【02-02役者とジョングルール】ローマ古代劇に対する誤解:朗唱者とパントマイム役者2011/10/30 03:21

ジョングルールの技芸には演劇的要素が含まれていたことは確かではあるものの、大部分の作品で見出すことできる演劇性はささやかのものに過ぎない。テクストのなかからジョングルールのパフォーマンスの痕跡を取り出し、朗唱的部分と演劇的部分を厳密に区別して考察することは、実際には困難な作業となるだろう。そもそもわれわれがここで持ち出す「演劇」という概念自体、現代的な文学ジャンル観に基づくものであり、あらゆる文芸が演劇的状況で演じられてきた中世の文芸に適応するにあたっては注意が必要となるのである。

中世では(少なくとも十五世紀まで)、「演劇 theatrum (lat.)」、「演劇的 dramaticus (lat.)」、「喜劇 comoedia (lat.)」、「悲劇 tragoedia (lat.)」という語は、現代とは異なる概念を示していたことは知っておいたほうがよいだろう。聖職者たちはプラウトゥス、そしてテレンティウスの作品を通して古代演劇作品を知っていたし、そのテクストを愛読していた。とりわけテレンティウスはよく読まれていた。しかし中世のかなり初期の段階から(少なくとも六世紀以降)、ローマ古代劇の上演は次のように行われていたのだと信じられていた。
一人の朗唱者がすべての役柄の台詞を読み上げる。台詞が読み上げられているあいだ、パントマイム役者たちが動作によってその場面の各人物を演じる。
この古代劇上演についての勘違いは、五世紀にテレンティウスの作品の校訂者したカリオピウスの記述を、誤読したことに由来すると考えられている。彼が校訂したテレンティウスの劇写本には、”Ego Calliopius rec”と記されている。この”rec”という略記は”recensui”「校訂した(文全体では「私、カリオピウスが校訂した)」と読むべきだったのであるが、それを中世人は”rectavi”「朗読する」の略だと解釈したのだ。この誤解が中世を通じてずっと保持されたことは、その後に書かれたテクストや写本挿絵によって確認することができる。中世では、一人の朗唱者と数人のパントマイム役者によって、ローマ古代劇は上演されていたと信じられていたのである。

また中世では詩人自身が語り手として登場しない対話形式の詩はすべて「演劇」作品であるとみなされた。ウェルギリウスの『牧歌』や旧約聖書の雅歌を、中世人は「演劇」に分類したのである。古代演劇についてこのような誤解があった一方で、「喜劇」と「悲劇」は、演劇と関係ある概念であるとは考えられていなかった。ダンテは朗唱される詩のうち、幸福な結末を持つ作品が「喜劇」であると考えており、それゆえ「地獄篇」ではじまり、「天国篇」で完結する自分の作品を『喜劇』Commedia(『神聖喜劇』Divina Commedia、すなわち『神曲』のこと)と名付けたのである。また中世の学識者たちは、教会や修道院附属の学校で読まれていた古代演劇作品と教会や修道院で上演されていた典礼劇を関連づけて考えることはほとんどなかった。彼らにとって、ローマ古代劇と典礼劇はまったく異なる領域に属する作品群であったのだ。

このように、古代世界と中世の間には演劇に関する大きな断絶が存在したのである。演劇の形式だけでなく、演劇のパフォーマーについても古代と中世の間には断絶があったと考えられている。かつては、西ローマ帝国後期に活躍したパントマイム役者から中世のジョングルールまで、演劇的芸術に関わる芸人の伝統は途切れることなく続いていたと考えられていた。しかし実際には、六世紀から九世紀の間、西欧世界で何らかの演劇的上演が行われていたことを示す文献をわれわれは持っていない。中世の前期にあたるこの時代にも、大貴族の宮廷には、道化や愚者などがいて、主人の無聊を慰めていたかもしれない。しかしこの時期、役者的な芸能者が西欧に存在したかどうかは疑わしい。シャルルマーニュの時代(九世紀)に、ヴィタリスという芸人がいた。ヴィタリスは、西欧でわれわれがその名前を確認することのできる最初の芸人である。その墓銘碑の記述によれば、彼は「物真似芸人」imitatorであった。彼は宴会の会食者の動作や声を見事に真似し、会食者を驚かせたと墓銘碑には刻まれている。かつてはこの記述をもってヴィタリスは西欧世界における最初の「役者」であっと考えられていた。しかしヴィタリスは優れた物真似芸の持ち主であったかもしれないが、われわれが思い浮かべるところの「役者」であったかどうかはわからないのである。

プラウトゥスとテレンティウスの影響のもと、十二世紀に聖職者によって書かれた何編かのラテン語の「演劇」作品が残っている。ギュスターヴ・コエンと彼の弟子たちは『十二世紀フランスのラテン語「喜劇」』のタイトルでこれらのラテン語のテクストの校訂・翻訳を出版している*。彼らは「喜劇」を引用符でくくっている。これは、これらのテクストが上演のために書かれたものなのか、それとも公衆を前に読み上げられるためのものであったのか、あるいは個人の読書のために書かれたものなのか、テクストの文面からは判然としないからである。これらのテクストは学識ある作者による創作で、聖職者学校での学習用テクストとして書かれた可能性が高い。コエンたちが編纂した十二世紀のラテン語「演劇」作品には、地の文が対話体のなかに挟み込まれていたり、ほとんど語りといっていい長大なモノローグがしばしば用いられたりするといった、真正の演劇作品とはみなしがたい要素が含まれている。収録されているテクストの中では、アンフィトリオンの神話の翻案である『ゲタ』、プラウトゥス作品の翻案だと考えられる『アウルラリア』、『バビオ』(一人の若い娘に嘲弄され、妻に馬鹿にされた不幸な老人の話)については、聖職者の学校で実際に上演された可能性がないわけではない。しかし仮に上演されたとしても、その上演方法は「テレンティウス的やり方」での上演であったに違いない。すなわち一人の朗唱者と複数のパントマイム役者によって上演されていただろう。

* Gustave Cohen, et als., éd. et trad. La "comédie" latine en France au XIIe siècle,Paris, Les Belles-lettres, 1931.

【02-01役者とジョングルール】演劇とジョングルールの芸能2011/10/23 03:36

町の広場で上演されていた中世都市における演劇活動について述べる前に、中世文芸全般に拡散していた演劇性について言及しておく必要があるだろう。少なくとも13世紀までは、中世フランスのあらゆる文芸活動は演劇的状況のもとで行われていた。その担い手となったのが、ジョングルールと呼ばれる放浪の旅芸人である。この当時のほとんどの人間は、ジョングルールによる口頭表現を通して文芸作品を享受していた。パフォーマンスは、当時、文学作品の最もありふれた受容のあり方だったのだ。中世人にとって、武勲詩、聖者伝、宮廷風韻文物語、抒情詩、あるいはファブリオ(韻文小話)は聞くものであり、彼らはこれらの作品を読むことは通常なかったのである。現代フランス語でジョングルールとはもっぱら曲芸、軽業の芸人を指すが、中世では彼らはこうした曲芸の他、楽器演奏、歌唱、ダンスなど多芸に通じた職業芸人だった。そして文学作品の朗唱などの語りもの文芸の担い手でもあった。

物語の語り手となったとき、ジョングルールと演劇の役者の境界はしばしば曖昧なものとなる。韻文物語、ファブリオなどの語りものは、直接話法で書かれた対話の部分とナレーションである地の文の二種類の文で構成されている。ジョングルールは地の文では語り手となる。もしその語りに旋律がついていれば、その時、ジョンルールは歌い手となる。そして対話体の部分では、ジョングルールは役者のようにその役柄を演じていた可能性が高い。例えば、十三世紀に書かれたファブリオ、『コンピエーニュの三人の盲人』には直接話法が連続する以下のような場面がある。

Li troi avule a l’oste ont dit :
« Sire, nous avons un besant,
Si cuidons bien k’il soit pesans :
Se nous en donnés le sourplus,
Anchois que del vostre aions plus.
Volentiers », li ostes respont.
Fait li uns : « Quar li baille dont !
Li quels ? - Vous ! - Ba, je n’en euc mie !
Dont l’a Robers Barbe Flourie.
Non n’ai ! - Mais vous l’avés, bien say !
Par le cerveille bieu, non ai !
Et qui l’a dont ! - Tu l’as ! - Mais tu !
Faites, u vous serés batu,
Fait li ostes, seignor truant,
Et mis en longueigne puant,
Anchois que vous partés de chi !
A, lui dient, pour Dieu, merchi,
Car mout tres bien vous paierons ! »
(Trois aveugles de Compiègne, v. 148-164)
三人の盲人は宿屋の主人に言った。「ずっしり重いブザン硬貨を一枚もっているのだけれど、額が多かったら釣りをくれないかね」「もちろんですよ」と主人は答えた。三人のうちの一人が言った。「さあ払ってやれよ」「誰が?」「お前だよ」「え、俺は金を持っていないよ」「それじゃあ髭面のロベールが持っているんだな」「いや俺も持ってないよ」「おい持ってるんだろ、わかってるんだよ」「神の脳みそにかけて、俺は持ってないよ」「それじゃあ誰が持っているって言うんだ?」「お前だろ」「いやお前だろ」「払って下さいよ、さもなきゃ痛い思いをすることになるかもしれませんよ、乞食の旦那がた」と宿屋の主人が言う。「ここを出発するどころか、臭い場所に閉じ込められるはめになりますよ」。三人は主人に言った。「ああ、お願いです、どうかお慈悲を。ちゃんとたっぷり払いますから」

このように複数の人物が続けさまに会話をやりとりする箇所を朗読する場合、もしジョングルールが声色の変化や、時にはジェスチャーを交えて、はっきりと人物を演じ分けなければ、聴衆は台詞の話者がどの人物なのか混乱してしまうかもしれない。このような場面でジョングルールが人物を演じ分けたとき、語りによる人物描写と演劇における「人物化」とをはっきりと区別することができるだろうか? こうした語りによる演じ分けはその場限りの簡略なものにすぎず、語り手であるジョングルールは役者のように人物になりきったわけではない、と考える人もいるだろう。しかし演者がたった一人の人物になりきる場合にだけが演劇であり、演者が複数の役柄を続けさまに演じた場合には、それを演劇と呼ぶことはできないのだろうか? もしそうであるならば、この原則を守っていない多くの現代の舞台芸術作品を演劇と呼ぶことはできないのだろうか? もう少し古い時代の事例を例にとって考えてみよう。十七世紀の劇作家、スカロンの小説、『演劇物語』の冒頭で、ラ・ランキュンヌという役者が悲劇の場面を詳細に語る場面がある。そこで彼は登場するあらゆる人物を一人で演じ分けた。しかし彼にとってそれは演劇に他ならなかった。

結局のところ、すべては演者であるジョングルールの態度次第なのである。もしジョングルールの人物造形が断片的でおおざっぱなものにすぎなければ、そのときジョングルールは基本的に語り手に留まっている。しかしもしジョングルールがたとえ短い場面であっても、動作や声によって人物をはっきりと表現することを目指していたなら、そのときジョングルールは間違いなく役者なのである。例えば十三世紀半ばに書かれたリュトブフの『薬草売りの賦』では、作者は街頭の薬売りが自分の商品の驚異的な薬効、効用の数々、値段の安さを語る口上が演劇的に模倣されている。この口上の模倣は演劇作品たる資格を十分に備えている。ジョングルールはきわめて自然に薬草売りへと同一化していくため、ジョングルールと観客の関係は、街頭の薬売りとその周りに集まる野次馬たちとの関係と重なり合う。この独白劇の冒頭は次のようになっている。

座って下さい、お静かにお願いしますよ。うんざりした顔をなさらずに、まあ私の話を聞いて下さいな。

この台詞を話しはじめた時点で、ジョングルールはジョングルール自身として語り始めているのか、それともすでに薬草売りになりきってこの台詞を語っているのか判然としない。語り手から役者への移行はこのように巧妙に仕掛けられている。これはジョングルールが自分以外のジョングルールを演じる場合でも同様である。『二人の放蕩芸人』では、二人のジョングルールが互いに相手をののしり、自分の技芸を自慢しあう。この作品の場合、二人の登場人物をそれぞれ喜劇的に誇張することによって、同業者である相手の姿が対象化されている。才能あるジョングルールが、自分のライバルであるジョングルールを戯画化してからかうさまが演じられているのである

【01-13教会の演劇】観客としての神と典礼劇の限界2011/10/16 02:33

典礼劇では神の全能性を主張し続けるが、『アダン劇』では邪悪な存在を強調することで従来の典礼劇の枠組みを踏み越えようとしている。しかしここでもう一度繰り返しておこう。われわれは『アダン劇』あるいは他のいくつかの十一、十二世紀の典礼劇に取り入れられた新しい試みを、演劇史の大きな流れに関わる現象として一般化することはやはりできないのである。フルーリー=シュール=ロワールやリモージュのような、その当時の文化的先進地の聖職者共同体で制作・上演されることが多かったこれらの作品に見られる革新はもちろん演劇史のなかで言及されるべき事柄ではあるが、その影響は決定的なものではなかった。同じ時代に他の地域では、これらの典礼劇よりもはるかに保守的で原始的な典礼劇は上演されていたし、さらには中世の終わりまでずっとそうした未熟な典礼劇は各地で上演され続けるのである。

中世演劇は教会の外に抜け出すことはなかった。いやより正確には、中世演劇のなかのある種のタイプのものは教会に留まり続けたのである。B.D.ベルジェは、「演劇は人間のために作られ、上演された、人間による営為であり、典礼は神のために作られ、執り行われる人間による営為である」と言う*。この言に従えば、演劇であると同時に典礼でもあった教会の典礼劇は、神と人間という二種類の観客のためのものだったのである。典礼劇では、神という目に見えない観客の存在を決して忘れてはならない。スペクタクルは神という不可視の存在に対して捧げられたものだった。典礼劇とは、神に対する信徳の表明であり、神の賛歌であった。神の奇跡を目にすることで観客は、改悛と喜びを感じ、楽天的な気分にひたった。嘆きの声ももちろん神へ届けられた、しかしその嘆きはいつも一時的なものに過ぎない。なぜなら「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(『新約聖書』「マタイ伝」5:4)からである。

観客としての神の存在ゆえに、典礼劇には踏み越えてはならない厳しい制約があった。『アダン劇』の作者はこうした制約を何とか乗り越えようとした、あるいは少なくとも、表現の領域を押し広げようとしたに違いない。神自身が舞台に現れる『アダン劇』において神がなお観客として想定されていたかどうかは微妙な問題である。劇のなかでの神とアダンの関係は、創造主と被創造者の関係よりはむしろ主君とその家臣の関係を想起させることは興味深い。もし人間が芝居の中心となってしまえば、典礼劇はたちまちそのバランスを失ってしまうというのに。

『アダン劇』のなかに現れる人間と神の関係には、この時代に生まれた新しいメンタリティの影響が感じられる。そのメンタリティとは、個人という観念と倫理的意識の発達、そして現世的・世俗的生活の肯定という考え方である。しかし人々のこの大きな精神的変化をもたらしたのは、農村の大修道院や修道院ではなく、この時代に台頭し始めた都市のリアリティである。中世都市の隆盛のなかで、都市住民であるブルジョワのための新しい演劇が準備されつつあった。その新しい演劇に求められる機能も、その上演の方法も、教会の典礼劇とは異なるものだった。都市住民のための新しい演劇には、典礼劇から影響がまったく見られないわけではない。しかしこの演劇は教会からではなく、都市環境のなかで生み出されたものだった。

さまざまな演劇的革新が盛り込まれた『アダン劇』はその本当の後継者となる作品を持たない演劇作品となった。奇跡劇、聖史劇といった演劇が作られるようになるのは、教会の典礼劇の最盛期よりさらに二世紀、後になってからである。『アダン劇』は教会の演劇の枠内にとどまった作品である。このジャンルの演劇を生み出した教会建築の内部に従属し、この場所に囚われたままの状態にあるのである。教会の典礼劇には確かにさまざまな制限があったが、にもかかわらず大量の作品がその枠内で生み出された。『アダン劇』以後も長期間にわたって教会のなかで、神と人間という二種類の観客を前に、典礼劇は上演され続けたのである。

BERGER (Blandine-Dominique), Le Drame liturgique de Pâques du Xe au XIIIe siècle, Paris, Beauchesne, 1976.

【01-12教会の演劇】『アダン劇』、ことばによって獲得された自由2011/10/09 01:40

『アダン劇*(アダム劇)』が教会の典礼劇に属するという見方には異論があるかもしれない。ギュスタヴ・コエンはこの作品を準典礼劇と呼び、その後、多くの研究者は『アダン劇』に対してこの呼称を用いた。しかし準典礼劇というジャンルは、この『アダン劇』一作を説明するだけのためにわざわざ作られたようにも思われる。『アダン劇』はそれまでの典礼劇のように教会建築の内部で上演されたのではなく、教会前の広場で上演されたという仮説がこれまで広く支持されてきた。演劇が教会堂の中から徐々にその外側で上演されるようになり、一世紀ないし二世紀のあいだ、教会堂前の広場で上演される時代が続いたのち、都市の大広場へと上演の場が移っていくという道筋を思い描く研究者たちにとってこの仮説には説得力があった。

しかし最近の研究では、上記の仮説にあるような流れで、演劇上演の場が時代とともに移り変わることはなかったと考えられている。教会前の広場で演劇上演が行われたという記録は実際にはほとんど確認することができない。そして『アダン劇』もまた他の典礼劇と同じように、教会の内部で上演された可能性がきわめて高いという説が現在では有力になっている。『アダン劇』の台詞はフランス語で書かれているが、ト書きはラテン語で記されている。そのト書きには「そして神はeclessiam(教会)に向かう」« Tunc vadat Figura ad eclessiam »、「神はeclessiam(教会)へ戻る」« Figura regredietur ad ecclesiam »といった記述がある。このト書きの記述から、大聖堂の正面の扉を背景に、この劇が教会前の広場で上演された様子をコエンなどの研究者は想像したのである。問題となるのは« eclessiam »という語の解釈である。オランダの研究者、ウィレム・ノーメンWillem Noomenは、この文脈で« eclessiam »は建造物としての教会を意味せず、教会内部で« eclessia »と呼ばれていた象徴的な場所を指し示すと考えるほうが妥当であると主張した**。その象徴的な場所とは、内陣の奥にある聖所である。『アダン劇』は、教会の演劇にとって重要な象徴の軸に沿って演じられたとノーメンは考えた。聖所は教会内部の東側に位置し、『アダン劇』では「教会」« eclessia »と呼ばれている。一方、地獄は西側の扉口に設定されている。人間たちの場所は(とりわけ地上の楽園は)この二つの地点の真ん中にあった。観客はおそらくこの東西の軸の両側から『アダン劇』の上演に立ち会っていた。以上がノーメンの仮説に基づく『アダン劇』の上演の光景である。

ノーメンの解釈では、フランス語で書かれた最古の演劇作品である『アダン劇』は、典礼と依然強い結びつきを保持していたことが強調される。『アダン劇』が上演された場合、おおよそ上演時間の半分がラテン語による典礼聖歌で占められることは、写本の記述、あるいはその記述に基づいて校訂されたテクストからは見落とされやすい事柄である。というのも作品に挿入されている聖歌は、テクストのなかではその冒頭の数語しか記されていないからである。聖歌が作品のなかで重要な役割を果たしていることもまた『アダン劇』がまだ教会の典礼劇の伝統に属していることを示している。

この作品は台詞がすべてフランス語で書かれた最初の演劇作品であるが、その一方で、聖歌隊はラテン語で歌い、舞台指示表記(ト書き)もまたラテン語で書かれている。このラテン語によるト書きは、他の典礼劇テクストと比べると例外的といってもよいほど詳細に記述されている。役者たちの演技に関する指示にはとりわけ細かい指定がされていることは注目に値する。例えば作品の冒頭のト書きには以下のようになっている。

「(…)アダンは自分が返答しなければならないタイミングをしっかりと把握しておくこと。返答は早すぎても、遅すぎてもいけない。アダンだけでなくすべての登場人物は落ち着いて話し、自分が喋っている内容にふさわしい動作をするように、訓練されていること。韻文の部分では、役者たちは音節を付加したり、削除したりしないこと。はっきりとした調子ですべての音節を、しかるべき順序で発音しなくてはならない。天国と台詞のなかで言った者は誰でも、天国の方を見て、天国を指ささなければならない」

ト書きの指示の細かさから、上演に不安を覚える心配性の作者の姿が浮かび上がる。経験の乏しい役者たち(若い聖職者たちか?)が、演技のときにあわてたり、不明瞭な発声で台詞を話したりすることによって、テクストの内容が観客にしっかりと理解されないことを作者は恐れている。台詞の言葉のひとつひとつはそれぞれ丁寧に扱われなくてはならず、不明瞭な発音によって観客を混乱させるようなことはあってはならない。中央には周りより高くなっていて、幕と絹の布でとりかこまれた場所がある。そこが地上の楽園であることを理解されなくてはならない。そのために演者たちは「天国」という言葉を発するたびに、その場所を手で示さなくてはならない。

作者による指示がこれほどまでに細かいのは、役者の技術的が未熟であったからかもしれない。しかし『アダン劇』ではことばが決定的に重要な役割を演じる演劇作品であることが、この例外的に細かいト書きの配慮の背景にはあるようにも感じられる。最初のフランス語演劇作品である『アダン劇』は、その後のフランス語演劇の伝統を予告するかのような、言葉の演劇なのである。最初の典礼劇、「聖墓訪問」で、天使は三人のマリア(そして観客たちに)次のように言う。「こちらに来なさい、そしてごらんなさい」。「聖墓訪問」では事柄を示し、証言する演劇である。『アダン劇』はそうではない。劇が始まるとすぐ神はアダンを近くに呼び寄せる。そしてアダンに次のように言う。
「聞け、アダン、私の話を聞くのだ」

作品の最初から最後まで、対立は言葉のやりとりによって表現される。神による勧告と悪魔の誘惑、アベルの「説教」とカインの荒々しい奔放さが、言葉によって対照される。最初の人間たちが犯した罪自体を描写するよりもむしろ、それがどのように、そしてなぜ行われてしまったのかを劇中で解明することに重きがおかれる。いかにしてエヴァが悪魔のまことしやかなことばに屈していったのが理解されなくてはならない。リンゴをかじるまさにその時にさえ、エヴァはあたかも「アドバイスを聞くかのように、蛇に耳を近づける」。アベルとカインの論争の内容にもしっかりと注意が払われなくてはならない。カインがアベルに死を予告する場面から、アベルの殺害の場面のあいだには、40行にわたる言葉のやりとりが行われる。『アダン劇』の最後に置かれた「預言者たちの行列」は、これらの対立の論理的な帰結を示すことなる。言葉による過ちの場面が提示された後に、預言者たちによって贖罪が告げられるのである。

『アダン劇』では台詞に大きな重要性を付与されており、これにより登場人物はそれまでの典礼劇にはなかった大きな演劇的な自由を手に入れた。まず登場人物の心理が台詞によって描写されるようになった。悪魔が優しい声でエヴァの耳に誘惑を吹き込む場面のやりとりはとりわけ印象的である。さらに、言葉を獲得することによって登場人物が、教義、あるいは運命に対抗する存在として自立した存在となったことが台詞を通して表明されたことも重要である。アダムとイブ(そしてカインまでもが)熟考し、ためらい、話し合う様子が再現されるのを目にするとき、彼らの犯した過ちはもはや運命的なものだとは感じられなくなる。『アダン劇』では、すべては既に演じられてしまった事柄ではない。すべては、観客の目の前で今まさに演じられているのである。登場人物のそれぞれが自分の行為に対して完全な責任を有している。だからこそ彼らは罪深い存在となる。台詞だけでなく、視覚的な面でもより写実的な趣向が取り入れられた。作り物の蛇が木をよじ登り、アベルの服のなかには血がたっぷり入った鍋が隠されていた。舞台上での行為は、そこで行われている論争と同じくらい写実的に演じられる必要があったのである。

『アダン劇』は演劇史における重大な転換点となった。『アダン劇』以後、人間が演劇的世界の中心に現れるようになったのである。一方には神の力、他方には悪魔の策略があり、人間はそのあいだにいる。人間は善と悪の間に立ち、どちらかを選択するよう勧告されている。人間はもはや神の手によって繰られる道具であることをやめ、自立した存在となった。

『アダン劇』で強調されているのは神よりもむしろ悪魔の力である。悪魔はこの劇を実質的に支配する登場人物である。悪魔は舞台上を徘徊し、エヴァと短い会話をする場面の前には、観客のすぐ近くまで近づいてくる。そしてアダムの堕罪のあと、アダムとエヴァが背中をむけるやいなや、悪魔は彼らの耕した畑にとげの生えた草をまき散らす。その後、悪魔は二人を鎖でつなぎ、足を踏みならしながら地獄へと連れ去る。邪悪な存在の役柄は、どの時代の演劇作品でも、善良な存在の役柄より豊かな演劇性を備えている。現在では失われてしまった『アダン劇』の結末では、おそらく世界は均衡を取り戻していたであろう。いずれにせよ、『アダン劇』はこのように、演劇世界の主要な登場人物として悪魔と魔王という邪悪な存在を取り入れたのである。


*『アダン劇』の日本語訳(ただし「アダムとエヴァ」の部分のみ)は、福井秀加氏による以下の論文で読むことができる。福井秀加「アングロノルマン『アダム劇』訳」、『大手前女子大学論集』第19九号(1985年)、1−20頁。この論文は国立情報科学研究所のCiniiからダウンロード可能。http://ci.nii.ac.jp/naid/110000046270
**NOOMEN (Willem), “Le Jeu d’Adam, étude descriptive et analytique”, Romania, t. 89 (1968), p. 145-193.

【01-11教会の演劇】典礼劇の言語:聖職者のことばと民衆のことば2011/10/02 23:59

愚人祭でとり行われていた儀式には確かに演劇的要素が含まれているが、これを独立した演劇ととらえるのは行き過ぎた見方となるだろう。愚人祭で役者として何かを演じていたのはロバあるいは子供たちの司教に限られており、儀式のなかで演劇的な部分というのは限られていた。

ここで重要なのは、その見かけの猥雑さ、世俗性にも関わらず、愚人祭が聖職者たちによって担われていたという事実である。いわゆる典礼劇にせよ、愚人祭にせよ、教会の中で行われるあらゆる演劇的パフォーマンスは、聖職者が独占的役割を担っていたのである。こうした作品はラテン語でもっぱら記述されていたことが、この何よりの証拠である。「聖墓訪問」を記録している『聖務規則集』の中で、聖エテルウォルドは「無知な民衆と新しい修道僧の信仰を確かなものとするため」[ad fidem indocti vulgi ac neofitorum corroborandam]この典礼劇が作られたと記している。この記述が、典礼劇が文盲の民衆の教化を目的としているという説明の根拠のひとつとなっている。しかし« indocti vulgi »は民衆だけでなく、教養の乏しい下級聖職者を指していた可能性もある。そもそも典礼劇が聖書の内容を伝えるという民衆教化を第一義としていたならば、一般信徒には理解できないラテン語でそのメッセージを伝えるというのは理屈に合わない。また十二世紀になるまで、典礼劇のテクストはすべて歌われていた。音楽は聴衆の感覚に直接訴えかけるが、テクストの内容理解の補助手段となるとは思えない。

ラテン語と歌は、典礼儀式とその祭式者(すなわち聖職者)と固く結びついていたため、俗語による典礼劇はなかなか現れなかった。俗語が用いられた最初の劇作品は、十一世紀末の『花婿の劇』Sponsusである。この劇は「マタイ伝」第25章にある「賢い花嫁と愚かな花嫁」の例え話に基づいている。この典礼劇ではラテン語で書かれた詩行に、フランス語の翻訳が挿入されている。しかしそれは単なる翻訳ではない。ラテン語のテクスト全体が、たった一つのフランス語のリフレイン句によって要約されていることもあれば、ラテン語のテクストには登場しない人物(大天使ガブリエルや香油の商人たち)がラテン語を一切使わず、フランス語だけで話すこともある。卓越した文学性と音楽性を有する『花婿の劇』は、以下の二つの点で演劇史的な重要性を持っている。まずこの作品は聖書の譬え話を題材とする最初の劇作品であることだ。それまでの典礼劇はすべて、歴史的事実とみなされていた聖書のエピソードを演劇化したものだった。第二の点は、『花婿の劇』はラテン語を理解しない観客にも開かれた最初の演劇作品であるという点である。

アベラール*の弟子だったヒラリウスHilariusは、典礼劇の作者のなかでその名が知られている最初の、そして唯一の人物である。彼の作品のなかにはときおりフランス語が取り入れられている。ラテン語ではじまった台詞が途中からフランス語に変わり、フランス語で締めくくられる箇所がいくつかある。しかしそれを『花婿の劇』でのフランス語の導入とは同列に考えることはできない。ヒラリウスの作品の成立年代は『花婿の劇』よりも前だが(1125から1150年)、そこで使われるフランス語は、ある種の文体上の効果を狙った詰め物のようなものに過ぎず、ラテン語を話さない観客の理解に貢献するものではない。

結局のところ、12世紀になってもなお、教会で上演されていた典礼劇は本質的に、聖職者たちのために、聖職者たちによって書かれた演劇だったのである。もし一般信徒が観客としてその上演に立ち会っていたとしても、彼らは主要な観客とは見なされていなかった。教会で上演に立ち会った一般信徒は、音楽に心動かされ、その所作に魅了されたかもしれない。しかし彼らはそこで語られるテクストのニュアンスを理解することはできなかった。そもそも民衆の理解に配慮することなく典礼劇は制作され、上演されていたのである。

しかし12世紀中頃に極めて重要な例外的作品が現れる。それは『アダン劇』である。フランス語で全編が書かれたこの傑作は教会の典礼劇の系譜に属している。

*Pierre Abélard (1079-1142)フランスの初期スコラ神学者,哲学者。ラテン名はペトルス・アベラルドゥス Petrus Abaelardus。ナントに近いパレに生まれた。1108年ころパリに出て弟子を集め、神学と哲学(弁証術)を教える。ここで起こったエロイーズ との相愛事件は有名である。

【01-10教会の演劇】驢馬祭(あるいは愚人祭)の賢明さ2011/09/26 15:49

降誕祭(12/25)から公現祭(1/6)の十二日間にわたって多くの教会で行われていた「驢馬祭」あるいは「愚人祭」は、世俗的、涜聖的な要素も受け入れる中世の教会の大らかな側面を典型的なかたちで示す宗教儀礼である。これらの祝祭で執り行われていた儀式では、例えば貧民たちの象徴だったロバを讃えるミサを行う、幼児たちの司教として聖歌隊の子供を選出するなど、社会的役割が転倒する《逆さまの世界》が常に提示された。日常の秩序をひっくり返す無礼講の祭であったにもかかわらず、これらの祭の出発点が教会のなかにあったことには注意する必要がある。「驢馬祭」は、世俗の一般信徒たちによる教会的秩序への異議申し立てではなく、助祭や副助祭、あるいはもっと身分の低い聖職者たちによって、彼ら自身のために執り行われた祝祭だった。一般信徒も、聖職者に混じって儀式に参席し、儀式のあとに行われる行列に加わり、町中を行進した。しかしこれらの祝祭の主役は何よりもまず下級聖職者であり、その実施は教会に認められていた。教会参事会会員や司教といった高位聖職者たちが、これらの祭を非難することはかなり後の時代になるまでなかったのである。

十三世紀はじめに「愚人祭の典礼」を書き、そこでの所作や歌について典礼的観点から詳細に記述したピエール・ド・コルベイユはサンス大司教だった。長時間におよぶ典礼の内容が事細かに記されているが、その滑稽さには節度が守られている。「愚人祭」の典礼では、ロバを讃えるいななきが模倣され、多声の聖歌が歌われる。そして最後は熱狂的な祈りによって儀式は締めくくられるが、そこにはいかなるパロディの意図も感じられない。「驢馬祭」の典礼では正統的な典礼の形式が保持されているのである。

十二日間にわたるこれらの祝祭には、放縦と風刺が横溢していた。その口実となったのはマニフィカト(聖母賛歌)の一節である。そこには神は「専制君主を玉座から転覆させ、貧しき者たちを玉座に上げた」とある。教会の高位聖職者たち、とりわけ司教座聖堂参事会員たちは身分の低い聖職者たちがこの祝祭で野放図に振る舞うことを容認した。前キリスト教的な祝祭の基層を教会の行事のなかに取り込むことによって、抑圧されていた下級聖職者たちの不満を発散させようとしたのである。冬至は太古より祝祭と結びついていた。祝祭が行われることで、社会的役割が一時的に混乱・転倒し、原始的な混沌の状態が再現された。どれほど滑稽で卑俗な内容を含んでいたにせよ、「驢馬祭」は司教座聖堂参事会がその権威を示す重要な機会の一つだった。時代が下ると、「驢馬祭」の是非を巡る深刻な争いが起こるようになった。例えば1240年のマンでは、大修道院院長が参事会会員の優位を重視して、愚人たちの司教に飲み物を与えることを拒んだことから争いが起こった。

「驢馬祭」に対する非難が高まり、その開催を禁止する声が上がるようになるのは中世末期である。ここで批判の先鋒となったのは風俗の矯正を求める人たちや大学の博士たちである。「驢馬祭」はこの頃になると確かにさらに奔放さを増し、反体制的な性格を持つようになっていた。時代が下るにつれ、非難の声は徐々に高まり、開催が禁止されることが多くなった。しかしにも関わらず「驢馬祭」は十六世紀まで活発に行われた。禁止によって中断されても、何年かあとに復活することもあった。宗教的権威や世俗権威が何度にもわたって禁止令を出していることから、「驢馬祭」が教会の行事のなかに強く根付き、なかなか廃れなかったことをうかがい知ることができる。

【01-09教会の演劇】典礼劇の写実性2011/09/24 00:47

多くの研究者が指摘しているように、時代が進むにつれ典礼劇の表現は徐々に写実性を増していった。しかしそのリアリズムは、当然、近代十九世紀のリアリズムとは同じものではない。中世典礼劇のリアリズムは、現実世界の複製ではなく、複製を通して世界の意味を伝えることを目指していた。中世の時代、表現に値する唯一の現実とは神であり、芸術の機能は神についての言説を述べることにあった。

そえゆえ典礼劇のなかで世俗の人物が表現されていたとしても、それは絵画的な探求を目的としていたわけではない。写実的な描写を通して、宗教的神話の表象に確固たる豊かさと奥行きを与えることが目的だったのである。エマウの巡礼者たちの劇では、巡礼者の役柄を演じる者は、サンチアゴ=デ=コンポステラへの巡礼者のような服装を身につける。香料を売る商人の役柄を演じる者は、中世の商人がそうしていたのと同じように、三人の聖女たちに香料を売る。香料売りの商人の役柄にフランス喜劇の起源を見いだそうとする研究者もいるが、この役柄を喜劇的な人物として提示するには、相当発達した演劇的なセンスが必要とされたはずだ。

典礼劇のスペクタクル化はこのように進展したが、それは控え目なものであり、その主要な目的は筋立てをよりわかりやすく提示することにあったようである。聖女たちはそれゆえ典礼の儀式で用いられていたつり香炉ではなく、もっと日常的に使われていた香料入れの箱を手にしていたし、兵士の役を演じる聖職者たちは武具を身につけた(ゲルホッフ・フォン・ライヒェルスブルクが嘆いたように)。そして舞台装置も用いられ始めた。最初期の例としては、イエス生誕の家畜小屋へ向かう東方の三博士のあとを追う星々がある。

用いられる視覚的効果は依然素朴なものだった。ネブカドネザルが若い三人のユダヤ人を放り込むかまど(そのなかでは麻わらが燃えている)、大口を開けてダニエルを脅すライオン、バラム*の飼っている言葉を話すロバなど。衣裳もまた凝ったものになっていった。「預言者たちの行列」のト書きには各預言者の衣裳が細かく記されている。観客は、預言者の着ている衣裳を見れば、入場してきたのがアロンあるいはハバククなのか見分けることができたはずだ。

ただし現存するほとんどの典礼劇のテクストでは、舞台に関する指示(ト書き)は、断片的な情報しか記していない。多くの場合その記述から舞台状況を再現するのが困難であり、これは典礼劇の記録が、上演状況の再現よりもテクストの内容の伝達を目的としていたことを示している。詳細なト書きが記録されるようになるのはかなり後になってからだ。1372年にアヴィニョンで上演された『聖母マリアの奉献』には、壇の大きさと登場人物の服装などの情報が極めて詳細に記録されている。しかし十四世紀後半のこの時代でも、『聖母マリアの奉献』のト書きの精密さは例外的なものだった。これはト書きの記述者であるフィリップ・ド・メジエール**が、中東で(とりわけキプロス島で)盛んに行われていた「聖母マリアの奉献」の式次第を西ヨーロッパに定着させたいと考えていたため、典礼劇のなかにもこのように詳しいト書きが残されたのだと考えられている。

役柄の人物造形もまた全般的にはまだ生硬だった。ただし典礼劇で扱われる主題が拡大されることによって、登場人物が宗教的属性を失い、人間的な様相をみせることもあった。例えばフルーリー=シュール=ロワール写本に収録された聖ニコラに関する四つの典礼劇には、結婚する娘たち、殺される若い聖職者たち、改悛する泥棒たち、あるいは誘拐された子供といった人物が登場する。しかしこれらの作品は他の典礼劇に比べると逸話的な筋立てを持ち、登場人物たちにわずかながら個性らしきものが付与されてはいるものの、それでもやはりこれらの人物たちは聖ニコラによって行われる奇跡の道具だてにとどまっている。さら言えば、典礼劇の登場人物あるいはそこで描かれる状況に世俗的要素が強いからといって、典礼劇から宗教性が失われたと結論づけるのはきわめて現代的な見方である。中世における聖俗の境界は、十六世紀の反宗教改革が取り決めた聖俗の線引きとは同じではない。十二、十三世紀の教会は、我々なら《世俗的》あるいは《涜聖的》と感じるに違いない事柄を、驚くべき寛容さで受け入れていたのだ。

*旧約聖書の預言者。イスラエルの民を呪うことを求められたが、ロバに戒められ彼らを祝福した「民数記」22-23章。
**Philippe de Mézières (1327頃-1405)北フランス、ピカルディ地方出身の軍人、文人。多くの宗教的、教訓的著作を残す。東洋への遠征時に知り合った後のトリポリ伯ピエール(後にイェルサレム王国とキプロス王国の王となる)の寵愛を受ける。アヴィニョンにはキプロス王ピエールの大使として派遣されていた。ペトラルカがラテン語で書いた『グリセルディス』をフランス語に訳した人物としても知られる。彼の訳した『グリゼルディス』は別の人間の手によって十四世紀末に演劇作品に翻案された。

【01-08教会の演劇】典礼劇の時間と空間2011/09/18 03:29

教会の演劇では、時間と空間の飛躍という作劇上の性質、すなわち非連続的な時空を「可視化」するという性質が巧みに用いられている。教会内部の聖域は、いくつかの象徴的な場を典礼劇に提供したと考えられている。しかし教会内の場所に設定されたこうした象徴性は、典礼儀式のなかであまりにも厳密に定められているため、演劇の上演の場として用いるにあたってはその強すぎる象徴性が制約となる場合もあった。教会建築に数ある場の象徴のうち、とりわけ東西の軸の象徴性は重要で根本的なものだった。西構え[玄関広間、鐘塔などから成る多層構成の西正面部]は、日の沈む方向にあることから、死の場所を象徴し、典礼劇のなかではしばしば聖墓の場所となった。大祭壇は日の出の方角、つまりイェルサレムの方角に位置することから、イエス生誕の場面はここで演じられた。このように教会の東側は誕生と天国のイメージと結び付き、西側は死と地獄のイメージと結びついた。

典礼劇が教会建築の内部で上演されていたことは確かだが、教会内のどの場所で典礼劇が上演されていたかについては、研究者のあいだでも一致がみられていない。ベルナール・フェーブルは、ヤングなどの記述に基づき、教会建築の中央部の身廊を中心とした広い空間が典礼劇上演の場となっていた可能性が高いと主張している。しかしハーパーのように、典礼劇の上演は聖職者による聖職者のためのものであり、あくまで典礼儀式の枠組みのなかで上演されたものである以上、その上演の場は内陣に限られていたとする説もある。

演技の場を指すのに、典礼劇のテクストで最もよく使われていた語は« platea »である。古典ラテン語では« platea »は、「大通り、広場」を意味するが、ニエルマイヤーの中世ラテン語辞典*では、上記の古典ラテン語における意味のほかに「土手道;用地(屋内もしくは野外のいずれにも用いる);広場、場所、空間」の意味が、ブレーズの中世ラテン語辞典**では「場所、区域;教会内の柱廊(拝廊)」の意味が記されていて、実際のところ、この語が教会のどの場所を指していたのかは特定しがたい。フェーヴルは、« platea »は時に「舞台」を意味することもあったが、一般的には教会の床面を意味し、とりわけ身廊を指す場合が多かったとしている(フェーヴル前掲書26頁)。ただしこの語は内陣を指すこともあったとも記している。

新約聖書の「使徒言行録」第九章10-18節に基づく典礼劇、『聖パウロの改宗』のト書きは以下のように記されている。

「イェルサレムを表現するのに適切だと思われる場所に、司祭たちの王が座る椅子を一脚用意しておくこと。またサウル[改宗の後に、パウロに改名する]の扮装をした若い男が座る椅子をもう一脚、別に用意しておくこと。この若い男を武装した兵士たちがとりかこんでいる。その反対側、この二脚の椅子から十分離れた場所に、また別の二脚の椅子を用意しておくこと。このもう一方の側の二脚の椅子が置かれている場所をダスカマスとする。ユダという名前の男がそのうちの一脚に座り、もう一脚にはダスカマスのシナゴーグの王が座る。椅子の後には寝台が一台置かれ、そこにはアナニアを演じる人物が寝ている。」(ギュスタヴ・コエン『中世フランス宗教劇の演出の歴史*』より)。

フェーヴルはこの劇が教会の床面で上演されていたと想定する。上記の引用にあるように、上演の現場では、イェルサレムとダマスカスという二つの町は、間隔を空けて置かれた椅子とそこに座る重要人物によって示されている。二つの重要な町は、椅子というシンプルな舞台装置によって象徴的に示されている。しかしこの装置のシンプルさゆえに、遠く離れた二つの町が同一空間のなかで並置されていることが、視覚的に明確に表現される。これをフェーヴルは「非連続的要素の連続」と呼んでいる。典礼劇の上演が始まり、床面に置かれた椅子がそれぞれ町を意味することが伝えられるやいなや、教会は演劇的な空間となり、遠く離れた複数の場所が一つの空間のなかで、共存することが可能になるのである。

この「非連続的要素の連続」は、演劇的な場において、空間だけでなく、時間においても適用可能である。演技空間のなかではイェルサレムとダマスカスはほんの数メートルしか離れていない。それゆえ一方の都市からもう一方の都市に移動するには数秒しかかからない。舞台上では時間をこのように跳躍させることが可能になる。時間の流れ方もまた一定ではなく、不規則である。時間の進み方が加速する箇所もあれば、減速する箇所もある。例えば、旅程を表現するにあたっては、しばしば時間が圧縮される。イェルサレムからダマスクスまでの数秒の道のりが一週間を意味する。しかしドラマの展開が視覚的に中断されることがないために、一つのエピソードから別のエピソードに移行する際の劇中の時間の連続性はしっかりと維持されていた。

二十世紀はじめの演劇史研究者の多くは、典礼劇でこのように時・空間が自由に扱われていることに動揺した。彼らは典礼劇のこうした側面を中世の観客の「素朴さ」と「地理に関する無知」を引き合いに出して説明しようとした。しかし彼らは、典礼劇の時空の扱いを語るときに、幕が上下するたびに時や場所の変更が行われることを意味するという、中世典礼劇の時間・空間表現と同じくらい奇妙な近現代の演劇の慣習について思い浮かべることはなかったのである。中世の観客の誰ひとりとして、イェルサレムとダマスカスの間の旅程の演劇的時間がリアルなものであるとは思っていなかったはずである。二十世紀初頭の研究者たちは、規範的な演劇像というものを確固たるものとして持っていたがゆえに、そして中世典礼劇を原始的な演劇形態と見なす先入観があったがゆえに、典礼劇における自由な時・空間のあり方に大きなショックを受けたのである。他のジャンルにおいては、例えば、建築の上部彫刻、ステンドグラス、象牙細工、さらには写本装飾画などでは、この種の非連続的事象の並置を、当時の研究者たちはすでに確認していたにも関わらず、典礼劇に関してはそれを素直に受け取ることができなかったのだ。

* J. F. Niermeyer, Mediae Latinitatis lexicon minus, Leiden, Brill, 1997.
**Albert Blaise, Dictionnaire latin-français des auteurs chrétiens, Turnhout, Brépols, 1954.
***Gustave Cohen, Histoire de la mise en scène dans le théâtre religieux français du Moyen Âge, Paris, Champion, 1951, p. 24.

【01-07教会の演劇】典礼劇の発展:演劇性の拡大2011/09/15 02:34

演技者が演じる役柄と同一化する、これは十世紀から十二世紀の典礼劇に生じた根本的な変化の一つである。ゲルホッフ・フォン・ライヒェルスブルクが不快感を抱いたのはまさにこの問題だ。これをミシェル・マチウは「異化から感情への移行」と呼んでいる*。この異化は、役者と彼が演じる人物との間、役者と観客との間の二つの次元で行われる。

最初の典礼劇、「聖墓訪問」では、修道士は役柄を演じつつも、典礼の祭式者としての彼の役割は維持されている。修道士がマリアの役を演じるとき、彼は列席者に白布を見せる一人の聖女の姿を、あくまで祭式者として提示しているのである。修道士は役柄に部分的に同一化しているが、彼の本質的な役割は、典礼儀式の枠組みのなかで一つの聖書的事実(イエスの復活)を可視化することにある。イエスの復活の場面が演じられたとき、修道院長は「嬉しげに」満足した様子を表明したと記録にはある。しかしそれは、上演された内容に対してではなく(つまりイエスが復活したことではなく)、イエスの復活が典礼のなかで無事に再現されたことに対する反応なのだ。

「聖墓訪問」以後に作られた典礼劇においては事情が異なる。演技者である聖職者は、彼が演じる役柄と同一化し、観客となる会衆**もそこで演じられる役柄に直接向き合うようになる。マグダラのマリアを演じる聖職者は、キリストの死の際のマリアの嘆きを、それを見守る列席者とともに「分かち合」おうとする。演じ手である聖職者は自分が演じる人物と同一化(依然部分的なものではあるが)し、役柄の感じている感情を直接、観客である列席者に伝えようとするのである。イエスの復活の場面では、マグダラのマリアの歓喜は、その場面を観客として見守る列席者が感じる歓喜と重なり合う。こうして感情と同一化の転移が行われるのである。

典礼劇のなかの悪役(ピラト、ヘロデ王、あるいはネブカデネザル王)もまたドラマへの観客の感情的な参加を促す存在である。悪役の登場人物の意地悪さや残虐さに反発によって観客はドラマへと没入する。現在、オルレアン市立図書館に所蔵されているフルーリー写本(十二から十三世紀に制作された)に記録されている典礼劇では、ヘロデ王による「幼児の虐殺」のエピソードが舞台化されている。この場面がどのようなかたちで舞台化されたにせよ、こうしたエピソードの導入により、観客の感情移入を抑制する方向ではなく、観客の感性のより深い部分に訴えかけることを目指していることは明らかである。この劇では、虐殺の場面に続く最終部は、以下に述べるような演劇的構造によって、観客の興奮をゆっくりと沈静させる。
虐殺の場面のすぐあとに、母親であるラケルに対する慰めの場面があり、その後、子供たちの蘇生、ヘロデ王の懲罰と続く。観客は虐殺の場面で激しい怒りの感情をかき立てられた後、こうした平安な場の連続によってエジプトから聖家族が帰還する最後の場面まで導かれ、そして最終的には歓喜に満ちた合唱によって劇は締め括られるのである。

このように、教会の演劇は徐々に、会衆とスペクタクル、役者と観客の間に生じる感情的一体感に左右されるようになっていく。こうした結託が強化されたことによって、演劇的構造は急激に変化した。これが典礼劇に起こった第二の重要な革新を呼び起こす。
初期の典礼劇は一つの場面で構成され、そこで展開する筋立てもたいていひとつだけだった。聖女たちが聖墓へと赴く。羊飼いたちが家畜小屋へ向かう。エマオの巡礼たちがキリストと出会う。会衆が立ち会ったこうした聖なる時間の再現は、長大なものではないが、会衆はこの短いスペクタクルに立ち会うことで、事件の証人となったのである。聖書的事実の演劇的再現のあとには、《テ・デウム(主である神を称えます)》が歌われ、典礼は自分の権利を回復する。

しかし教会の演劇のなかに本物のスペクタクルが導入され始めると、そこでは空間的、そして時間的に不連続な場面が並列されるようになった。ピラトの宮殿のそばにキリストの墓が並ぶ。あるいは教会のカレンダーでは十二日間離れているイエスの誕生と東方の三博士の表敬が続けて上演される。こうした不連続な現象を並置する演劇的手法は、「預言者たちの行列」のようなより寓意性の高い形式においてさらに印象的なものになる。「預言者たちの行列」は、聖アウグスティヌスが行ったされる説教の内容に基づいて再現されたスペクタクルである(実際には聖アウグスティヌスはこのような説教は行っていない)。救世主の出現を預言した人物(モーゼ、ハバクク、バラーム、ダニエル、シビュラ、さらに他の預言者)たちが行列をなして、その預言を伝えにやって来るというものである。活躍した時代も場所もばらばらな人物たちが呼び出され、キリストの受肉を告げる。そこで表現されているのは旧約聖書全体、そして聖書が伝える古代世界そのものの姿である。こうした混在が生み出す意味とイメージの多様性は、演劇的構造のもとで統合される。その属性を示す伝統的な衣装を身につけた預言者たちは、あたかもついいましがた大聖堂の石造りの扉口からその場に降り立ったかのように、舞台空間のなかに登場する。一人の預言者の登場によって、その預言者の直前に現れた預言者が作り出していた時空は忘れ去られてしまう。そして次の預言者が現れるまでのあいだ、彼は演劇的時空を支配する。

こうした時間、空間の柔軟な展延性を導入することで、演劇は典礼儀式の従属から抜け出したのである。連続する場面を自在に語るすべを手に入れたことで、演劇は表現としての自律性を獲得し、典礼のテクストを単に形象化したものではなくなった。演劇的な場面の連続を形作るのはエピソードの区切れである。というのも区切れが存在することによって、参席者は時間的および空間的な飛躍をひとつの芸術的な約束事として受け入れることが可能になるからだ。そしてこの約束事を受け入れたとき、典礼儀式の参席者は、演劇の観客としての完全な資格を手にすることになるのだ。

*Michel Mathieu, « Distanciation et émotion dans le théâtre liturgique du Moyen Âge », Revue d'histoire du théâtre, 1969, p. 95-117.

**「観客となる会衆」まどろっこしい表現をここで用いたのは、典礼劇においてその上演を見守る「観客」とは、聖務日課やミサのときに教会内陣で祭式を執り行う聖職者集団を指すからである。つまり典礼劇の「観客」もまた儀式の執行者としてこの式典に参席しているのである。この当時の教会は、教会内部の聖域である内陣は隔壁によって一般信徒が入ることができる部分からははっきり区切られていた。一般信徒は内陣で執り行われている儀式の様子を見ることができなかった。声や歌声は聞くことはできただろうが、儀式の言葉はすべてラテン語だったため、一般信徒には理解することができなかった。聖務日課、ミサにしろ、その一部をなしていた典礼劇にせよ、聖職者によって、聖職者のために(あるいはそれらの儀式を献げる神のために)執り行われていたのだ。

【01-06教会の演劇】改革と反発:「聖墓訪問」以降の典礼劇2011/09/15 02:13

教会の演劇は「聖墓訪問」から始まったが、その題材は三人のマリアだけにとどまっていたわけではない。典礼劇の題材はその後まもなく、二つの方向で拡大していった。一つは、復活祭における典礼で、三人のマリアの聖墓訪問以外の新しいエピソードが劇のなかに取り入られるようになった。使徒ペトロとヨハネの聖墓訪問、マグダラのマリアの前に出現する主イエスといった福音書に記されている場面だけでなく、福音書には記述されていないエピソードも劇の題材として取り上げられるようになった。例えば聖女たちに香油を売る商人のエピソードなどである。

典礼劇の拡大の二つ目の方向として、復活祭以外の祝日でも典礼の一部の演劇化が行われるようになったことを挙げることができる。まず降誕祭に関係する作品群が制作されるようになった。羊飼いたちの礼拝、予言者たちの行列、東方の三博士の礼拝、ヘロデ王の嬰児虐殺の場面などである。次いで他の祝日の典礼にも演劇的形態が取り入られるようになる。そしてさらには、ダニエル、聖パウロ、聖ニコラなどの聖人や予言者たちに献げられた演劇作品も作られるようになった。

典礼劇が大まかにどのように発展していったかについては現存する作品からたどることはできるが、このジャンルの個々の作品の制作年代を特定することは難しい。初期(11−12世紀)の典礼劇のうち、手写本に収録されているのは、おそらく実際にこの時代の教会で上演された作品のうちのごく一部に過ぎない。またこれらの手写本は、作品の成立よりだいぶ後になってから制作されたものが多く、作品の制作年代は文体などの不確かでごくわずかな情報を頼りに推定するしかない。カール・ヤング*は現存する教会の演劇について綿密な比較・校訂を行った。作品の掲載順序についての批判はあるものの、ヤングの校訂本は現在の研究でも必須のものとなっている。ヤングは、単純なものから複雑なものへ変化していくという論理的発展が典礼劇の歴史にも見られると考えた。こうしたある種の進化論的発想に基づいてヤングは現存する典礼劇を分類したがゆえに、推定制作年代が大きく異なるテクストや、出自のまったく異なる作品が、彼の著作のなかでは並ぶことになってしまった。

教会の演劇の様相はきわめて多様であり、こうした恣意的で現代的な論理に基づいてその発展の過程を考察することには問題がある。典礼劇に見られるこうした発展の「論理的」段階は、作品の制作年代の段階と対応しているわけではないことにはとりわけ注意する必要があるだろう。もっともヤング自身もこうした連関を想定することを戒めてはいるのであるが。実際には、はるか後の時代になってもなお(十六世紀、さらには十七世紀になってもなお)極めて初歩的な段階の典礼劇がいくつかの教会では上演され続けていたし、その一方で、非常に念入りに作られた、高い水準の典礼劇が12世紀にはすでに上演されていたことも確認されている。それゆえ個々の現象はそれぞれ個別に考察する必要があり、そこから一般的な現象を導き出すことは慎重にならざるを得ない。ある地方で演劇に関わるとある慣例が確認されたからといって、その慣例が他の地方でも、あるいは同じ地方の別の都市でも受け入れられていたとは限らないのである。聖職者共同体(大修道院、修道院あるいは司教座聖堂)はそれぞれの伝統と自立性を守ることを重視していた。典礼の内容も、中央によって厳密に規定された画一的なものではなく、それぞれの聖職者共同体によって違いがあった。教会の演劇のあり方は、典礼の儀式以上にそれぞれの地域の状況に大きく依存しており、典礼のなかで演劇的な革新を進めた聖職者共同体もあれば、それとは逆に改革に対して保守的な共同体もあった。典礼劇の急速な発展を確認できるところもあれば、何世紀にもわたって同じ状態にとどまっているところがあるのは、こうした事情によるものである。

進んだ形態の典礼劇の多くは、当時、最先端の知的環境であった聖職者たちの学校で作られたと考えられている。十二世紀後半に書かれた、アベラールの弟子、ヒラリウスHilariusによる『ラザロの復活』、『ダニエル劇』、『聖ニコラの像』の三作はまさにこうした先進的な典礼劇の代表例として挙げることができる。またボヴェBeauvaisの『ダニエル劇』(作者不詳で、上記のヒラリウスの作品とは別の作品)の場合もそうだ。『ダニエル劇』の冒頭には、この劇が「青年」juventusによって上演されたことがはっきりと記されている。この「青年」とはボヴェの町の一般民衆ではなく、若い聖職者たちを指している。ドイツのベネディクトボイエルン修道院で制作されたラテン語歌集(《カルミナ・ブラーナ》の名で知られている)には、凝った技巧が用いられた演劇作品がいくつか含まれているが、これらの作品は体制外に身を置いた放浪の学僧たち(ゴリアール)の文化の影響がみられる。

こうした典礼劇の発展に対する反発もあったことも忘れてはならない。例えば、1123年ごろ、ドイツの神学者、ゲルホッフ・フォン・ライヒェルスブルクGerhoh von Reichersberg(1096-1166)は、アウグスブルクの修道僧たちによって「神の家の中で演劇の上演が行われた」ことについて強い調子で批判している。ゲルホッフはとりわけ、男が女を、聖職者が兵士を、人間が悪魔を演じるという「間違い」と「非常識」に対してとりわけ憤慨したのだった。つまりゲルホッフは、誰かが別の者を演じるという演劇特有のあり方に対して異議申し立てを行ったのだ。彼の考えでは、階層的に劣る人物を演じること、それはたとえ芝居の上演のためだとはいえ、己の品位を汚すことである。男性聖職者が女性を演じること、それはあたかも男であることを恥じているのと同然の振る舞いであると言って、ゲルホッフは演劇を非難したのだった。

*Karl Young, The Drama of the Medieval Church, Oxford Univ. Press, 1951, 2 vols.