【01-13教会の演劇】観客としての神と典礼劇の限界2011/10/16 02:33

典礼劇では神の全能性を主張し続けるが、『アダン劇』では邪悪な存在を強調することで従来の典礼劇の枠組みを踏み越えようとしている。しかしここでもう一度繰り返しておこう。われわれは『アダン劇』あるいは他のいくつかの十一、十二世紀の典礼劇に取り入れられた新しい試みを、演劇史の大きな流れに関わる現象として一般化することはやはりできないのである。フルーリー=シュール=ロワールやリモージュのような、その当時の文化的先進地の聖職者共同体で制作・上演されることが多かったこれらの作品に見られる革新はもちろん演劇史のなかで言及されるべき事柄ではあるが、その影響は決定的なものではなかった。同じ時代に他の地域では、これらの典礼劇よりもはるかに保守的で原始的な典礼劇は上演されていたし、さらには中世の終わりまでずっとそうした未熟な典礼劇は各地で上演され続けるのである。

中世演劇は教会の外に抜け出すことはなかった。いやより正確には、中世演劇のなかのある種のタイプのものは教会に留まり続けたのである。B.D.ベルジェは、「演劇は人間のために作られ、上演された、人間による営為であり、典礼は神のために作られ、執り行われる人間による営為である」と言う*。この言に従えば、演劇であると同時に典礼でもあった教会の典礼劇は、神と人間という二種類の観客のためのものだったのである。典礼劇では、神という目に見えない観客の存在を決して忘れてはならない。スペクタクルは神という不可視の存在に対して捧げられたものだった。典礼劇とは、神に対する信徳の表明であり、神の賛歌であった。神の奇跡を目にすることで観客は、改悛と喜びを感じ、楽天的な気分にひたった。嘆きの声ももちろん神へ届けられた、しかしその嘆きはいつも一時的なものに過ぎない。なぜなら「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(『新約聖書』「マタイ伝」5:4)からである。

観客としての神の存在ゆえに、典礼劇には踏み越えてはならない厳しい制約があった。『アダン劇』の作者はこうした制約を何とか乗り越えようとした、あるいは少なくとも、表現の領域を押し広げようとしたに違いない。神自身が舞台に現れる『アダン劇』において神がなお観客として想定されていたかどうかは微妙な問題である。劇のなかでの神とアダンの関係は、創造主と被創造者の関係よりはむしろ主君とその家臣の関係を想起させることは興味深い。もし人間が芝居の中心となってしまえば、典礼劇はたちまちそのバランスを失ってしまうというのに。

『アダン劇』のなかに現れる人間と神の関係には、この時代に生まれた新しいメンタリティの影響が感じられる。そのメンタリティとは、個人という観念と倫理的意識の発達、そして現世的・世俗的生活の肯定という考え方である。しかし人々のこの大きな精神的変化をもたらしたのは、農村の大修道院や修道院ではなく、この時代に台頭し始めた都市のリアリティである。中世都市の隆盛のなかで、都市住民であるブルジョワのための新しい演劇が準備されつつあった。その新しい演劇に求められる機能も、その上演の方法も、教会の典礼劇とは異なるものだった。都市住民のための新しい演劇には、典礼劇から影響がまったく見られないわけではない。しかしこの演劇は教会からではなく、都市環境のなかで生み出されたものだった。

さまざまな演劇的革新が盛り込まれた『アダン劇』はその本当の後継者となる作品を持たない演劇作品となった。奇跡劇、聖史劇といった演劇が作られるようになるのは、教会の典礼劇の最盛期よりさらに二世紀、後になってからである。『アダン劇』は教会の演劇の枠内にとどまった作品である。このジャンルの演劇を生み出した教会建築の内部に従属し、この場所に囚われたままの状態にあるのである。教会の典礼劇には確かにさまざまな制限があったが、にもかかわらず大量の作品がその枠内で生み出された。『アダン劇』以後も長期間にわたって教会のなかで、神と人間という二種類の観客を前に、典礼劇は上演され続けたのである。

BERGER (Blandine-Dominique), Le Drame liturgique de Pâques du Xe au XIIIe siècle, Paris, Beauchesne, 1976.

コメント

_ Yoshi ― 2011/10/17 11:18

今回のポストも、色々と考えると面白いことがありました。ありがとうございます。

>B.D.ベルジェは、「演劇は人間のために作られ、上演された、
>人間による営為であり、典礼は神のために作られ、執り行われ
>る人間による営為である」と言う

何を強調するかの差に過ぎませんが、その後の俗語の演劇と典礼劇をあまり分けすぎる危険性にも留意したいですね。日本でも、神社に「奉納」する歌舞伎、人形劇、相撲などの芸能が色々あります。ギリシャ悲劇もディオニュソスに捧げられ、初期は舞台に祭壇があったそうです。典礼劇でありながら観衆を意識し、啓蒙的な作劇もあり得るでしょう。

>・・・この時代に台頭し始めた都市のリアリティである。

これは14世紀以降の聖史劇には言えるでしょうが、典礼劇についてはどうでしょうか。ただ、一部の大規模なラテン劇(例えば『ダニエル劇』など)では、周辺の町の人々の参加とか観劇が考えられるのではないか、というのが、私の印象です。

>『アダン劇』はその本当の後継者となる作品を持たない
>演劇作品となった。

ひとつ考えられる理由としては、イングランドでなされた劇であれば、仏語文学自体が孤立しており、継続的な伝統を形成し得なかったとも言えますね。ロマンスや叙事詩に比べ、演劇は写本の電波によって伝わるという点が弱いので、他の仏語地域に写本として広まらなかったのではないかと思えます。一方、同時代のアングロ・ノルマン作品、マリ・ド・フランスの『レ』は、広く読まれたようで、模倣した作品が現れるなどの影響が出ていますね。

『アダム劇』がイングランドでの作品とすると、イングランドでは大陸と比べ典礼劇の写本が少なくて、典礼劇がそれ程行われなかった可能性も高い、ということと、『アダム劇』の後継が現れなかったことの間に、何らかの関係があるかも知れません。まあ、全ては勝手な推測ですが・・・。

なおイングランドでは、15世紀の写本でShrewsbury Fragmentsという典礼劇(とも解釈されます)の断片が残っています。これは英語半分、ラテン語半分です。 Yoshi

_ camin ― 2011/10/23 03:36

Yoshiさん、興味深いコメントどうもありがとうございます。
典礼劇についてはそれが典礼という枠組みのなかで上演、制作されたものであるならば、一般信徒が制作、観劇に関わることが少なかったのではないか、というのが私の今の時点での印象です。そもそも典礼に一般信徒の教化の役割かどうか疑問を持っています。

都市のリアリティについては、典礼劇一般ではなく、『アダン劇』についてその記述にそれまでの修道院、教会文化ではなく、都市文化の影響が見られるのではないかという意味です。

また『アダン劇』の孤立ですが、後継者を持たないのは『アダン劇』に限らず、十四世紀以前のほぼすべてのフランス語演劇作品は直接の後継者を持たない孤立した作品ばかりです。十四世紀以前のフランス語演劇作品については実際のところ「史」を記述するのに十分な材料をわれわれは持っていないとも言えます。

アングロ・ノルマン語ですが、この古仏語の方言についてはイングランドのみならず、大陸のノルマンディ地方でも使用されていた言語であると私は思うのですが、誤解していたのかな。アングロノルマン語の使用をもって、イングランドで制作されたと仮定するのには少々違和感を覚えます。

_ Yoshi ― 2011/10/23 09:59

caminさん、ご丁寧なレスをいただき、ありがとうございます。大変勉強になり、また、自分の浅学を自覚させられました。おっしゃるように、アングロ・ノルマンだからと言って、イングランドで書かれたり上演されたとは限らないですね。そもそも写本はオリジナルの執筆や上演とは別ですから。それにこの写本のアングロ・ノルマンの方言特徴がどのくらいはっきりしているのか、古仏語をちゃんと読めない私には分かるわけもありません。中世末期だと、アングロ・ノルマンの方言特徴は非常に際立つようなんですが、12世紀頃はまだノルマン方言とほどんど変わらないかも知れませんね。仏語の練習を兼ねてマリ・ド・フランスの原文を少し読んだことがありますが、Francianのテキストとの違いが分かりませんでした。それにノルマン朝とプランタジネット朝イングランドは、英仏海峡を挟んだ王国でしたから、聖職者の往来は非常に盛んだったことでしょう。

典礼と典礼劇、そして観衆の関係については、私には分からない事ばかりで、無知なコメントをしてしまいました。いつか余裕が出来たら、『アダム劇』を含めたこの分野について、一度代表的なテキストを読み返し、参考書を幾つか読んで見たいと思います。しかし、いつになることやら(^_^)。

なお『アダム劇』の項については、一旦消えていたコメントの代わりに、先週もう一度ほぼ同じようなことを書き直してコメントをしておきましたので、ご確認下さい(もしかしたら、私のコメントの入れ方が間違っていて、また消えてしまっているかも知れませんが、その際はお許しください)。 Yoshi

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