【01-10教会の演劇】驢馬祭(あるいは愚人祭)の賢明さ2011/09/26 15:49

降誕祭(12/25)から公現祭(1/6)の十二日間にわたって多くの教会で行われていた「驢馬祭」あるいは「愚人祭」は、世俗的、涜聖的な要素も受け入れる中世の教会の大らかな側面を典型的なかたちで示す宗教儀礼である。これらの祝祭で執り行われていた儀式では、例えば貧民たちの象徴だったロバを讃えるミサを行う、幼児たちの司教として聖歌隊の子供を選出するなど、社会的役割が転倒する《逆さまの世界》が常に提示された。日常の秩序をひっくり返す無礼講の祭であったにもかかわらず、これらの祭の出発点が教会のなかにあったことには注意する必要がある。「驢馬祭」は、世俗の一般信徒たちによる教会的秩序への異議申し立てではなく、助祭や副助祭、あるいはもっと身分の低い聖職者たちによって、彼ら自身のために執り行われた祝祭だった。一般信徒も、聖職者に混じって儀式に参席し、儀式のあとに行われる行列に加わり、町中を行進した。しかしこれらの祝祭の主役は何よりもまず下級聖職者であり、その実施は教会に認められていた。教会参事会会員や司教といった高位聖職者たちが、これらの祭を非難することはかなり後の時代になるまでなかったのである。

十三世紀はじめに「愚人祭の典礼」を書き、そこでの所作や歌について典礼的観点から詳細に記述したピエール・ド・コルベイユはサンス大司教だった。長時間におよぶ典礼の内容が事細かに記されているが、その滑稽さには節度が守られている。「愚人祭」の典礼では、ロバを讃えるいななきが模倣され、多声の聖歌が歌われる。そして最後は熱狂的な祈りによって儀式は締めくくられるが、そこにはいかなるパロディの意図も感じられない。「驢馬祭」の典礼では正統的な典礼の形式が保持されているのである。

十二日間にわたるこれらの祝祭には、放縦と風刺が横溢していた。その口実となったのはマニフィカト(聖母賛歌)の一節である。そこには神は「専制君主を玉座から転覆させ、貧しき者たちを玉座に上げた」とある。教会の高位聖職者たち、とりわけ司教座聖堂参事会員たちは身分の低い聖職者たちがこの祝祭で野放図に振る舞うことを容認した。前キリスト教的な祝祭の基層を教会の行事のなかに取り込むことによって、抑圧されていた下級聖職者たちの不満を発散させようとしたのである。冬至は太古より祝祭と結びついていた。祝祭が行われることで、社会的役割が一時的に混乱・転倒し、原始的な混沌の状態が再現された。どれほど滑稽で卑俗な内容を含んでいたにせよ、「驢馬祭」は司教座聖堂参事会がその権威を示す重要な機会の一つだった。時代が下ると、「驢馬祭」の是非を巡る深刻な争いが起こるようになった。例えば1240年のマンでは、大修道院院長が参事会会員の優位を重視して、愚人たちの司教に飲み物を与えることを拒んだことから争いが起こった。

「驢馬祭」に対する非難が高まり、その開催を禁止する声が上がるようになるのは中世末期である。ここで批判の先鋒となったのは風俗の矯正を求める人たちや大学の博士たちである。「驢馬祭」はこの頃になると確かにさらに奔放さを増し、反体制的な性格を持つようになっていた。時代が下るにつれ、非難の声は徐々に高まり、開催が禁止されることが多くなった。しかしにも関わらず「驢馬祭」は十六世紀まで活発に行われた。禁止によって中断されても、何年かあとに復活することもあった。宗教的権威や世俗権威が何度にもわたって禁止令を出していることから、「驢馬祭」が教会の行事のなかに強く根付き、なかなか廃れなかったことをうかがい知ることができる。