ目の事柄として典礼様式の変化を挙げることができる。すべての信徒が「共同で行う行為」のために協調する参加型の典礼から、司祭が中心となって執り行う典礼への変化がこの時代に見られるのだ。カロル・エによれば*、「かつて全員で行われていた典礼は段階を経てスペクタクルとしての宗教儀式へと変化しつつあった。典礼は徐々に『受動的』なものになっていった。かつては典礼儀式に参加していた信徒たちは観客になり、儀式の執行はこの祭式に精通した何人かの専門家に委ねられるようになった」。

典礼はスペクタクルに近づき、信徒はその観客になっていく。こうして演劇の誕生を準備する条件が典礼のなかに揃った。しかし「教会の演劇」は典礼の中核であるミサの一部として取り入れられることはなかった。ミサに出席している信徒は自分がスペクタクルに立ち会っているとはまったく感じていないはずだ。「教会の演劇」はミサよりも副次的な典礼、朝課や晩課のような聖務日課で行われる典礼の中で取り入られた。つまりミサとは相容れない性質が劇にはあるのだ。信徒にとってミサで重要なことは、キリストの犠牲や聖体の秘蹟という過去の出来事を、儀式を通じて想起することよりはむしろ、キリストと聖体を聖化された時空のなかで、現前のもの、現実のものとして改めて提示することである。
「教会の演劇」の機能は、過去のある歴史的時点のなかに位置づけられた出来事を再現することによって、その出来事を共同の記憶として呼び起こす。かつて起こったキリストの復活を演劇的に具現化することは、ミサの儀式を通して復活を現在に更新することと同じではない。

「教会の演劇」である典礼劇はその構成素材をすべて典礼から借りている。教会という空間、聖歌隊の合唱、装具。そしてこの両者を執り行う祭式者は聖職者である。典礼儀式から典礼劇への移行は自然に行われたが、会衆を満足させるためには聖書のエピソードのドラマ化によって会衆に強い印象を与えるだけでなく、劇の土台となる典礼との関係を考慮する必要があった。《聖墓への訪問》は復活祭の祝日に上演されてこそ意味がある。典礼が持っている美学的および文化的な枠組みは典礼劇の内容を拘束した。《聖墓への訪問》を記録する『聖務規則集』は「無知な民衆や新信徒たちの信仰を強固にするために」劇が演じられたと記している。

典礼劇は典礼に従属し、教訓的な目的のために制作され、上演されたのだ。典礼劇は信仰の学びの場のように、典礼と結びついていたのである。

【01-05教会の演劇】最初の典礼劇の観客は誰か?(「聖墓訪問」その5)2011/07/10 04:54

四回に分けて西欧最古の演劇である典礼劇《お前たちは誰を探しているのか?》(「聖墓訪問」)について記述した。これらの記述は【はじめに】に記したように、主にベルナール・フェーヴルによる演劇史の記述に拠っている。フェーヴルの記述に拠ってはいるが、フェーヴルによる最古の典礼劇についての記述について私はすべて同意しているわけではない。特にこの最初の典礼劇の観客は誰だったかという点については疑問を持っている。

フェーヴルは「聖墓訪問」の劇が教会の広大な内部空間をダイナミックに使って上演されたと記述している。彼は典礼劇の専門家ではないので、この部分の記述については文章中で挙げられている他、カール・ヤングやギュスターヴ・コエンなどによる先行研究に参照したに違いない。三人の聖女は教会の東にある内陣から、平信徒が座る身廊を通過し、教会の入口のそばの西側の部分に至る広大な空間を移動したとある。
しかしフェーヴルの演劇史やマズエの『中世フランス演劇』に引用されている『聖務規則集』の該当部分には、教会のどの場所で演じられていたのかは明示されていない。もしかすると引用されていない別の箇所にそうした移動場所の記述があるのかもしれない。しかし教会内の場所名称については諸説あって特定が難しいこともあるという。フェーヴルが後に記す十二世紀の後半の『アダン劇』は、従来、教会の入口の前の広場で上演されたと考えられていたが、ノーメンはこの作品はラテン語の典礼劇同様、教会内部で上演されたという説を打ち出し、最近はこのノーメンの説が支持されている。

私がフェーヴルの記述に疑問を持つのは、J.ハーパー『中世キリスト教の典礼と音楽』(佐々木勉、那須輝彦訳、教文館、2000年)に次のような記述があったからである。すなわち、中世の教会内部は隔壁(スクリーン)によって仕切られていた。身廊と内陣を隔てるこの隔壁の大半は1960年代以降の典礼改革によって取り去られていて、現在ではごく一部の教会でしか見られない。
この隔壁の存在ゆえ、司祭がミサを執行し、聖務日課を唱える教会の東に位置する主要部は、平信徒が座る身廊からは部分的にしか見えなかった。主祭壇は、身廊から見て隔壁のはるか彼方にあった。日々の聖務日課とミサの主要部分は全て聖堂の東の部分、共唱席(聖歌隊席) と内陣(あるいは聖所)で行われていた(同書56-58頁)。

聖エテルワルドによる『聖務規則集』には確かに典礼劇は「無知な民衆 や新信徒たちの信仰を強固にする」ad fidem indocti vulgi ac neofitorum corroborandam equipando sequiという目的をもって上演されたと記述されている。しかし典礼劇が聖務日課の一部である以上、それはフェーヴルが記述するように身廊も含めた教会の空間すべてを使って劇が上演されていたのではなく、隔壁の向こう側にある聖域のなかで上演された可能性が高いような気がするのだ。ここで「気がする」という表現を使ったのは、私自身が今のところをそれを判断するだけの材料を持っていないからなのだが。

中世の教会での典礼がハーパーの書くとおりであり、典礼劇が典礼の枠組みのなかで上演されたのであれば、教会東側の聖域に入ることが許されていなかった一般信徒はその上演の様子を見ることができず、隔壁の外側で典礼劇を演じる修道僧たちの歌声を聞くのがせいぜいだっただろう。その歌声はラテン語であり、一般信徒には理解できたはずがない。
しかもこの最初の典礼劇は朝課の祈りの折りに上演されたとある。朝課は日の出の時間よりだいぶ前、夜半の暗闇の時間に行われる祈りである。復活祭という特別な祝日だったとはいえ、一般信徒がその時間帯に教会に赴き、典礼に立ち会うことは果たしてあったのだろうか? 

典礼儀式は地域ごと、時代ごと、また教会、修道院によってかなりの異同があったが、ハーパーの上記の本に記述されている典礼式次第を参照する限り、典礼劇が教会東側の聖域を出て上演された可能性は低そうだし、その上演に一般信徒が観客として立ち会った可能性も低そうだ。
そもそも典礼は誰のために行われているか? 中世の修道僧の日常は一日に八回ある祈りの時間を中心に構成されており、彼らの最も重要な仕事は神に対して祈りを捧げることだった。典礼の祈りの際に歌われる聖歌、細かく定められた式次第は何よりもまず神に対して献げられたものであるはずだ。

ここで個人的な体験を書く。学部学生のころにイングランドのチチェスターに留学している友人を訪ね、何日か滞在したことがあった。滞在中暇をもてあましていた私は、夕方になるとチチェスターの大聖堂に行った。夕方の決まった時間に教会聖歌隊がウィリアム・バードなどの十六世紀の聖歌を見事な合唱で歌うのを聞くことができたのだ。
身廊には毎日私を除いてほとんど人がいなかった。聖歌隊は東側の聖域のなかにある聖歌隊席で聖歌を歌った。チチェスター大聖堂は今でも教会の東側と西側を隔てる隔壁が残っている数少ない教会の一つであり、その隔壁が邪魔になって聖歌隊が歌っている様子は身廊にいる私からよく見えない。毎日、聖歌隊を除いてはほぼ無人の教会堂のなかで見事な合唱が響きわたることに私は感動した。あの歌声はもちろん身廊で歌声を聞くごくわずかしかいない「観客」のためではなく、天上の神に献げられていたはずである。

ハーパーによる典礼と教会堂の構造についての記述と私のこの個人的な体験から、おそらく最初の典礼劇である「聖墓訪問」も、東側の聖域の狭い部分で演じられており、その演劇は平信徒の教化というよりは神への捧げ物として聖職者たちによって演じられていたように私には思える。

典礼については、聖職者によるものも含め、詳細で膨大な研究があるはずなので素人の私が手を出しにくい分野なのだが、時間を見つけることができれば、聖エテルワルドの『聖務規則集』ほかの一次文献や主要な研究を参照した上で、当時の典礼の状況および典礼劇の観客の問題について考察してみたい。

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【追記】ハーパーの『中世キリスト教の典礼と音楽』に典礼劇についての記述があるのを読み落としていたことに気づいた。フェーヴルの記述に違和感を抱いたのは、かつてハーパーの本を読んだときにこの部分を読んでいたのが記憶に残っていたためかもしれない。『中世キリスト教の典礼と音楽』209頁以下で典礼劇についての言及がある。そこには「典礼劇は全編が、セリフでなくすべて(ふつうラテン語の)歌で信仰した。聖堂での典礼(朝課、ミサ、晩課)の枠内で上演することを意図して生まれたもので、共同体の構成員によって、共同体のために演じられた。文字が読めない会衆に聖書の内容を教えるための教育手段ではなかったのである」とあり、典礼劇の役割をラテン語のわからない民衆の強化の手段とするフェーヴル他、従来の中世演劇史での説明が明確に否定されている。なおここでの「共同体」とは教会、修道院に共住する聖職者集団を指す。