【01-12教会の演劇】『アダン劇』、ことばによって獲得された自由2011/10/09 01:40

『アダン劇*(アダム劇)』が教会の典礼劇に属するという見方には異論があるかもしれない。ギュスタヴ・コエンはこの作品を準典礼劇と呼び、その後、多くの研究者は『アダン劇』に対してこの呼称を用いた。しかし準典礼劇というジャンルは、この『アダン劇』一作を説明するだけのためにわざわざ作られたようにも思われる。『アダン劇』はそれまでの典礼劇のように教会建築の内部で上演されたのではなく、教会前の広場で上演されたという仮説がこれまで広く支持されてきた。演劇が教会堂の中から徐々にその外側で上演されるようになり、一世紀ないし二世紀のあいだ、教会堂前の広場で上演される時代が続いたのち、都市の大広場へと上演の場が移っていくという道筋を思い描く研究者たちにとってこの仮説には説得力があった。

しかし最近の研究では、上記の仮説にあるような流れで、演劇上演の場が時代とともに移り変わることはなかったと考えられている。教会前の広場で演劇上演が行われたという記録は実際にはほとんど確認することができない。そして『アダン劇』もまた他の典礼劇と同じように、教会の内部で上演された可能性がきわめて高いという説が現在では有力になっている。『アダン劇』の台詞はフランス語で書かれているが、ト書きはラテン語で記されている。そのト書きには「そして神はeclessiam(教会)に向かう」« Tunc vadat Figura ad eclessiam »、「神はeclessiam(教会)へ戻る」« Figura regredietur ad ecclesiam »といった記述がある。このト書きの記述から、大聖堂の正面の扉を背景に、この劇が教会前の広場で上演された様子をコエンなどの研究者は想像したのである。問題となるのは« eclessiam »という語の解釈である。オランダの研究者、ウィレム・ノーメンWillem Noomenは、この文脈で« eclessiam »は建造物としての教会を意味せず、教会内部で« eclessia »と呼ばれていた象徴的な場所を指し示すと考えるほうが妥当であると主張した**。その象徴的な場所とは、内陣の奥にある聖所である。『アダン劇』は、教会の演劇にとって重要な象徴の軸に沿って演じられたとノーメンは考えた。聖所は教会内部の東側に位置し、『アダン劇』では「教会」« eclessia »と呼ばれている。一方、地獄は西側の扉口に設定されている。人間たちの場所は(とりわけ地上の楽園は)この二つの地点の真ん中にあった。観客はおそらくこの東西の軸の両側から『アダン劇』の上演に立ち会っていた。以上がノーメンの仮説に基づく『アダン劇』の上演の光景である。

ノーメンの解釈では、フランス語で書かれた最古の演劇作品である『アダン劇』は、典礼と依然強い結びつきを保持していたことが強調される。『アダン劇』が上演された場合、おおよそ上演時間の半分がラテン語による典礼聖歌で占められることは、写本の記述、あるいはその記述に基づいて校訂されたテクストからは見落とされやすい事柄である。というのも作品に挿入されている聖歌は、テクストのなかではその冒頭の数語しか記されていないからである。聖歌が作品のなかで重要な役割を果たしていることもまた『アダン劇』がまだ教会の典礼劇の伝統に属していることを示している。

この作品は台詞がすべてフランス語で書かれた最初の演劇作品であるが、その一方で、聖歌隊はラテン語で歌い、舞台指示表記(ト書き)もまたラテン語で書かれている。このラテン語によるト書きは、他の典礼劇テクストと比べると例外的といってもよいほど詳細に記述されている。役者たちの演技に関する指示にはとりわけ細かい指定がされていることは注目に値する。例えば作品の冒頭のト書きには以下のようになっている。

「(…)アダンは自分が返答しなければならないタイミングをしっかりと把握しておくこと。返答は早すぎても、遅すぎてもいけない。アダンだけでなくすべての登場人物は落ち着いて話し、自分が喋っている内容にふさわしい動作をするように、訓練されていること。韻文の部分では、役者たちは音節を付加したり、削除したりしないこと。はっきりとした調子ですべての音節を、しかるべき順序で発音しなくてはならない。天国と台詞のなかで言った者は誰でも、天国の方を見て、天国を指ささなければならない」

ト書きの指示の細かさから、上演に不安を覚える心配性の作者の姿が浮かび上がる。経験の乏しい役者たち(若い聖職者たちか?)が、演技のときにあわてたり、不明瞭な発声で台詞を話したりすることによって、テクストの内容が観客にしっかりと理解されないことを作者は恐れている。台詞の言葉のひとつひとつはそれぞれ丁寧に扱われなくてはならず、不明瞭な発音によって観客を混乱させるようなことはあってはならない。中央には周りより高くなっていて、幕と絹の布でとりかこまれた場所がある。そこが地上の楽園であることを理解されなくてはならない。そのために演者たちは「天国」という言葉を発するたびに、その場所を手で示さなくてはならない。

作者による指示がこれほどまでに細かいのは、役者の技術的が未熟であったからかもしれない。しかし『アダン劇』ではことばが決定的に重要な役割を演じる演劇作品であることが、この例外的に細かいト書きの配慮の背景にはあるようにも感じられる。最初のフランス語演劇作品である『アダン劇』は、その後のフランス語演劇の伝統を予告するかのような、言葉の演劇なのである。最初の典礼劇、「聖墓訪問」で、天使は三人のマリア(そして観客たちに)次のように言う。「こちらに来なさい、そしてごらんなさい」。「聖墓訪問」では事柄を示し、証言する演劇である。『アダン劇』はそうではない。劇が始まるとすぐ神はアダンを近くに呼び寄せる。そしてアダンに次のように言う。
「聞け、アダン、私の話を聞くのだ」

作品の最初から最後まで、対立は言葉のやりとりによって表現される。神による勧告と悪魔の誘惑、アベルの「説教」とカインの荒々しい奔放さが、言葉によって対照される。最初の人間たちが犯した罪自体を描写するよりもむしろ、それがどのように、そしてなぜ行われてしまったのかを劇中で解明することに重きがおかれる。いかにしてエヴァが悪魔のまことしやかなことばに屈していったのが理解されなくてはならない。リンゴをかじるまさにその時にさえ、エヴァはあたかも「アドバイスを聞くかのように、蛇に耳を近づける」。アベルとカインの論争の内容にもしっかりと注意が払われなくてはならない。カインがアベルに死を予告する場面から、アベルの殺害の場面のあいだには、40行にわたる言葉のやりとりが行われる。『アダン劇』の最後に置かれた「預言者たちの行列」は、これらの対立の論理的な帰結を示すことなる。言葉による過ちの場面が提示された後に、預言者たちによって贖罪が告げられるのである。

『アダン劇』では台詞に大きな重要性を付与されており、これにより登場人物はそれまでの典礼劇にはなかった大きな演劇的な自由を手に入れた。まず登場人物の心理が台詞によって描写されるようになった。悪魔が優しい声でエヴァの耳に誘惑を吹き込む場面のやりとりはとりわけ印象的である。さらに、言葉を獲得することによって登場人物が、教義、あるいは運命に対抗する存在として自立した存在となったことが台詞を通して表明されたことも重要である。アダムとイブ(そしてカインまでもが)熟考し、ためらい、話し合う様子が再現されるのを目にするとき、彼らの犯した過ちはもはや運命的なものだとは感じられなくなる。『アダン劇』では、すべては既に演じられてしまった事柄ではない。すべては、観客の目の前で今まさに演じられているのである。登場人物のそれぞれが自分の行為に対して完全な責任を有している。だからこそ彼らは罪深い存在となる。台詞だけでなく、視覚的な面でもより写実的な趣向が取り入れられた。作り物の蛇が木をよじ登り、アベルの服のなかには血がたっぷり入った鍋が隠されていた。舞台上での行為は、そこで行われている論争と同じくらい写実的に演じられる必要があったのである。

『アダン劇』は演劇史における重大な転換点となった。『アダン劇』以後、人間が演劇的世界の中心に現れるようになったのである。一方には神の力、他方には悪魔の策略があり、人間はそのあいだにいる。人間は善と悪の間に立ち、どちらかを選択するよう勧告されている。人間はもはや神の手によって繰られる道具であることをやめ、自立した存在となった。

『アダン劇』で強調されているのは神よりもむしろ悪魔の力である。悪魔はこの劇を実質的に支配する登場人物である。悪魔は舞台上を徘徊し、エヴァと短い会話をする場面の前には、観客のすぐ近くまで近づいてくる。そしてアダムの堕罪のあと、アダムとエヴァが背中をむけるやいなや、悪魔は彼らの耕した畑にとげの生えた草をまき散らす。その後、悪魔は二人を鎖でつなぎ、足を踏みならしながら地獄へと連れ去る。邪悪な存在の役柄は、どの時代の演劇作品でも、善良な存在の役柄より豊かな演劇性を備えている。現在では失われてしまった『アダン劇』の結末では、おそらく世界は均衡を取り戻していたであろう。いずれにせよ、『アダン劇』はこのように、演劇世界の主要な登場人物として悪魔と魔王という邪悪な存在を取り入れたのである。


*『アダン劇』の日本語訳(ただし「アダムとエヴァ」の部分のみ)は、福井秀加氏による以下の論文で読むことができる。福井秀加「アングロノルマン『アダム劇』訳」、『大手前女子大学論集』第19九号(1985年)、1−20頁。この論文は国立情報科学研究所のCiniiからダウンロード可能。http://ci.nii.ac.jp/naid/110000046270
**NOOMEN (Willem), “Le Jeu d’Adam, étude descriptive et analytique”, Romania, t. 89 (1968), p. 145-193.

コメント

_ KM ― 2011/10/16 16:37

すいません。「アダン劇」についてYoshiさんから興味深いコメントを頂いていたのですが、操作を誤って消去してしまったようです。Yoshiさん、せっかくコメント頂いたのに、本当に申し訳ありませんでした。

エーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』について言及されていました。『ミメーシス』第7章ではこの作品のアダムとエヴァの対話について分析されています。

_ Yoshi ― 2011/10/17 10:47

caminさん、コメントのこと、どうぞ気になさらずに。私も自分のブログで同様のことを経験しています。書き込んだはずですが、というメールをいただいたがどこかに消えていたこともあります。

前回送ったコメントに書いていたのですが、英文学では、悪魔の心理をこういう風に細かく書いたのは、中世末の聖史劇でも例がなく、おそらくこの次はミルトンの『失楽園』でしょう。そのくらい時代を先取りしていると思います。また、これほどの精緻さはないのですが、アングロ・サクソン時代の古英語詩、"Genesis B"もやはりミルトン的な悪魔を描いています。"Genesis B"、『アダム劇』、そしてミルトンの間に何らかの関連、影響関係などがあるとすると面白いですが・・・。ミルトンの時代にはアングロ・サクソン文学の研究をする国学者や好古家もいましたので、ミルトンが"Genesis B"について何か知っていた可能性が皆無とは言えないとは思いますが・・・。

>ト書きの指示の細かさから、上演に不安を覚える
>心配性の作者の姿が浮かび上がる。

>役者の技術的が未熟であったからかもしれない。

ご存じの様にこの劇の写本はアングロ・ノルマン方言で書かれています。従って、イングランド文学の一部として、中世英文学のアンソロジーに英訳を入れた学者もいます。ただ、写本だけがイングランドで作られ残されたけれど、もともとの上演はFrancianの地域でなされた可能性もありますが。ただ、『アダム劇』と並び称される"La Seinte Resureccion"もアングロ・ノルマンであり、この時代のイングランド教会において、高度に発展したフランス語の演劇文化が目覚めていた可能性は否定できません。書かれているような精密なト書き、そして言葉に対する懸念の一部も、若い修道士とか教会学校の子供達と言った、考えられる上演者にとって台詞が外国語であれば、幾らかは納得がいきます。 Yoshi

_ camin ― 2011/11/03 00:46

Yoshiさんコメントありがとうございます。コメントの表示が遅くなってしまいすいませんでした。

アングロ・ノルマン方言は、私の認識だとイングランドのみならず大陸のノルマンディ地方でも使用されていた方言であり、写本の制作が現在のイングランドにあたる地域でされていたのか、あるいは上演がイングランド教会で行われたのかという点については、その可能性はもちろんあるけれども何ともいえないところだと思います。
またアングロ・ノルマン方言の台詞は、アングロ・ノルマンを理解できる人のために書かれたものなので、上演者および聴衆にとって台詞が「外国語」であった、とは考えにくいように思います。Yoshiさんの文意をどこか私が誤解しているような気もしますが。

_ Yoshi ― 2011/11/03 11:08

色々考えるきっかけを与えて下りありがとうございます。

ノルマンディー等、大陸におけるアングロ・ノルマンの使用については、私は何も知りませんが、カレー周辺などのように数世紀間イングランド人が定住した地域では、アングロ・ノルマンが使われたのかも知れませんね。Caminさんのおっしゃる事を考えると、イングランドから戻ってきた写字生がアングロ・ノルマンの方言特徴を持った写本を書いた可能性もあるのだろうと思いました。また写本が残っているのもフランスだそうですね。例えばFrancianで書かれ演じられた劇でも写字生がアングロ・ノルマンの人なら写本はアングロ・ノルマンになることさえあるでしょうから。

ちなみに『アダム劇』がどこで書かれたかについては、どうも各国の学者によるこの名作の取り合いの様相もあるようです。英語圏やドイツの学者はアングロ・ノルマンと言い、フランスの学者はノルマンと言っている、とPaul Aebischerは彼のテキスト("Le Mystère d'Adam", TLF, 1964)の序文で書いていました(pp. 18-19)。実際、彼によるとこのテキストでアングロ・ノルマンの方言特徴を示す語は非常に少ないようです。Grace Frank(1954)は、'the author, according to most authorities, was an Anglo-Norman'(p. 76)としています。英訳を出しているRichard AxtonとJohn Stevensによると、'Recent scholars have not yet decided whether the author of "Adam" was Norman or Anglo-Norman; the distinction is perhaps not a valid one to make.' ("Medieval French Plays" [1971], p. xii)。David Bevingtonは彼のアンソロジーの序文で、'quite possibly produced in England'と書いています("Medieval Drama" [1975] p. 78)。皆古い本ばかりなので、最近の見方は分かりませんが。

なお、"La Seinte Resureccion"の方は、方言特徴に加え、現存する2つの写本のうち1つはカンタベリーのChrist Church Monastery(カンタベリー大聖堂のこと)で制作されたようだとBevington (p. 122)は書いていて、その写本はイギリスに残っていたようですね(今は大英図書館です)。

>アングロ・ノルマン方言の台詞は、アングロ・ノルマンを理解できる人のために書かれたものなので、上演者および聴衆にとって台詞が「外国語」であった、とは考えにくい・・・

この点は白か黒か決めるのは大変難しいと思います。中世においてもイングランドの圧倒的多数の人々は、フランス語を外国語として学びました。それでも、プランタジネット家の宮廷であればフランス語が第一言語であった人もかなり混じっていたと思われますが、修道院などでは、フランス語は苦労して学ばれ、不完全に使われた「外国語」でしょう。フランス語の使用状況は、宮廷や修道院などでも、分かる人、分からない人、いくらか分かる人などが入り交じった状態であったと思います。勿論、ほとんどの平民はフランス語を使えませんし、フランスにも領地を持つことの多い大貴族とその家族はともかくとしても、時期にもよりますが聖職者や騎士の大多数も仏語は使えなかったか、かなり不完全な使用であったと思います。貴族にしても、召使いや乳母、その他の用人などは英語しかできなかったでしょうし、公的な場では仏語、家族の間では英語を使う人が多かったでしょう。フランス語の訛りのこととか、フランス語でなかなか話が通じないことなどをしるした当時の文章も散見されます。

私はイングランドにおける多言語文化にかなり興味があるので、今後この問題、もっとよく調べていきたいと思います。 Yoshi

_ camin ― 2011/11/04 03:35

もしかするとYoshiさんはアングロ・ノルマン方言をイングランド人、すなわち英語を母語とする話者が使っていたフランス語方言だと捉えておられるのでしょうか? 
アングロ・ノルマン方言とは私の認識では、繰り返しになりますが、イングランド宮廷および大陸のノルマンディー地方で広く用いられた方言です。

アングロ・ノルマン方言とノルマンディ方言を区別する考え方は、少なくとも私がこれまで参照したことのあるフランス語史や古仏語文法の本ではあまり一般的ではないように思います。校訂本では記述に観察されるこういった言語の特徴についてくわしく書かれていることが多いですが、方言は書記の上で混交することもありますし、オリジナルの言語と写字生の方言が食い違うことも珍しくなかったはずで、実際には書記言語の特徴を持って書かれた地域を特定するのは困難なことが多いように思います。

このあたりに認識の食い違いがあるように思います。ノルマンディ地方ではもちろん、イングランド宮廷でも母語としてアングロ・ノルマン方言の使用者が少なくとも14世紀前半までは多数派であったというのが私の認識ですが、これには誤解があるかもしれません。

イングランドの当時の修道院でフランス語がどれほど使われていたかについては私は知識がありませんが、英語がマジョリティであるならばわざわざアングロ・ノルマン方言のテクストを用意する意味が私にはよくわからないのです。また「アダン劇」がイングランドで書かれたテクストかどうかというのも確定されているわけではありません。

テクストが書かれ上演されたのが、イングランドの教会ないし修道院であるという前提に基づけば、Yoshiさんが書かれていたような方向に推論は向かうのかもしれませんが、実際のところ、われわれは「アダン劇」がどこで書かれていたかについては信頼に足る情報を持っていないのではないのではないでしょうか?

_ camin=KM ― 2011/11/04 03:37

すいません、コメントの名前表記が混乱してました。Camin=KM、このブログの執筆者です。

_ Yoshi ― 2011/11/04 12:03

早速専門の立場から色々と教えていただきありがとうございます。私は下手の横好きで、フランス語の文学について根拠のないことについて推測で書き、間違っていることが多いことを痛感しました。

>もしかするとYoshiさんはアングロ・ノルマン方言をイングランド人、すなわち英語を母語とする話者が使っていたフランス語方言だと捉えておられるのでしょうか? 

私も、アングロ・ノルマン使用者が必ずしも英語を第一言語としていたとは思っておりません。イングランドでも仏語環境で育ち、仏語を第一言語にした人がいたでしょう。また、方言特徴と書かれたり話されたりした土地が一致する、とも単純に思っていませんが、重要な指標ではあるとは思いました。ただ私自身が原語が読めないに等しいので、アングロ・ノルマンとノルマン方言が形態上ほとんど変わりなく、そして地理的にもノルマンディーからイングランドに至る広い地域で変わりなく使われていたとは、不勉強にてまったく知りませんでした。そうしますと、『アダム劇』の書かれた場所は、おそらく、そうした広い地域のどこかということになりますね。前のコメントで引用したAxtonとStevensの意見、つまりノルマンか、アングロ・ノルマンかを分ける議論をしても価値はないだろう、というのが正しいのでしょうね。

イングランドにおける仏語のひろがりについては、私は生半可な印象しか言えません。最近、英米では大きな研究テーマとして、多数の学者がイングランドの仏語使用について研究しているようで、York大学でも北米の大学と協力したプロジェクトが立ち上げられていました。今度私も少しは文献を読んでみたいテーマです。どういう視点から見るかにより仏語使用の広がりも大きく違うと思います。人口全体、ジェントリー、貴族、宮廷、等々。そして、宮廷だけをとっても、そこにいる人達は様々です。王侯貴族本人達は仏語が自由に出来る人がほとんどでしょうが、中世イングランドの貴族(aristocrats)は中世においては確か多い時で70家族くらいで、非常に数少ないとも言えます。彼らに仕えるまわりの人々についてはどうでしょうか・・・。前のコメントで書いたPaul Aebischerの序文からも分かるように、英米の学者や私達英文学をやっている者は、ついつい英語を優先して考えてしまい、イングランドにおけるフランス語の重要性を割り引いてしまう危険性があるかもしれません。

>英語がマジョリティであるならばわざわざアングロ・ノルマン方言のテクストを用意する意味が私にはよくわからない・・・

以前私のブログに書いたチョーサーの女史修道院長の例でも分かりますように、修道院でもかなり仏語が使われたようです。日常会話などで使われた言語がどうだったのか、これは私は寡聞にして知りません。イングランドで12、13世紀に書かれた文献は主にラテン語、そして一部フランス語と英語ですが、英語は特に12、13世紀にはめぼしいものは少なかったと思います。というのは、そもそも英語は書き言葉としては認められていなかったからです。「書く」という行為は、即ちラテン語で書くことを意味しました。当時のイングランド人にとっての識字能力は、ラテン語を読む能力です。これはフランスにおける仏語も同様ではありませんか。英語で書くのは、むしろ特殊な行為であったわけです。丁度、日本において、和語でちゃんとした文書や文学を書くことが考えられなかった時代があったようなものでしょう。チョーサーやガワーが英語で洗練された文学を書こうとしたのは、日本で言うと紀貫之が和語を使用したり、二葉亭四迷の言文一致のような、当時のイングランドの文人としては目新しい事だったと考えられています。ラテン語をそのまま朗読しても分からない人が多く、また英語で書くことは卑しいと考えられていたとすると、ある程度話し言葉としても使われていたフランス語で物語や説教文学を書き残すことがされたのではないかと思います。また英語に比べ、フランス語は上流階級の、より格式の高い言葉であるという認識は広くあったようです。

とは言え、イングランドの仏語使用について、こうして考えてみるとしっかりとした裏付けのない印象論しかなくて、私の知らないことばかりですし、具体的に専門家の意見を挙げることも出来ません。中世イングランドの識字について論じている学者の本を読んだこともありますが(Nicholas Orme, Michael Clanchyなど)、そうした著名な専門家も具体的な想定の数字を挙げられず、エピソード的な事例の積み重ねです。更に、議論はラテン語か英語かで、フランス語が視野に入ることは少ないです。もっと最近の、フランス語使用に絞った専門研究を捜してみないといけませんね。なかなかそういう機会がないのですが、アングロ・ノルマンに関してフランス文学の専門家であるcaminさんから直接ご意見をうかがえて幸いでした。

_ KM ― 2011/11/05 04:23

いや私も古仏語の方言についてはあやしい知識しか持っていません。今回のやりとりでちゃんと勉強しなおさなければと思いました。

『アダン劇』については、アングロノルマン方言で書かれているという事柄のみから、Yoshiさんのような推論を発展させるには、ちょっと飛躍が大きすぎるのではないかという気がしました。校訂の勉強をしていれば書記方言についての言語学的素養は必須なのですけれど、あいにく私はそうした勉強をちゃんとした経験がありません。

アングロノルマン語については、イギリスの研究者による著作の日本語訳があったことを思い出しました。前に図書館で借りてみたけれども、ちゃんと理解できなくて投げ出してしまった記憶があります。また借りてページをめくってみようと思います。
Mildred K. Pope 著 ; 大高順雄,福井秀加 訳述『アングロノルマン語』東京 : 研究社出版, 1980.7。

_ Yoshi ― 2011/11/05 10:19

色々と教えていただき、大変刺激になりました。私も『アダム劇』がイングランドで書かれたという考えは大して強く持っているわけでなく、単にその可能性が強いという程度でしたが、今回教えていただき、「可能性がある」程度になりました。昨夜、M Dominica Leggeの、スタンダードな(?)アングロ・ノルマン文学史である"Anglo-Norman Literature and its Background" (Oxford UP, 1963)を見たら、1ページ程度で、この作品が出来た場所についての議論が整理してありました。ベディエはイングランド説を一蹴したともあります。

Popeの本、教えて下さりありがとうございます。私は同じ本かと思いますが、M K Pope, "From Latin to Modern French" (Manchester UP, 1934)を持っているのですが、古仏語を授業で取って勉強していた若い頃でも、この大冊の本は細かく専門的すぎて手に負えなかったです。私が当時、古仏語を勉強した本、E. Einhorn, "Old French: A Concise Handbook" (Cambridge UP, 1974)には、約1ページで10項目に分類してアングロ・ノルマンの方言特徴がまとめてあります。こうした資料はあるのですが、今の私は古仏語を勉強し直す余裕はないです。しかし、おかげさまで、イングランドの多言語状況については、もう少し背景を勉強しなければいけないと痛感しました。

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