【01-05教会の演劇】最初の典礼劇の観客は誰か?(「聖墓訪問」その5)2011/07/10 04:54

四回に分けて西欧最古の演劇である典礼劇《お前たちは誰を探しているのか?》(「聖墓訪問」)について記述した。これらの記述は【はじめに】に記したように、主にベルナール・フェーヴルによる演劇史の記述に拠っている。フェーヴルの記述に拠ってはいるが、フェーヴルによる最古の典礼劇についての記述について私はすべて同意しているわけではない。特にこの最初の典礼劇の観客は誰だったかという点については疑問を持っている。

フェーヴルは「聖墓訪問」の劇が教会の広大な内部空間をダイナミックに使って上演されたと記述している。彼は典礼劇の専門家ではないので、この部分の記述については文章中で挙げられている他、カール・ヤングやギュスターヴ・コエンなどによる先行研究に参照したに違いない。三人の聖女は教会の東にある内陣から、平信徒が座る身廊を通過し、教会の入口のそばの西側の部分に至る広大な空間を移動したとある。
しかしフェーヴルの演劇史やマズエの『中世フランス演劇』に引用されている『聖務規則集』の該当部分には、教会のどの場所で演じられていたのかは明示されていない。もしかすると引用されていない別の箇所にそうした移動場所の記述があるのかもしれない。しかし教会内の場所名称については諸説あって特定が難しいこともあるという。フェーヴルが後に記す十二世紀の後半の『アダン劇』は、従来、教会の入口の前の広場で上演されたと考えられていたが、ノーメンはこの作品はラテン語の典礼劇同様、教会内部で上演されたという説を打ち出し、最近はこのノーメンの説が支持されている。

私がフェーヴルの記述に疑問を持つのは、J.ハーパー『中世キリスト教の典礼と音楽』(佐々木勉、那須輝彦訳、教文館、2000年)に次のような記述があったからである。すなわち、中世の教会内部は隔壁(スクリーン)によって仕切られていた。身廊と内陣を隔てるこの隔壁の大半は1960年代以降の典礼改革によって取り去られていて、現在ではごく一部の教会でしか見られない。
この隔壁の存在ゆえ、司祭がミサを執行し、聖務日課を唱える教会の東に位置する主要部は、平信徒が座る身廊からは部分的にしか見えなかった。主祭壇は、身廊から見て隔壁のはるか彼方にあった。日々の聖務日課とミサの主要部分は全て聖堂の東の部分、共唱席(聖歌隊席) と内陣(あるいは聖所)で行われていた(同書56-58頁)。

聖エテルワルドによる『聖務規則集』には確かに典礼劇は「無知な民衆 や新信徒たちの信仰を強固にする」ad fidem indocti vulgi ac neofitorum corroborandam equipando sequiという目的をもって上演されたと記述されている。しかし典礼劇が聖務日課の一部である以上、それはフェーヴルが記述するように身廊も含めた教会の空間すべてを使って劇が上演されていたのではなく、隔壁の向こう側にある聖域のなかで上演された可能性が高いような気がするのだ。ここで「気がする」という表現を使ったのは、私自身が今のところをそれを判断するだけの材料を持っていないからなのだが。

中世の教会での典礼がハーパーの書くとおりであり、典礼劇が典礼の枠組みのなかで上演されたのであれば、教会東側の聖域に入ることが許されていなかった一般信徒はその上演の様子を見ることができず、隔壁の外側で典礼劇を演じる修道僧たちの歌声を聞くのがせいぜいだっただろう。その歌声はラテン語であり、一般信徒には理解できたはずがない。
しかもこの最初の典礼劇は朝課の祈りの折りに上演されたとある。朝課は日の出の時間よりだいぶ前、夜半の暗闇の時間に行われる祈りである。復活祭という特別な祝日だったとはいえ、一般信徒がその時間帯に教会に赴き、典礼に立ち会うことは果たしてあったのだろうか? 

典礼儀式は地域ごと、時代ごと、また教会、修道院によってかなりの異同があったが、ハーパーの上記の本に記述されている典礼式次第を参照する限り、典礼劇が教会東側の聖域を出て上演された可能性は低そうだし、その上演に一般信徒が観客として立ち会った可能性も低そうだ。
そもそも典礼は誰のために行われているか? 中世の修道僧の日常は一日に八回ある祈りの時間を中心に構成されており、彼らの最も重要な仕事は神に対して祈りを捧げることだった。典礼の祈りの際に歌われる聖歌、細かく定められた式次第は何よりもまず神に対して献げられたものであるはずだ。

ここで個人的な体験を書く。学部学生のころにイングランドのチチェスターに留学している友人を訪ね、何日か滞在したことがあった。滞在中暇をもてあましていた私は、夕方になるとチチェスターの大聖堂に行った。夕方の決まった時間に教会聖歌隊がウィリアム・バードなどの十六世紀の聖歌を見事な合唱で歌うのを聞くことができたのだ。
身廊には毎日私を除いてほとんど人がいなかった。聖歌隊は東側の聖域のなかにある聖歌隊席で聖歌を歌った。チチェスター大聖堂は今でも教会の東側と西側を隔てる隔壁が残っている数少ない教会の一つであり、その隔壁が邪魔になって聖歌隊が歌っている様子は身廊にいる私からよく見えない。毎日、聖歌隊を除いてはほぼ無人の教会堂のなかで見事な合唱が響きわたることに私は感動した。あの歌声はもちろん身廊で歌声を聞くごくわずかしかいない「観客」のためではなく、天上の神に献げられていたはずである。

ハーパーによる典礼と教会堂の構造についての記述と私のこの個人的な体験から、おそらく最初の典礼劇である「聖墓訪問」も、東側の聖域の狭い部分で演じられており、その演劇は平信徒の教化というよりは神への捧げ物として聖職者たちによって演じられていたように私には思える。

典礼については、聖職者によるものも含め、詳細で膨大な研究があるはずなので素人の私が手を出しにくい分野なのだが、時間を見つけることができれば、聖エテルワルドの『聖務規則集』ほかの一次文献や主要な研究を参照した上で、当時の典礼の状況および典礼劇の観客の問題について考察してみたい。

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【追記】ハーパーの『中世キリスト教の典礼と音楽』に典礼劇についての記述があるのを読み落としていたことに気づいた。フェーヴルの記述に違和感を抱いたのは、かつてハーパーの本を読んだときにこの部分を読んでいたのが記憶に残っていたためかもしれない。『中世キリスト教の典礼と音楽』209頁以下で典礼劇についての言及がある。そこには「典礼劇は全編が、セリフでなくすべて(ふつうラテン語の)歌で信仰した。聖堂での典礼(朝課、ミサ、晩課)の枠内で上演することを意図して生まれたもので、共同体の構成員によって、共同体のために演じられた。文字が読めない会衆に聖書の内容を教えるための教育手段ではなかったのである」とあり、典礼劇の役割をラテン語のわからない民衆の強化の手段とするフェーヴル他、従来の中世演劇史での説明が明確に否定されている。なおここでの「共同体」とは教会、修道院に共住する聖職者集団を指す。

【01-04教会の演劇】典礼とその演劇化(「聖墓訪問」その4)2011/07/10 03:40

「聖墓への訪問」の演劇化は十分なものではなかったが、九世紀から十世紀にかけての典礼儀式の発達が演劇的表現の「扉を開いた」ことは間違いない。

典礼の演劇化に関わる重要な事柄を二つ指摘しておこう。まず一つ目は、カロリング・ルネサンスの時代に進展したラテン語と口語の完全な分離である。813年にトゥール公会議は聖職者に対して説教をラテン語ではなく、現地で話されている日常語によって行うことを命じた。これはこの時代にはラテン語がもはや聖職者、それも学識を備えた聖職者にしか理解されなくなっていることを示している。典礼で使われるラテン語はそれゆえ信徒の大多数にとって聞いても理解することのできない外国語であった。このことが典礼儀式の内容をより具体的に、より表現豊かなものにする方向に進めた。すなわち典礼の演劇化を推し進めることになった。

二つ目の事柄として典礼様式の変化を挙げることができる。すべての信徒が「共同で行う行為」のために協調する参加型の典礼から、司祭が中心となって執り行う典礼への変化がこの時代に見られるのだ。カロル・エによれば*、「かつて全員で行われていた典礼は段階を経てスペクタクルとしての宗教儀式へと変化しつつあった。典礼は徐々に『受動的』なものになっていった。かつては典礼儀式に参加していた信徒たちは観客になり、儀式の執行はこの祭式に精通した何人かの専門家に委ねられるようになった」。

典礼はスペクタクルに近づき、信徒はその観客になっていく。こうして演劇の誕生を準備する条件が典礼のなかに揃った。しかし「教会の演劇」は典礼の中核であるミサの一部として取り入れられることはなかった。ミサに出席している信徒は自分がスペクタクルに立ち会っているとはまったく感じていないはずだ。「教会の演劇」はミサよりも副次的な典礼、朝課や晩課のような聖務日課で行われる典礼の中で取り入られた。つまりミサとは相容れない性質が劇にはあるのだ。信徒にとってミサで重要なことは、キリストの犠牲や聖体の秘蹟という過去の出来事を、儀式を通じて想起することよりはむしろ、キリストと聖体を聖化された時空のなかで、現前のもの、現実のものとして改めて提示することである。
「教会の演劇」の機能は、過去のある歴史的時点のなかに位置づけられた出来事を再現することによって、その出来事を共同の記憶として呼び起こす。かつて起こったキリストの復活を演劇的に具現化することは、ミサの儀式を通して復活を現在に更新することと同じではない。

「教会の演劇」である典礼劇はその構成素材をすべて典礼から借りている。教会という空間、聖歌隊の合唱、装具。そしてこの両者を執り行う祭式者は聖職者である。典礼儀式から典礼劇への移行は自然に行われたが、会衆を満足させるためには聖書のエピソードのドラマ化によって会衆に強い印象を与えるだけでなく、劇の土台となる典礼との関係を考慮する必要があった。《聖墓への訪問》は復活祭の祝日に上演されてこそ意味がある。典礼が持っている美学的および文化的な枠組みは典礼劇の内容を拘束した。《聖墓への訪問》を記録する『聖務規則集』は「無知な民衆や新信徒たちの信仰を強固にするために」劇が演じられたと記している。

典礼劇は典礼に従属し、教訓的な目的のために制作され、上演されたのだ。典礼劇は信仰の学びの場のように、典礼と結びついていたのである。

【01-03:教会の演劇】西欧最初の演劇《お前たちは誰を探しているのか? 》翻訳(「聖墓訪問その3」)2011/07/03 04:30

(復活祭前の聖金曜日の夜があける直前)、朝課の第三の朗読をしている間に、四人の修道僧が着替える。そのうちの一人は白麻の祭服(アルバ)を身につけ、他の物事に気を取られているような感じで、聖墓の場所に静かに近づいて行く。手にはシュロの葉を持ち、彼は黙ってそこに座る。聖歌隊が第三のレスポンソリウム(応唱歌)を歌っている間に、長袍の祭服[教会でミサ以外の盛式の時に司祭が白衣の上につける袖なしマント]を着た残りの三人の修道僧が、手に香炉を持って、何かを探している人のようなゆっくりとした足取りで、聖墓に近づく。修道僧たちは、こうした動作すべてを、聖墓に座る天使とイエスの体に香油を塗るためにやってきた女たちを模倣して行う。聖墓に座っていた天使が、何かを探しに、さ迷うようにやって来た三人の女が近くにやって来たことに気づくと、天使は落ち着いた静かな声で次のように歌いかける。

「キリストの端女よ、お前たちこの墓に誰を探しにきたのですか?」 Quem quaeritis in sepulcro, o Christicolae ?
この歌が終わると、三人の修道僧は声をそろえて答える。
「天を住処とされるお方、私たちはナザレのイエスを探しに来たのです」 Iesum Nazarenum crucifixum, o Coelicolae.
天使は彼らに言う。
「そのお方はここにはいません。かつて予言されていた通りに、あのイエスは復活なされたのです。行って皆に伝えなさい、死者たちの間に横たわっていたイエスが再び立ち上がったということを」Non est hic, surrexit sicut praedixerat, ite, nuntiate quia ressurrexit a mortuis.
この命令を聞き、三人の墓参者は聖歌隊のところへ戻ると、次のように歌う。
「アレルヤ(主よ褒め称えよ)!救世主は復活されたのだ!今日、力強き獅子は復活した、救世主、神の息子は復活されたのだ」Alleluia, ressurrexit Dominus. Hodie resurrexit leo fortis Christus, filius Dei.
この歌が終わると、座っていた天使は三人を呼び寄せる動作をする。そして次のアンティフォナ(先唱句)を歌う。
「こっち来て、ご覧なさい、主が磔にされていた場所を、アレルヤ」Venite et videte locum ubi positus erat Dominus, alleluia.
こう歌いながら、カーテンを引き上げ、祭壇にあったはずの十字架がなくなっていることを示す。そこには十字架を覆っていた布しか残っていない。それを見た三人の修道僧は聖墓まで持って行った香炉を下に置くと、布を手にとって、他の兄弟たちにその布を広げて見せる。主が復活し、この布にもう包まれていないことを示すためである。そして次のアンティフォナ(先唱句)を歌う。
「木の十字架にわれわれの身代わりとして磔となった主は、墓の中から再び立ち上がったのだ、アレルヤ!」Surrexit Dominus de sepulchro qui pro nobis pependit in ligno, alleluia.

それから三人は聖布を祭壇に置く。アンティフォナが終わると、死に打ち勝ち、復活された我々の王の勝利を喜ぶ修道院長が、頌歌《テ・デウムTe Deum laudamus(主なるあなたをわれわれは賛美します)》を歌い始める。《テ・デウム》が終わると、修道院の鐘が一斉に鳴り響く。

聖エテルウォルド「聖務規則集」(965-975)より抜粋。(saint Ethelwold, Regularis Concordia anglicae nationis monachorum sanctimonialumque)Charles MAZOUER, Le Théâtre français du Moyen Âge, p. 26-27で引用されているテクストの翻訳。

【01-02:教会の演劇】トロープスから演劇へ(「聖墓訪問」その2)2011/07/03 04:26

教会の演劇の起源は「トロープス」tropus(「トロプス」と記すほうが正しいかもしれない)と呼ばれる典礼歌であると考えられている。トロープスはラテン語の修辞学では比喩、語の転義的使用を意味していたが、それが典礼聖歌に付け加えられた旋律および説明的歌詞を指すようになった。《キリエ》Kyrieや《アレルヤ》Alleluiaといった典礼歌の最後の音節にメリスマmelismaと呼ばれる長大な音楽的装飾が施されるようになり、九世紀になるとその装飾部に聖歌の内容を説明する歌詞が新たに付け加えられるようになった。この付加された旋律と歌詞がトロープスである。トロープスはしばしば聖歌隊の二つのパートによる対話の形式をとった。この対話形式のトロープスが西欧演劇の起源となったのである。

《お前たちは誰を探しているのか? Quem quaeritis》(「聖墓訪問」の場面の冒頭で歌われる歌詞の冒頭の文句)は、もともとは九世紀にスイスのザンクト=ガレン大修道院で作られた復活祭ミサの入祭唱のトロープスだった。しかしこのトロープスが復活祭ミサの一部である限り、それは典礼儀式を彩る音楽的・言語的装飾に留まったままだ。このトロープスが演劇へと発展するには、ミサから朝課の祈りにこのトロープスを移さなくてはならなかった。朝課の祈りではより大きな典礼上の自由が許されていたからである。

「聖墓訪問」のトロープスには控え目ではあるがはっきりとした演劇的性格を確認することができる。フランス中世演劇の研究者のオメル・ジョドーニュOmer Jodogne*は、演劇だけが持つ特質は「役者と呼ばれる人物が自分以外の別の人物になりきること」にあると述べる。この役者の行う作業をジョドーニュは「人物化」personnationと名付けるが、この言葉は英語impersonationに由来する造語である。

聖エテルウォルドによって記録された対話体トロープスにはこの「人物化」をはっきりと認めることができる。聖エテルウォルドは次のように入念に説明する。「これらすべての場面で、聖墓のそばに座る天使、そして香油を手にしてやってくる女たちの様子が模倣される」。
つまり四人の修道僧は役者となって四人の人物を演じるのである。シュロの葉やつり香炉という小道具を使い、ジェスチャーやそれらしい動きによって。聖女を演じる彼らは教会のなかをゆっくりと歩く。何かを探しながら、ふらふらとさまよっているかのように。

三人の人物は教会空間全体を演劇の場として利用したとフェーヴルは推定する。中心となる場所は教会の西構え(massif occidental 玄関広間、鐘楼などから成る多層構成の西正面部)であり、そこがイエスの聖墓とみなされ、聖金曜日の十字架が象徴として埋葬された。聖墓への訪問は、教会内陣の内側で窮屈な場所で展開されたのではない。身廊から教会西側部分に至る広い空間を三人のマリアたちはゆっくりと移動したのだ。そして最後に、教会の西側に到着した聖女たちはイエスを包んでいた屍衣を手に取ると、教会のもう一方の端、東側の内陣にいる聖職者たちにその屍衣を振って示す。内陣でこの動作を認めた小修道院長prieurは、《主である神を》Te Deumを先唱する。この《主である神を》が歌い始められることで教会の演劇は完了する。会衆は演劇から典礼儀式へと再び立ち戻るのだ。

《お前たちは誰を探しているのか? Quem quaeritis》は西欧最初のドラマであることは確かである。しかしこの「聖墓訪問」の場面の「上演」は典礼儀式の内側で行われていたことを決して忘れてはならない。この対話体トロープスで実現している「人物化」personnationは完全なものではなかった。とりわけ衣装については徹底していない。後にトゥールの礼拝堂付き司祭が聖女たちを演じたときには「頭にヴェールをかぶって」coopertis capitibus 変装したのだが、十世紀の修道僧は扮装せずに典礼の服装のまま三人のマリアを演じた。


* Omer Jodogne, "Recherches sur les débuts du théâtre religieux en France", Cahiers de civilisation médiévale, Univ. de Poitiers, 1965, p. 1-24 et 179-189.

【01-01:教会の演劇】西欧最古の演劇(「聖墓訪問」その1)2011/06/27 01:26

【01-01教会の演劇】聖墓訪問

時代は十世紀、時間は夜明け前で、教会の外は闇に包まれている。復活祭の朝課の典礼が執り行われている。三人のマリアがキリストの墓にやってくるという福音書のエピソードが、典礼のなかで演劇的に取り上げられる。これがフランスにおける最初の演劇的パフォーマンスだった。


典礼の式次第の最後に三人の修道士が登場し、彼らが三人の聖女マリアを演じる。彼らは教会の身廊を進み、聖墓の場所までやって来る。そこにはシュロの葉を持っている四人目の修道士がいた。マリアを待ち受ける天使である。天使は三人にキリストの復活を伝え、キリストが埋葬された墓が空になっていることを確かめるように促す。三人のマリアは聖歌隊のほうに振り向き、その場に居合わせた人たち全員にキリストの復活を告げる。手にはその証拠となる白布があった。白布は墓に残されていた。イエスの遺体を包んでいた白布を三人は振ってみせる。その後、三人のマリアはこの白布を主祭壇に献げる。


ウィンチェスター司教、聖エテルウォルド saint Ethelwoldが965年から975年の間にイギリスのベネディクト派修道院の修道僧のために作成した「聖務規則集」Regularis concordiaは、この典礼の式次第を完全なかたちで記す最古の資料だ。しかし聖エテルウォルドは、この式次第はフランスのロワール河畔フルーリFleuryの聖ブノワ修道院 Abaye de saint-Benoîtで行われていた典礼式次第を模倣したものであることを明らかにしている。おそらくこの「聖墓への訪問(Visitatio sepulchri)」の場面は十世紀半ばには、復活祭の日に行われる典礼式次第の一部としてこのようなかたちで「上演」されていたようだ。


いやもう少し早い時期であった可能性もある。三人のマリアの聖墓訪問の場面が表象された九世紀の二つの象牙彫刻がある。カロル・エ Carol Heitzはこの彫刻の聖女の姿が奇妙なことに女性には見えないことを指摘した。この二つの彫像の職人の技術が拙劣であるがゆえに女性に見えないというわけではない。彫刻家が掘り出したのは三人のマリアではなく、三人のマリアの役を演じる三人の男性修道僧であった可能性が高い。となると、この象牙像は「典礼劇」drame liturgiqueと呼ばれている演劇の実践の場面を表象した最古の資料ということになる。


なお「典礼劇」drame liturgiqueという呼称は十九世紀の研究者によって与えられたものであり、中世人がこの教会内で上演された演劇をdrama liturgicaと呼んでいたわけではない。そもそも教会の典礼儀式に対してliturgie(その教会ラテン語形 liturgia)という名称が定着したのは十六世紀以降のことだ。ここで問題になっている演劇的パフォーマンスは確かに「典礼に付随する演劇」drame paraliturgiqueであるが、本演劇史が依拠しているフェーヴルの演劇史では敢えて「教会の演劇」というもっと曖昧な言い方を用いている。
しかしこの西欧世界最初のドラマが典礼と結びついており、典礼をより効果的で印象的にするという意図から生まれたものであることは明らかだ。中世人による呼称ではないにせよ、演劇の実態を考えるとこのドラマを典礼劇と呼ぶことに大きな問題はないと筆者は考えるし、また記述の都合上もこの名称を用いたほうがわかりやすい。
よってこのブログでこの「教会の演劇」に言及する際には、現在、定着した呼称であるdrame liturgique訳語、典礼劇を使用することとする。

【00-04:はじめに】中世演劇の孤立(2)2011/06/26 23:26

一般的なフランス文化観では、フランス文明はその栄光の起源を古典古代に求める。中世はその言葉の意味通り(フランス語ではMoyen Âge)、輝かしい古代と世界史においてヨーロッパが優位に立った近代の中間に位置する時代に過ぎない。平均的な教養を持つフランス人なら、フランスの散文文学といえば十六世紀のラブレー、モンテーニュ以降を、韻文ならやはり十六世紀のプレイヤッド派の詩人たち以降を思い浮かべるだろう。そして演劇といえばそれは十七世紀古典主義時代の偉大な劇作家であるコルネイユ、モリエール、ラシーヌ以降が彼らの教養の枠組みの中にある。そしてそれ以前の作家や作品の知識、関心は物好きな好事家の領域に属しており、文学研究者や演劇研究者であっても、古典古代の作品、作者に比べると、中世の文芸への関心は一般にはるかに低い。

「暗黒の時代」という中世に対する否定的なイメージを定着させたのは十八世紀の啓蒙主義者だと言われている。その後、中世はロマン主義の想像力のなかで幻想的な異世界となった。近代初期にもたらされたこの二つの「歪み」は今もなおわれわれの中世観を支配している。中世は近代のアンチテーゼである。近代は中世からの継続性を否定し、この時代を異世界とすることで己のアイデンティティを主張している。となれば、中世の文芸について考えることは、われわれの感性をいまなお縛る近代的文学観を検証する手段となりうる可能性を秘めているのではないだろうか。古代からも近代からも切り離された中世の演劇を考察することによって、われわれが今抱えている演劇の問題の輪郭を明らかにし、その可能性を押し開くことができるのではないだろうか、という希望を持って、私は中世フランス演劇の研究を続けている。

【00-03:はじめに】中世演劇の孤立(1)2011/06/26 03:25

西洋史では一般的に西ローマ帝国の滅亡(476年)から15世紀末までを中世として区分しているが、フランス演劇史での中世は教会の典礼の一部で演劇的なやりとりが行われるようになった9世紀から、聖史劇、寓意教訓劇といった中世に生まれた演劇ジャンルの衰退が決定的になった16世紀半ばのあいだの期間を指す。

中世演劇は古代演劇とも近代演劇とも断絶している。

まず古典古代の演劇伝統は中世ヨーロッパに受け継がれることはなかった。既に共和制末期にはローマ帝国でも剣闘士の戦いや戦車競技、言葉を使わない身振り芝居であるパントマイムが流行し、いわゆる演劇作品の上演は低調だった。帝政初期のセネカのラテン語悲劇も舞台で上演されたのではなく、知識人のサークルのなかで朗読されていたと考えられている。その後、ローマの国教となったキリスト教の初期教父たちが演劇に対して否定的な態度をとったこともあり、ゲルマン民族の大移動によって混乱に陥った5世紀のローマ社会では演劇上演の伝統は途絶え、劇場のようなものはもはや存在しなかったようだ。5世紀から9世紀に至る数百年のあいだ、ヨーロッパで演劇の上演が行われた形跡は、少なくとも文献上では確認することはできない。プラウトゥスとテレンティウスの作品は中世のあいだも引き続き修道院学校の教科書として読まれ続けた。しかし役者によって舞台で上演される機会は中世にはなかった。そもそもそういう作品であるとは思われていなかったのだ。

ヨーロッパ、そしてフランスの演劇の歴史は、古典古代の演劇伝統とは全く切り離されたところから始まった。その淵源となったのは、ローマ・カトリック教会の典礼である。12世紀後半になってようやく全編がフランス語で書かれた演劇作品が登場する。そしてフランス語による中世演劇が隆盛を迎えるのはようやく15世紀になってからだ。聖史劇、受難劇、寓意道徳劇、笑劇、阿呆劇、独白劇など中世演劇の代表的ジャンルがこの時代に揃い、次の世紀へと受け継がれる。しかしこれらの中世劇の諸ジャンルは十六世紀後半の宗教戦争の頃には急速に衰えてしまう。スペイン喜劇、イタリアのコメディア・デラルテ、プレイヤッド派による人文主義演劇が十七世紀のバロック演劇、古典主義演劇の成立に寄与するのに対し、フランス中世演劇の諸ジャンルの遺産は、笑劇を除いて、ほとんど次世代のフランス演劇に継承されることはなく、忘れ去られてしまったのだ。

【00-02:はじめに】文献案内2011/06/25 10:11

ブログの記述にあたって参照した主な文献は以下の通りです。
 
  1. Bernard Faivre, « La Piété et la fête (des origines à 1548) », Le Théâtre en France du Moyen Âge à nos jour, dir. Jacqueline de Jomaron, Paris, Armand Colin, 1992, p. 17-101.
  2. Charles Mazouer, Le Théâtre français du Moyen Âge, Paris, SEDES, 1998.
  3. Armande Strubel, Le Théâtre au Moyen Âge : Naissance d'une littérature dramatique, Rosny, Bréal, 2003.
  4. Gustave Cohen, Le Théâtre en France au Moyen-Âge, Paris, PUF, 1948.
  5. Grace Frank, The Medieval French Drama, Oxford, Clarendon, 1954.
  6. Jean-Pierre Bordier, « Le Moyen Âge : la fête et la foi », Le Théâtre en France des origines à nos jours, dir. Alain Viala, Paris, PUF, 1997, p. 45-97.
  7. Madeleine Lazard, Le théâtre en France au XVIe siècle, Paris, PUF, 1980.
  8. 長谷川太郎「中世演劇─ その発生と展開」、渡辺守章他編『フランス文学講座4 演劇』(大修館書店、1977年)、 第1章、4-34頁。
  9. 長谷川太郎「演劇の誕生 (13世紀まで)─修道院から都市へ」、原野昇編 『フランス中世文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2007年)、 157-168頁。
  10. 鈴木覚「十四世紀以降の 演劇」、原野昇編『フランス中世文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2007年)、 169-179頁。
  11. 川那部和恵『ファルスの 世界:一五から一六世紀フランスにおける「陽気な組合」の世俗劇」(渓水社、2011年)。
  12. 重信常喜『フランス中世 喜劇入門』(紀伊國屋書店、1972年)。
  13. 戸張智雄「II ルネサンス」、渡辺守章他編『フランス文学講座4 演劇』(大修館書店、1977年)、第2章、35-50頁。
 

【00-01:はじめに】ブログの紹介2011/06/24 22:54

研究用の覚書として、フランス中世演劇史をまとめたブログを開設することにしました。ベルナール・フェーブルBernard Faivreの著述をこのブログでの記述の枠組みとして利用し、内容の面でもフェーブルに大きく依拠しています。

フェーブルの中世演劇史は13人の著者による総頁数1200頁を超えるフランス演劇史(文献案内の【01】)の一部で、原文の頁数は100頁ほどです。フェーブルは十五、六世紀の笑劇(ファルス)の研究者として知られており、パリ第十大学の演劇学部門で教えています。

この演劇史は専門家ではなく一般を対象にした本なので原文には注がありませんが、単なる作品名の羅列と作品解題ではなく、近年の研究成果を踏まえた上で、いくつかの切り口でフランス中世演劇の特徴をわかりやすく提示し、その展開がダイナミックに記述されています。フランス演劇史の本は数多いですが、フェーブルの記述は概説書とはいえ、私がこれまでに読んだフランス中世演劇史のなかでは最も面白いものの一つでした。

ブログの内容は基本的に、上記のフェーブルの中世演劇史の記述を土台に、次にあげるいくつかの演劇史にかかわる著述も参考にした上で、抜粋、要約し、補足を加えたものになります。